第八十四話 優子の手裏剣
一月二日の丸一日をかけて、山元家は親戚への挨拶回りを無事に終えると、ようやく三日、邸内で美紀と佐紀の新しい家具を整理することができた。この日は志村由美も駆けつけて、その作業を手伝っている。
真司の父であり、そして美紀と佐紀の義父ともなった修司は、昨夜遅くに単身赴任先の九州へと向かっている。
美紀と佐紀の二人が新規で購入した家具はセミダブルベッド、化粧台、タンス、大き目のビジネス用デスク&チェアセット、ガラステーブル、背の低い円柱状の自動掃除機がお揃いで、このほかに、美紀はサイドボードとティーセット(これにはIHヒータや小さなポットも含まれている)、佐紀は冷蔵庫とダーツセット、といった具合で各自購入している。これらの代金は二人の祖父である白石辰夫が支払った。
美紀と佐紀が実家から運んだものは、あの絨毯だけである。
真司は佐紀の購入してきたダーツセットがどこに設置されるのか気になっていたが、結局、佐紀はクローゼットの扉の木目に釘を打ち込んで、そこにダーツの的をぶら下げることにした。
もちろん、二人が扱う手裏剣、鉄礫や蹄も、美紀と佐紀は一定数、山元家に持ち込んでいた。鉄礫が五個、蹄が十個、二人のあのネックレスに数珠繋ぎとなった金属球も合わせると、およそその総数は約五十個といったところである。
新しい家具が整理されるまで、美紀と佐紀の二人は二階の客間に寝泊りをしていた。山元邸内の備品の扱いにも十分に慣れてきた二人である。
志村が二人のために購入したオーディオビジュアルシステムも、各部屋の廊下側の壁際に設置され、窓際に置かれたデスクセットからチェアを百八十度回転させると、そのシステムの真正面に身体が向く配置となっている。
オーディオビジュアルシステムの配線は各部屋共に佐紀が担当した。
その配線が完了すると、美紀と佐紀は真司、志村と共に、
(ちょっとお試しで……)
リビングに置いてあった映画のブルーレイディスクを持ち込んで大音量で再生してみたところ、その音はほとんど室外に漏れていなかった。
美紀と佐紀の実家で今もゴロゴロと寝転んでいるであろうネコ二匹、お箸とお玉の出入り口もこの日に完成した。三階の各部屋扉の下中央部分を三十センチ四方で切り取って、その切り取られた木片の上下を丸く削り、蝶番で元の扉下中央部分に取り付け直したものである。そのネコ専用の出入り口は、扉の正面から見て前後をブランコのように揺れて、ネコの往来を自由にするものとなった。各部屋の扉には厚めの鉄板が挟み込まれていたが、この扉を設計した人物は、今回のリフォームを担当した人物と同じ、つまり、三畑であったため、その鉄板が作業の障害となることはなかった。
ネコを宅急便で送るわけにはいかないということで、この二匹は、白石道場の高弟である水樹七海が明日の朝早くに、自家用車で二人の剣道用具と共に山元邸まで運んでくれることとなっている。
水樹はネコの運搬を急いだのではなく、剣道用具の運搬を急いでいた。ネコと用具の搬入日、一月四日は真司の通う有馬道場の稽古始の日なのである。水樹は美紀、佐紀と共に、その日、有馬道場の見学を行うことになっていた。当然、見学とは言え、水樹はその門人と手合わせする気満々である。辰夫を言い含めて、立合いの許可を取っていたのだ。ついで、と言わんばかりに、美紀と佐紀についても同様の許可を引き出していた。
「多少は手加減せいよ……」
辰夫は有馬道場の主、有馬龍太郎と旧知の仲であったが、その門人についてまでは知っていない。有馬の人格を鑑みれば、そこに通う門人たちの腕前をある程度のものと推測は出来たが、とてもとても、インターハイで個人優勝、団体戦でも優勝したチームの主将であった水樹に歯が立つような門人が多くいるとは思えなかったのだ。しかもその水樹は高校を卒業した後に七年間、辰夫の指導を直接受けてきたのである。あの美紀が、白石道場での稽古修めの日に、水樹に手も足も出せなかったのはこのためだ。
ちなみに真司は、辰夫から贈られた真剣二振りを部屋に飾るため、壁一面を埋め尽くしていた本棚の一つを佐紀の部屋に移動させている。
そこに納まっていた蔵書をすべて佐紀に譲るという交換条件に佐紀が応じ、その結果生じた空間に、真司は刀掛けを置き、そこに銘刀と謳われる河内守国助二尺五寸の太刀、忠綱の脇差を鎮座させた。
あの日、金沢の白石邸で真司が見たときと同じように、その真剣二振りの柄に刺繍された赤い糸が輝いている。
下世話な話となってしまうが、この銘刀、特に河内守国助二尺五寸の太刀は、これを購入しようとした場合、一万円札が約七千枚ほど必要となるほどのものである。高名な刀鍛冶によって制作された状態の良い真剣は、美術品としての価値が非常に高く、世界中で頻繁に取引がなされている。現在においても刀鍛冶職人は存在し、彼らの創る逸品もまた、同様に取引が行われている。
各部屋の整理が一段落した午後三時ころ、上遠野優子が遠山春香を伴って山元邸を訪れた。
優子と春香は普段着で、聞くところによると、
「もう晴れ着は懲り懲りよ」
ということで今回のファッションとなったようだ。
普段着とは言え、今日は三が日の最終日ということもあり、また、二人からしてみれば、優子にとっては恋人の自宅への新年の挨拶、春香にとっては佐紀との初対面となるわけで、そのファッションに気合が入っていたことにも頷けるだろう。
優子と春香はそこを念入りに話し合ったようだ。
背の高い優子は身長を活かした大人っぽい赤のドレスに白を基調とした装飾品を、五センチほど優子よりも背が低い春香はガーリーな白いドレスに金色のイヤリングを装備している。
「あ。優子ちゃん、春香ちゃん。よく来てくれたわね、上がって上がって。ようやく部屋の片づけが終わったところなのよ」
二人は真司の母・真夏に声を掛けられて、軽く挨拶を済ませると、二階にあるリビングへと招かれた。真夏お気に入りの八海山の一升瓶は既に空となり、空き瓶回収の日に連れ去られようとしている。
リビングには志村が先に陣取っており、優子と春香は志村の厳しい服装チェックを受けることになった。
真夏が三階の各部屋へインターホン越しに二人の来客を伝えると、真司、美紀、佐紀の三人が三々五々にリビングへ降りてきた。
(へえ……佐紀ちゃんも可愛いじゃん……このめっちゃ寒い中、薄着で頑張った甲斐があったわ……)
一か月後に例の私大中等部受験を控えているにもかかわらず、春香は気楽なものである。
男性の中に女性が一人の場合を紅一点と言うが、男性が女性の中に一人の場合は何と表現すればいいのだろう。小説の本筋にはどうでもよいことなので、ここでは男一匹と片付けておこう。
結論だけ述べると、男一匹となった真司は、優子だけを自分の部屋にうまく連れ込もうとしたのだが、真夏と志村、春香に邪魔をされてその目標を達成できなかった。
美紀と佐紀が優子と春香に部屋を見せると言い出したため、その場にいた全員がぞろぞろと、先ずは美紀の部屋を訪問した。真夏と真司、志村はすでにその場を見ていたので何の興味も惹かれなかったが、優子と春香は違ったようだ。
「美紀ちゃん、このベッド、ちょっと座ってみてもいい?」
(おい、早速やるのかよ、このど変態は……)
真司は腐ったミカンを見るような目で春香を見つめたが、その思いを口にはしなかった。
「ええ、もちろんですわ。春香さん、横になっていただいても、わたくしは構わないのですよ。フフフ……」
(おい美紀、おい美紀……やっぱりお前もそうなのか……)
ここでも真司はその思いを口にすることができなかった。
「ああ……ふかふかで気持ちいいわあ……」
春香は美紀のベッドの上で、そこに自分の匂いを刷り込むかのように、くるくると動き回っている。
(こいつ、マーキングまでしているのか……?)
春香はもうどうしようもないと真司は諦めて、優子に視線を動かしたのだが、その優子もまた、その視線を一点に集中させている。
優子が注視しているのは、美紀のビジネスデスクに並べられた手裏剣だった。
(これは……。これは鉄礫に違いないわ。こっちは蹄……。根岸で使う手裏剣よね……。何でこんなものが……? 佐紀ちゃんの部屋にもこんなものがあるのかしら?)
優子は美紀のベッドでハアハアと転げまわる春香を放置して、
「ねえ、佐紀ちゃん。佐紀ちゃんのお部屋も見せてくれる?」
「あ、いいすよ。じゃあ行きましょう」
「ちょっと春香! いい加減にして。佐紀ちゃんのお部屋に行くよ」
真夏は真司、志村と共にリビングへと降りて行った。夕食の用意のためだ。買い出しの担当は真司である。
もしもこの時、真夏が真司をリビングに連れて行かなければ、真司は彼の恋人である優子の恐るべき技を目にすることとなったであろう。
佐紀の部屋で、美紀の部屋にあった手裏剣、つまり鉄礫、蹄と同じものを確認した優子は、
「ねえ、これは鉄礫でこっちが蹄でしょ? 美紀ちゃんの部屋にもあったわ。これ、あのダーツの的に投げてみてもいいかな?」
「え?」
「は?」
美紀と佐紀は同時に優子を注視した。ダーツの的に投げてもいいかと言った優子のその言葉ではなく、あの金属製の物体を鉄礫、蹄と認識した優子に驚いたのだ。鉄礫はまだしも、蹄という言葉を知っているということは、彼女たちが得意とするところの根岸流手裏剣術もまた同時に知っているということだ。
美紀の脳内で、優子の上遠野という苗字が、手裏剣術における高名なかの一流派へと繋がった。
(優子さん、まさか、あの上遠野家のお嬢様なの……?)
「いいですよ。でも、クローゼットの扉、ぶっ壊さないでくださいね」
「……」
(ちょっと、佐紀さん……)
佐紀の言葉に優子が微笑みで返した。
「もちろんよ、佐紀ちゃん」
真司の歓迎会で、ダーツを投げる優子の姿を見ていた春香は特に驚くこともなく、無断で佐紀のベッドに腰を掛けると、
「優子、ダーツはめっちゃ上手なのよ」
(あれはダーツじゃないっすよ、春香さん。素人には……え? あれ? 優子さんて、苗字が上遠野だったっけ……でも、まさかなあ……)
優子は鉄礫を三つ右手に持って、親指以外の四本の指にそれらを挟むと、
「ちょっと危ないかも知れないから、扉の外で部屋の中を伺うようにしててね」
と言い、春香、美紀、佐紀の三人が扉の陰に隠れて佐紀の部屋をのぞき込むのを確認すると、優子は無造作に三つの鉄礫を一度にダーツの的へと投げつけた。
「ホイっ!」
という優子の声と同時に、鉄礫はパコーン! という小気味の良い音を立て、その全てがダーツの的・中央部分に食い込んだ。
「……」
「……」
「……」
扉からその様子を見ていた三人は、驚きのあまり声も出ない。春香も、優子が本気で鉄礫と呼ばれる手裏剣を投げるところなどは見たことがなかったのだ。
「もう一度投げるわ。今度は一つだけね」
優子は鉄礫を一つ左手に取ると姿勢を正し、左手の親指で鉄礫を弾いて右手に持ち替えると、今度はマウンドに立って投球する投手のように、大きく振りかぶって、
「ホイっ!」
と鉄礫をダーツの的・上部に撃ち込んだ。今度の音は小気味の良い音ではなく、れっきとした衝撃音だった。
優子の赤いドレスから、優子の白い足が危うい角度で垣間見えたのだが、扉の陰から室内の様子を見ていた三人は、その優子の白い足よりも、コンコンコン……、とダーツの的から音を立てて床に落ちる三つの鉄礫に視線を奪われた。
優子は今の一撃で、ダーツの的に食い込んでいた三つの鉄礫を、その一撃の反動を利用して払い落としたのである。
(これは驚いたわ……わたくしたちでは、とてもこのようなマネなど……)
(へえ……上には上がいるもんだ……)
(優子。あんたって何なのよ……)
「ふふ、うまく行ったわ。余興はここまでよ、さあ、入ってきて……って、あたしの部屋じゃなかったわね、ここ」
「優子さん。ごめんなさい。失礼なことを言いました。クローゼットの壁をぶっ壊すどころではなかったのですね」
佐紀が詫びの言葉を述べると、優子は
「ねえ、今度あたしの家に来ない? 上遠野の手裏剣なんだけど、本物がいくつもあるわよ」
美紀と佐紀が頷いたのは、ここに記述するまでもないだろう。




