第八十一話 真夏のファーストキス
「今日のおれは、昨日のおれよりもイケているか? 真夏」
「うん! しゅうくん、超カッコイイよ! 早くベッドに戻ってきて!」
この会話は、たまたま修司と真夏が何らかの青春映画を観た翌日の朝に交わされたというものではなく、修司と真夏が結婚をして、共に朝を迎えるようになってから、真夏よりも一足早くベッドから起き上がった修司が、寝室の鏡の前で、馴染みの床屋で短く切りそろえた髪を丁寧に撫でつけながら、朝の挨拶と共に最愛の妻・真夏に問いかけ続けている言葉を受けて、真夏もまた、彼女が常日頃、本心からそう思っている言葉を修司に返したものである。
「よし」
修司は真夏の言葉に微笑みながら頷くと、もう一度、最愛の妻・真夏に問いかけた。
「ベーグルにする? マフィンがいい?」
「しゅうくんががいいなあ……」
「真夏に食われるのなら、それもいいな」
「……そういう意味じゃなくてえ」
「ははは」
修司は真夏のところに戻り、真夏の頬に優しくその手を当てると、微笑みながら寝室を出て行った。
「……ベッドに戻って来てくれればいいのに、もう!」
真夏はそんな独り言を呟きつつ、修司の温もりが残るシーツにその顔を突っ込んで、一度だけ深呼吸をし、ベッドから抜け出すと、いったん寝室を出てパウダールームで洗顔を済ませ、また寝室に戻ると、鏡の前に座っていつものようにメイクを開始した。
童顔の真夏には、軽いメイクがよく似合う。彼女が使っているブランドは、修司の好み、彼の嗅覚の好みに合わせて選んだものである。
山元真夏のファーストキスは、彼女が十八歳の誕生日を迎えた日、彼女の苗字がまだ高城だった日のことである。
その日、真夏は、関東の太平洋側、その海沿いを走る国道百三十四号線から見える絶景を、修司が駆っているホンダ・VFRのタンデムシートに座りながら楽しんでいた。
「真夏。今日は真夏のご家族に、出来るだけ早く真夏を返したい。今日は真夏の誕生日だろう? おれだけが誕生日の真夏を独占するわけにはいかないからな」
真夏の太陽が、イタリアンレッドのVFRの真上に差し掛かった頃、修司は、平塚を過ぎた付近にある国道沿いの小さな店で、真夏にそんなことを告げていた。
軽い食事を終えた修司と真夏は、その店の駐車場の隣にある岸壁によじ登り、二人で並んでしばらくの間、その岸壁に座りながら無言で海を眺めていた。
小さな波が真夏の太陽を反射して、緩やかに砂浜を撫でている。
沖に見える海上自衛隊の艦船にはカモメが多数群らがっている。
真っ白な入道雲がいくつか、その艦船のさらに向こうに見える。
数匹の小さなカニが集団で、テトラポットを懸命に登っている。
(いいのか? おれは本当に、この真夏を生涯……、愛することが)
(……来るかな? 来るのかな? ハンガーガーは失敗したかな?)
二人は熱い太陽の光の中で、そのまま海を眺めながら数分の時を過ごした。
「真夏」
「修司さん」
お互いに話したい何かがあった。それを相手に伝えようとした時が同時だっただけである。
二人の視線が交わると、すぐに二人の唇が重なった。
これが真夏のファーストキスだ。
唇が離れると、真夏は真っ赤になって下を向き、太ももの上に重ねた自分の両掌を見つめ続けた。
修司が真夏に声をかける。
「真夏。これからもおれと、こんな風に、デートをしてくれないか?」
「……うん。あたしも、それを言いたかったの。修司さん」
「ありがとう、真夏。よし、これでおれもひと安心だ。さあ、帰ろう。真夏をご家族に返さなければいかんからな」
「……うん」
それから二人は岸壁を離れ、VFRに跨ると、国道百三十四号線の上り車線をのんびりと進み、真夏の実家、目黒区目黒本町まで無事にたどり着いた。
そのファーストキスから数回、修司と真夏はキスを交わしたが、ある日、真夏が奮発して購入したブランド物の口紅に、修司が一言、
「その口紅、いい匂いだな。真夏のイメージに合っている」
真夏がこのブランドを選ぶようになったのは、修司のこの一言があったためだ。
修司がダイニングキッチンに入ると、窓の下に素振りをする息子・真司の姿が見えた。
真司は稽古着を着て、頭から白い湯気をもくもくと立ち昇らせている。太刀筋が以前よりもずっと安定していた。
(よし。やっているな……)
息子の上達に満足を感じて、修司はフライパンを火にかけ、その上に卵をひとつとベーコンを二切れ投げ込むと、レタスを千切って小さめの皿に乗せた。食パンを一枚、トースターで焼く。
窓の下で素振りを続ける真司を眺めていると、食パンはすぐに焼き上がった。
修司は焼き上がった食パンを皿に乗せ、その上にスライスされたチーズを一枚重ねると、フライパンの中身をレタスが乗った小さな皿に移し替えた。
食パンの皿と小さな皿、その二枚の皿をトレイに乗せて、修司は真夏がいる三階の寝室へと向かう。もちろん、暖かいアールグレイも忘れてはいない。
扉の前で修司はインターホンのボタンを押した。扉には、というよりも、この山元邸の全てに厳しい防音処理が施されているため、扉の外にいる修司の声は中にいる真夏には届かないためだ。
「しゅうくん、入ってきて」
インターホンに真夏の応答があり、寝室の扉のロックはすぐに解除された。
「愛しき我が妻へ、軽い朝食のご用意をして参りました」
「ありがとう。しゅうくん」
昨日の大晦日、修司は九州にある県警本部の本部長室で、その部屋の主、富永幸作警視長から三日間にわたる東京での公務を命令された。
その公務は本来、富永が行うべきものだった。
富永はその公務を修司に押し付けたのではない。富永はそんな小さな男ではなかった。富永は、一日で済むその公務に伴って、実質的に二日間の年始休暇を修司に与えたのである。
(富永本部長、あなたというお方は……)
本部長室を辞する時、修司は警察官の行う通常の敬礼ではなく、腰を四十五度に折って、富永に深く、深く頭を下げた。
元旦である今日、修司が真夏と共に朝を迎えることができたのは、修司の直属上司である富永のこの粋な計らいによるものだ。
「真夏。今日はあまり日本酒を飲み過ぎないでくれよ。辰夫さんと幸枝さん、美紀と佐紀もウチに来るからな」
「ふふふ。分かっているわ、しゅうくん」
などと答えた真夏だが、例年通り、真夏は八海山の一升瓶を抱え、平和な元日のこの一日を、終始、ニコニコと、そしてフラフラと上機嫌で家族や親戚と共に過ごしたのである。




