「百十一」 トリは、俺達の世界で鳴いている
[ 百 十一 ]
「鳴いている鳥は、梟ですか? 百花さん」
先生が躯をかがめて、わたしの耳元でそっと尋ねた。
どうしてこのタイミングで、トリについて訊くのだろう。
先生の声は、塞いだ手の間からもやわらかく響いてくる。わたしはオダマキとの会話で強張っていた躯の力を抜くと、無言で頭を振った。
「では夜鷹でしょうか?」
再度先生が尋ねる。
「わかりません。鳥はいつだって鳴くんです。ここは嫌です。もう全部イヤ」
森の樹々の合間から、ほそく。高く。まだトリの声は聞こえてくる。
ジャー ジェイ ジャアアア。
トリはイヤ。大嫌い。
千花ちゃんも。オダマキも、イヤ。
「嫌なのですか?」
「嫌です。イヤイヤ」
「困りましたね。あれもイヤ。これもイヤで。きちんと応えてくれなければ、終わりにはなりませんよ。百花さん」
声は優しいけれど、先生もオダマキと一緒だ。わたしへ教えろと、要求をする。目を開け、両耳から手を離すと、仕方なく応えた。
「……しわがれ声で鳴いています。ジャージャー鳴いています」
「それは夜鷹ではないですね。では何でしょう? こんな夜半に鳥はめったに鳴きません」
「でもさっきからずっと鳴いているじゃないですか。先生だって聞こえるでしょう?」
「私には残念ながら聞こえません」
「え? でもホラ。風と一緒に聞こえてきます」
わたしは先生に言いつのった。なのに先生は知らない。聞こえないと言う。
「杉には本当に聴こえていないんだ、ももちゃん。だってトリは、俺達の世界で鳴いているんだから。ちなみに、ジャアジャア鳴いているのはカケスだ、ももちゃん」
望んでもいないのに。オダマキが会話に入ってくる。
わたしの視線の端では、オダマキに髪をいじられながら、千花ちゃんが笑みをふかく浮かべている。満足そうな。恍惚とした笑みだ。
ヤダな。背筋がぞわぞわとする。
意味も分からないまま、わたしの胸は不穏な予感に包まれた。
「小田巻君。カケスは夜には鳴きません」
先生がやんわりと、オダマキの台詞を訂正する。
わたしは先生が、かばってくれたみたいに思えて嬉しくなった。
「じゃあ違う! カケスじゃないよ」
先生の尻馬にのった形で、声をあげた。けれどオダマキは持論をひっこめない。
「間違いのわけない。さっき言っただろ? 俺には聞こえるんだ、ももちゃん。
カケスは鳴く。ジャアジャアと昼夜を問わずに、ももちゃんに呼びかける。そうだろ? ももちゃん。一人ぼっちで途方にくれる時。カケスは、ももちゃんに鳴きかける。カケスの鳴き声は、俺達とこの世界との連絡通路みたいなもんだ」
「……」
オダマキがナニを言っているのか、わからない。わかりたくない。
「カケスの別名を知っているか? ももちゃん。ジャアジャア鳴くカケスは、別の声でも鳴くんだ。ものまね鳥とも呼ばれている。カラスやトビ。それにウグイスなんかの声まで真似るってさ。まさにカケスは、君にぴったりだよ、ももちゃん。君そのものだ」
「ものまね鳥……?」
オダマキはなにを言おうとしているんだろう。
室内の暗さに、目はとうに慣れてきているはずなのに、闇はさらにふかくなっているように感じてしまう。
聞きたくない。オダマキの言葉は、わたしを仕留める毒になる。それは確信だった。
「ジャア。ジャア。ジェイイイイ」
突然。
室内でトリが鋭く鳴いた。
鳴き響いたトリの声に、反射的にわたしは視線をむけた。
視線の先にいるのは、おおきく口を開け放ち、カケスの鳴き真似をする千花ちゃんだった。
千花ちゃんは鳴き真似をしながら、合間にケタケタと笑う。面白くて仕方がないと言わんばかりに笑うその顔が恐い。わたしそっくりの双子の顔がわたしを追いつめる。
「まだ気がつかないのか? ももちゃん」
オダマキが、千花ちゃんの長い髪の毛を指に巻き付けたまま高くあげた。指の間にからまる髪の毛が揺れている。風を受けてではない。髪の毛はまるで意志があるかのように、自ら動いている。
なんともいえない気持ち悪いその様子に、わたしは吐き気が一気にこみ上げてきた。口元を急いで抑える。
「ジェイジェイジャアアア」
千花ちゃんが高く鳴く。
そしてケタケタ嗤う。
「やめて、千花ちゃん」
わたしの静止は千花ちゃんには届かない。
「ジャアジャアジャア。ももかは、いない。もももかは、わたしのお人形。ジャアジェイジャアアア。わたしのものまねトリだもの」
千花ちゃんの言葉が室内の空気を切り裂く。わたしのなかの秘密を暴こうとする。
オダマキの手を離れた千花ちゃんの髪の毛は、わたしに向かって病室の床を這ってくる。
ううん、違う。髪の毛にまぎれて、うねうねと蠢くものは生き物だ。真っ黒い千花ちゃんの髪に混じり、ぬとぬととした肌色がある。アレの尖端が、千花ちゃんの耳から延びて、髪のなかでのたくっているんだ。
わたしは逃げ出したくて、杉先生の腕のなかで激しく躯を動かした。
「離して! はなして! アレがくる! アレはイヤ!」
杉先生は微動だにしない。それどころか、わたしの躯をアレに向かって押し出した。
長くうねるもの達の波動が伝わってくる。
アレは、喜んでいる。
アレは、生きて思考している。
アレは、自ら餌を欲している。餌はなに? 餌はわたしだ! わたしは恐怖で躯が縮こまった。
「先生。アレは螺よ! 螺が千花ちゃんの耳から、のびている。ヤダヤダヤダ。こいつらは、わたしを餌にする気なんだ! 助けて!!」
カタツムリとは全然違う。でも分かる。これは螺らの一部だ。アイツらが千花ちゃんをちゅうちゅう吸い取り、肥え太って成長した姿だ。
螺のうごめく尖端が、わたしの足首に巻き付く。肌に感じる、ねとりとした感触に寒気が走った。
「助けて! ママ!! たすけて、たすけて、たす……」
わたしの叫びにこたえてくれる人は、誰もいない。