「百十」 全部ぜんぶ消えて欲しい
[ 百 十 ]
目の前でおきている事実に、頭がついていけなかった。
「ウソ……」
思わずもれたわたしの呟きにかぶさるように、「……けれどママがいたら、螺に気がついていたかもしれない」かすれた声がひくく響いた。
これは、わたしの声じゃない。似ているけど違う。
わたしと同じ顔。
同じ声。だけど違う。まるで何年も使っていない滑車が、動きだしたみたいな錆び付いた声の主は、千花ちゃんだ。
話せないはずの千花ちゃんが、いきなり話しだしている。
躯はベットのうえに横たわったままだけれども、千花ちゃんは目をしっかりと開けて話している。奇跡のような、この情景をどう受け止めて良いのか理解が追いつかない。
「千花ちゃん、治ったの!」そう言って抱きつけば良いのか。
「こんなのウソだ!」と叫んで病室から逃げ出せば良いのか。
わたしは千花ちゃんを呆然と眺めていた。
すると、千花ちゃんの視線がわたしへと注がれた。数年ぶりに目があった。途端。痺れにも似た衝撃が、躯を走りぬける。
「ね? 百花だってそう思うよね?」
千花ちゃんが、わたしへ問いかける。まるでいつもしている様に、次はお前が話せと千花ちゃんの視線は要求している。
考えるより先に、「うん」わたしは頷いてしまった。
「そうだね。ママならきっと気づいたね」
会話にわたしの意思はなかった。止めたいのに、口の動きは止まらない。話しながら、涙がおちる。
「だってママは虫がキライだからね」
千花ちゃん。
「でんでん虫もキライだよ」
わたし。
「まあ、ばっちい。そう言って絶対アレを触らせなかったよ」
千花ちゃん。
「そうだね。けれどママは遅かったよ」
わたし。
「遅かったね」
「うん。遅かった」
「どうして遅かったのかな?」
わたし達の会話に割り込んできたのは、杉先生だ。
まるで打ち合わせしていた会話劇みたいに、するんと自然にはいってきた。だからわたし達は声を合わせて叫んでしまった。
「それはね、」
「千花ちゃんを、忘れていたからだよ!」
言った途端、躯の力ががくりと抜ける。わたしを操っていた力が離れるのを感じた。だからと言って、終わったわけじゃない。
「なるほど。なるほど」
オダマキは満足そうに頷いている。
あれ程止めてと訴えたのに、指先はなにかを探るように、千花ちゃんの耳の穴に差し込まれている。オダマキはやっぱり無責任な、おやじだ。千花ちゃんは起こされてしまった。もうダメだ。
頭がぐらぐらする。
涙で、視界がぼやける。本当なら千花ちゃんの意識が目覚めたことをお祝いしてあげたい。でも、できない。だって目の前にいるのは、千花ちゃんであって、千花ちゃんじゃない。
「さ、続きを」
杉先生が先を促す。あんなにも安心できた先生の声が、わたしの心をぐじゃぐじゃに踏み荒らす。
わたしは泣きながら、口をひらいた。
※ ※ ※ ※ ※
ママは洗ったシャツを手にしたまま、お友達とおしゃべりに興じていた。
お天気は上々。こども達がいるのは、広くて清潔な公園。幼稚園の先生だっている。わたし達年長組の園児はみんな顔見知りで、お友達のお母さんたちにも懐いている。
ーー千花ちゃんなら、大人しいから一人でいても大丈夫よねえ。
シュン君ママがそう言った。
ーーそうそう、やっぱりおんなの子はいいわよお。育てやすくって!
ハスナちゃんママが言う。
ーー羨ましい。うちも一番うえはおんなの子が良かったわ。一姫二太郎でしょう? でもおとこの子が二人なんて、とんでもないわよねえ。
エイジ君ママの言葉に、皆が笑った。
ーーあらヤダ、斉藤さん。二太郎っておとこの子二人産むんじゃないの、二番目の子どもが、おとこの子って意味よ。
ママが笑いながら言った。
ーーやだ、知らなかったの? ほんとにい?
他のお母さんたちが、笑い声をあげる。
ママは千花ちゃんを、全然思いださなかったのかな。
気にならなかったのかな。それとも千花ちゃんを忘れるくらい、お友達とのお話しは楽しかったのかな。
千花ちゃんだってお友達といたかったんだよ。遊びたかったんだよ。ひどいよ、ママ。ママが忘れていたから、千花ちゃんは悪魔に頭を占領された。全部ぜんぶママのせいだ。
だから千花ちゃんはつくったんだ。絶対に自分を忘れない片割れを。
カタワレ?
わたしの記憶はそこでつまずく。
創ったってなにを?
これ以上思いだしてはダメ。頭のなかに緊急停止のサイレンが鳴る。なのに、「片割れは君じゃないのか。ももちゃん」オダマキが言う。
オダマキの目はぎらぎらしている。そして満足そうに笑っている。
仲良くしていたから忘れていた。オダマキはさとりの化け物みたいな男だった。オダマキには、わたしの考えなど全部お見通しなんだ。
「なあ。君は、シートで寝ていたちいちゃんをどこで見ていた?」
オダマキが笑いながら尋ねる。
へらへらした声が、わたしの鼓膜に突き刺さる。思いだしたく無い記憶の鍵音がぎぎぎと鳴り響く。
そうか。わたしを突き刺す針金はママじゃない。千花ちゃんでもない。オダマキだったんだ。オダマキは針金をわたしの脳髄に突き立てて、お前の記憶をよこせと、問答無用でかき回す。
「わたしは……は、」
わたしはどこに居た?
あの日の野辺を思い浮かべる。
お花を摘んでいる千花ちゃんの姿を、どこでどうやって見ていた?
お友達と興じていたママの姿を、どこでどうやって見ていた?
わたしは誰で、どこに居た?
唐突に。地面がひっくり返りそうな疑問がわたしのなかを駆け抜ける。ひっくり返った大地にいるのは、そっくりな顔のおんなの子だ。
「そうだとも、ももちゃん。君はどこに居た? 君は誰だ?」
オダマキの攻撃は止まない。降ってわいた疑問がわたしを突き刺す。
「そうだよ、百花。覚えてないの? ホラ、思いだして。百花はどこで、なにをしていたの?」
千花ちゃんは平坦で、なんの感情もこもっていない声で、オダマキみたいな質問をする。
「酷い。ひどいよ」
わたしは先生につかまったまま、地団駄を踏んだ。
「千花ちゃんはわたしの味方をしなくちゃいけないのに! オダマキ側につくなんて、狡いよ。ズルイ!」
悔しくて、どうしてよいのか分からなくて、怖くて。涙がとまらない。
「ずるい?」
そう言うなり、千花ちゃんの天上を向いていた顔が、徐々に横を向きだす。このままいけば、真正面から向き合ってしまうだろう。
怖い。大好きな双子の姉の瞳の奥を、わたしは見たくない。
けれど先生はわたしの躯の拘束を解かない。千花ちゃんの見開かれた瞳孔が、わたしをとらえる。
わたしと同じ顔。
同じ髪。同じ声。同じ瞳。決定的に違うものは目に見えない。千花ちゃんの頭を支配している螺の存在だけだ。
「なにを言っているの? 百花。わたしをずるいって言うの?」
千花ちゃんが嗤う。
オダマキによく似た、嗤い方だった。
「百花だって、おんなじじゃない」
「なにが……?」
自分のものとは思えない、掠れた声が情けない。まるで怯える子ウサギみたいだ。
「なにが、おなじなの?」
「百花だってずるい」
「わたし……ずるい事なんてしてない」
「してるよ。つぶりつきなのに、外で元気に歩き回っている。わたしはずっと眠るだけだったのに、百花はずるい」
なにを言われているのか、分からない。「え?」わたしはあえぐ様に、言葉をもらした。
「百花にだって、つぶりはいるの」
千花ちゃんがゆっくりと、一言ずつ区切るように発音する。
「違う。わたしは違う」
「いる」
「違う」
わたしは先生の腕のなかから逃げ出せない。だからせめて首を横に振る。
「百花だって、いるんだから」
「いない」
「いる」
「いない」
「同じなんだよ」
「違う!」
わたしは叫んだ。
「強情だなあ、ももちゃんは」
オダマキがため息混じりに言う。その声は落胆していない。むしろ面白がっている。
「そうだよ、ももちゃん。俺は今最高に痛快愉快でたまらない」
オダマキが指を耳からやっと離した。けれど油断できない。今も指は千花ちゃんのながくて細い髪の毛をいじっている。髪は、うねうねと揺れている。まるで生き物みたいで、気持ち悪い動き方だ。
「君は。いや君たちは最高だ。ちいちゃん。ももちゃん。螺乖離症で、ここまで完璧な片割れを、現の夢に創り上げたこどもはいなかった!
人間とはなんたる神秘。なんたる奇跡を生み出すのだろう。俺たちの完敗だ。俺はこの予想もしていなかった結果に、感謝の盃をかかげたい!」
オダマキが芝居がかった口調で叫ぶ。
「声がおおきい。調子にのりずぎだぞ」
杉先生が堅い声で、たしなめる。
網戸から森を吹き抜ける風がざざあっ病室を吹き抜けていく。ふかい闇のなかから、風の音に連なるようにトリの鳴き声がこだまする。
ジャー ジェイ ジャー。
オダマキの声を耳にしたくない。現の夢ってなに?
千花ちゃんだって意地悪だ。なんでつぶりつきなんて嘘を言うんだろう。
わたしは目を瞑る。なにも見たくない。
両手で耳を塞ぐ。なにも聴きたくない。それでもトリの声は聞こえてくる。
ジャー ジャー ジェイイイイイ。
躯が震える。寒気が足元から、躯をはいあがってくるようだ。
「百花さん。どうしましたか?」
先生が尋ねる。
「具合がわるくなりましたか?」
「悪いです。もう、全部やめてください」
「困りましたね。この場を小田巻くんへ任せた以上、私には決定権はないんです。落ちつくために、お水でも飲みますか?」
「いらない。ここはイヤ、全部いや。皆出て行って。それがダメならわたしをどこかに、追い出して。ここにいたら、頭が変になりそう。ホラ、鳥です。鳥が鳴きはじめた! ここはイヤ」
わたしは耳を塞いだまま、頭を振った。
トリも。オダマキも。千花ちゃんも。全部ぜんぶ消えて欲しい。