第八十五話 AVENGER
ジャックとアイリーンが山元邸を訪れたのは、上遠野優子と遠山春香が真夏から宿泊を勧められ、二階の客間に一泊して帰宅した日、つまりは一月四日の正午近くである。
第八十四話で述べた通り、この日は真司の通う有馬道場の稽古始の日で、この日の午前七時に山元邸へと到着した水樹七海と共に、美紀と佐紀はその有馬道場へと稽古の見学のため不在となっていた。当然のことながら、真司もこれに同行している。
「いらっしゃい、ジャック、アイリーン。さ、上がって上がって」
真司の母・山元真夏に案内されて、ジャックとアイリーンは二階にあるリビングに通された。
「久しぶりね、アイリーン。再会できて嬉しいわ。お腹空いていない? すぐにご飯を用意するからね」
真夏はあらかじめ用意しておいたケーキセットを二人の前に差し出すと、挨拶もそこそこに、ダイニングキッチンへと向かい、真司から伝えられていた豆腐料理の準備を開始した。
「アイリーン。シンジのやつ、いつでも来いと言っておいて不在じゃないか。あいつ、一体どこに消えたんだ?」
「いつでも来いと言われたからといって、事前に電話一本もしなかった私たちがいけないのよ」
「タダ飯を食えてタダ酒が飲めるならいいとするか。……それにしてもこの家、まるで旅順要塞だな。そうは思わないか、アイリーン」
「まるでじゃないわよ、ジャック。後でマナツに地下室を見せてもらうといいわ。ここは本物の要塞よ」
二人が話題にしているこの山元邸の設計についても、以前記述しておいたので割愛しよう。
ジャックは真夏が用意したショートケーキにがっつきながら、リビングの様子を観察している。
真夏はジャックの言葉、タダ酒、という言葉にピピっと反応し、キッチンの冷蔵庫から缶ビールと日本酒(もちろん八海山である)を取り出すと、厚めにスライスしたローストビーフと共に、
「はい。こっちのほうが良かったのかな?」
などと言いつつ、それらをリビングテーブルに並べていった。
「アイリーン。リザーブしてあるホテルをキャンセルして、ここに泊めてもらわないか?」
「私は構わないけれど、マナツの都合もあるわ。マナツ、今夜、ここに泊ってもいいかしら?」
「いいわよ。賑やかになるし、あたしは歓迎するわ。ジャック、アイリーン」
ジャックはその場で予約済みのホテルを二泊分キャンセルし、規定のキャンセル料をクレジットカードで決済した。
ホテル側は当日のキャンセル料金だけを請求したのだが、ジャックはホテルのホームページ上に規定されている約款に拘り、それに従って正当な手続きを行っただけだ。しかし、ジャックとアイリーンがこの日本観光の最終日、このホテルに再度宿泊した際、彼らの宿泊する部屋のランクが数段階、ホテル側の厚意によって上げられていた。
割引を強要する外国人観光客が増加していくばかりの今日、ホテル側に約款に従って費用を負担する外国人は少なくなり、ジャックのようにホテル側へ筋を通す観光客は珍しくなっていたためだ。そのホテルはジャックの態度に敬意を表したのである。
一方、有馬道場へと向かった四人、真司、美紀、佐紀、水樹はというと、一対三の敵味方に分かれ、白石道場対有馬道場の様相を呈した死闘の真っ只中にその身を置いていた。
真司は有馬道場の先鋒としてその勝負に参戦し、同じく先鋒に立った美紀と竹刀を交え、美紀の圧倒的な優勢のままに序盤の展開を許したが、中盤から後半に渡って何とか持ちこたえ、最終的に美紀の面抜き面を受けて一本を取られたものの、美紀の体力を削るには十分な働きを示した。
とは言え、真司が美紀から受けたダメージは相当のもので、真司は道場の外に門人の手によって運び出されると、そのまま疲労のため休憩所で眠りこけ、その後の美紀や佐紀、水樹の働きを目にすることができなかった。
(なかなかやるじゃない、真司君。でもまだ、美紀ちゃんはまだまだよ……)
水樹七海の推察通り、美紀はその後の有馬道場・次鋒と中堅を一本で仕留めた後、副将に敗れて勝負の場を降りた。
美紀は有馬道場の高弟二人を打ち破ったわけである。
佐紀が美紀に続いた。
佐紀は二刀を手にして有馬道場の副将と闘い、彼女の瞬発力を活かして瞬く間にその副将から勝利を上げた。
佐紀の次の相手、有馬の大将は、なんと薙刀を手にした女性だった。
(……すごいのがでてきたな)
佐紀は薙刀を持つ彼女の姿に、祖母・幸枝の姿を重ねて震えあがったものだ。
薙刀と竹刀では、その武器としての戦闘能力に格段の違いがあり、当然のことながら、射程の長い薙刀を持つものに勝利の分があると言える。その薙刀を持った者が一流の遣い手であれば尚更のことだ。
戦国乱世において、一般的に太刀、脇差と呼ばれる武器は多用されていない。その頃の武人が好んだ主な武器は槍、若しくは弓である。これはそれらの武器の射程が長いためだ。長い射程は敵を殪す確率とその武器の持ち主の生存確率を著しく押し上げる。
剣一筋とは戦乱の少なくなった江戸時代からの伝統であり、戦乱の世の習わしは、専ら槍一筋、弓一筋だったわけである。鉄砲については読者諸兄のご興味にお任せしたい。
佐紀は二刀を手にしたままその女性と一騎打ちを演じたのだが、執拗に佐紀の足首を狙う薙刀に翻弄され、上半身の防御が疎かになった一瞬のうちに薙刀による痛烈な面打ちを浴び、美紀と同様にその場から退くこととなった。
この時点で、白石の四勝、有馬の二勝、全て一本で勝敗がついている。
水樹がその後に続いた。
佐紀の勝負を通して薙刀を見切っていた水樹は、その足首に迫る薙刀を、その場で跳躍しつつ自らの竹刀で道場の床に一瞬だけ固定すると、着地の場所に薙刀を選び、自らの体重を利用してその薙刀を#へし折った__・・・・・__#後、薙刀の持ち主に肉薄して鋭い突きを打ち込んだ。
これにより、勝負の場に最後まで残った者は水樹のみとなった。
有馬道場の主、師範である有馬龍太郎が立ち上がった。
「さすがは白石道場の手練れ。水樹さん、よい腕だ。白石殿のご令嬢方もまことに筋が良い。ここは私が一手、指南を進ぜよう」
有馬は美紀、佐紀、水樹の順で三本勝負を行い、その勝敗を二勝一敗とした。
これは三人が健闘をしたということではなく、有馬が意図的に、彼女たちへ一本を与えたのである。
美紀と佐紀は、この日、水樹を証人として、この有馬道場へ入門した。
真司の入門時と同様に、二人は左手薬指の下を軽く切ると、有馬道場の神文誓詞に血判を押して、有馬龍太郎から入門の水盃を受けた。眠りこけていた真司も兄弟子たちに叩き起こされて、その場に同席している。
「お兄様。なかなかの腕前でしたわよ」
帰りのクルマの中で、美紀は初めて真司をお兄様と呼んだ。
「アイリーン。黒のメルセデスSUVだぞ」
「あら、珍しいわね……」
山元邸の客間のベランダから夜景を眺めていたジャックとアイリーンの目に、水樹の運転するメルセデスSUVから降りる真司の姿が映った
「シンジ!」
「ジャック!」
真司はこう叫ぶや否や、玄関ドアに突進し、階段を駆け上るとジャックと抱擁を交わした。
「いったいどこに行っていたんだ? 待ったぞ、シンジ」
「ジャパニーズフェンシングだ。今日は大切な日だったんだ。すまない、ジャック」
真司は遅れてリビングに上がってきた水樹、美紀、佐紀を、ジャックとアイリーンに紹介した。
美紀と佐紀は当初、英語が分からないという態度を決め込んでいたのだが、途中、ジャックの話を聞くうちに、そういうわけにはいかなくなった。
ジャックとアイリーンの同級生であり、真司のワシントン生活における兄でもあるニック、彼の兄の話を聞いたときである。
ニックの兄、ロジャー・ライアンが、九・一一後のあの日、ワシントンの日本大使館を警護していたと聞いたときである。
話の発端は、ニックの兄・ロジャーが合衆国海軍の少佐に進級したというところだったのであるが、彼の経歴をジャックからの話に聞くうちに、どうも彼こそが、あの日の日本大使館を警備していた兵士たちの指揮官ではなかったのか、美紀にはそう思えて仕方がなくなってきたのだ。
合衆国海軍の陸戦部隊なのか、ともかくも地上で日本大使館を警護していたあの海軍部隊の指揮官が、恐らくは大尉あたりの階級にあったその人物が、少佐に進級するためには十分な年月がすでに経過しているはずだ。逆に言えば、最近少佐に進級した軍人ならば、あの時、あの小さな海軍部隊を指揮する身分、つまり、それ相応の階級にある士官でいなければ、ジャックの話は辻褄が合わなくなってしまうわけだ。
美紀は流暢な英語で、自身が合衆国の国籍を持っていることをジャックに告げると、彼、ニックの兄の所在をジャックに尋ねた。
ジャックは美紀と佐紀から手渡された出生証明書を確認すると、あくまでも噂、としてこう答えた。
「ロジャーな。あいつは今、ネイヴィのSEALsにいるらしいよ。詳しくは知らないけど、バージニアビーチじゃないそうだ。カリフォルニア、コロラドにいるって噂だな」
美紀と佐紀が保護されていたワシントンの日本大使館から離れた日、去り際の幼かった美紀の前に跪き、涙を流して#復讐__リベンジ__#を誓ってくれた彼は、美紀の兄となった真司の、その兄ともいえるニックの、その実の兄だったということになる。
「お兄様。そのお方と連絡を取れないかしら。わたくし、そのお方にはどうしても、お伝えしておきたいことがあるのです」
美紀がニックの兄に伝えたいことはこれだ。
あなたのリベンジは、わたくしのジャスティスではありません。
それを実行する人物、それはこのわたくし、山元美紀なのです。
「ジーザスクライスト! なんて大きなネコなんだ! まるでタイガーだ! アイリーン、これはぶったまげたな!」
三階の階段を上った先、そこにあるキャットタワーでくつろぐお箸とお玉、その巨体にジャックが驚きの声を上げている。
お箸とお玉は、キャットタワーの上から動こうとしない。新しい環境にまだ馴染めずにいるようだ。
「ジャック。この二匹はさっき、ウチに来たばかりなんだ。今はそっとしておいてやってくれないか」
「ああ。もちろんそうしよう。こいつらを何て呼べばいいんだ? シンジ」
「お箸とお玉です」
美紀が答えた。
「そうか。オハシとオタマ、意味は分からないがいい名前だ。ヘイ、オハシ、オタマ! また後でな」




