第八十話 特別背任
「あ、いけない。ミスしたわ」
寿司屋で食後のビールを呷っていた志村由美は、そう言うと、ビールがまだ中ほどまで残っているビアグラスをテーブルにそっと置いた。
「何? 由美ちゃん。ミスって」
志村の向かいの席に座っている山元真夏が志村に尋ねる。
美紀と佐紀は、真夏と志村が食べ終えた後も、黙々と寿司を口に運んでいる。美紀と佐紀の両脇には、会計時の基礎計算となる皿がすでに二十数枚、積み上げられていた。
(この子たち、本当によく食べるわね……これからはゴハン、毎回五合くらい炊かないといけないわ……)
真夏はそんなことを考えていたが、志村が言うところのそのミスが気になった。
志村は優秀な弁護士で、特に知的財産に関する訴訟を専門に取り扱い、民事、刑事に関わらず、法廷ではその類い稀な機転を活かし、勝率においては実に7割五分の実績を誇っている。志村が敗れた残り二割五分の法廷闘争は、告訴又は起訴された依頼人のそれまでの行いに明確な犯意や重大な瑕疵があったもので、訴状の内容を全面的に認めざるを得ず、志村は依頼人の服役期間や、損害賠償額の軽減に奔走したに過ぎなかった。
ちなみに、告訴という言葉はよく使用され、世間一般にもなじみの深い法律用語であるが、これは民事訴訟法上の概念にある言葉ではない。
民事訴訟法においては、たとえば原告となる人や法人が彼らの権利の主張する場合、またたとえば、彼らに属する権利に対する他者からの侵害が有る又はその恐れがある場合、これらの判断を裁判所に委ねるといった事例が多いのだが、これらの場合は一般的に訴えの提起と表現される。
ただし、本来は刑事訴訟法上の用語である起訴という単語がこれらの場合にも用いられることがたまにある。この辺りが告訴、起訴、告発といった法律用語をややこしく感じさせる要因と言える。
刑事訴訟法と言えば、現在、世論を沸かせている大手自動車メーカ三社から成るアライアンスの頂点に君臨していたかの人物、彼がいまその刑事訴訟法上の手続きの真っ只中にいる。現在、彼は金融商品取引法違反罪で起訴、つまり、刑事訴訟法の手続きに従って東京拘置所に拘留されており、おそらく近いうちに、筆者がこの原稿を書いている今日、一月十一日から数日のうちには、金商法違反罪よりもその罰則が遥かに厳しい特別背任罪で東京地検特捜部から追起訴されることとなるはずだ。
特別背任罪とは会社法の九百六十条から九百六十二条までに規定されている、刑法二百四十七条に規定された背任罪の特別法で、刑法二百五十条にはその未遂も処罰対象となっており、当然、同法の特別法であるその条文においても、特別背任の未遂も罰せられることとなる。
このように、ある程度、訴訟の手続きについて知識を得ておけば、こういった事実を扱うワイドショーも、司会者やコメンテータが法律的にまともなことを言っているのか否か、判断する材料となり、チャンネルを選ぶ一つの指標とも楽しみの一つともなり得るのではないだろうか。
志村のミスは単純なものだったが、これに最も被害を受ける人物は真夏の息子・真司である。
志村が美紀と佐紀にプレゼントとして購入したオーディオビジュアルシステムの配送期日を、志村は配送業者に指定していなかったのだ。
山元家では、真司が美紀と佐紀の家具受け取りとその保管の両方を担当することとなっているため、このままでは、配送期日を真司に伝えることができず、彼の予定を志村が押さえることができなくなってしまう。
志村は先ほどの中古オーディオショップに電話を入れて、真夏にも聞こえるように声を若干大きくし、配送日の指定のために再訪問することを、手短かにそのオーディオショップへと伝達した。
「電話で済ませてもいいんじゃないのかな?」
真夏は志村にこう言ったが、
「そんなこと受けるようなお店じゃないわよ、あそこ」
電話一本で、顧客が購入した商品の取り扱いを変更するような店ではない、志村はそう言っているのだ。
「うん、まあ、確かにしっかりとしたお店だったら、そんなことしないよね。あたしもそう思う」
ようやく、美紀と佐紀が箸を置き、お茶に手を出した。
真夏は彼女たちの脇にそびえ立つ皿の枚数を数えようとしたが、
(よく食べるって、とてもいいことよね)
「美紀、佐紀、ウチに来てもたくさん食べてね!」
「はい、お母さま」
「はい、お母さん」
三人は笑顔になった。志村も思わず三人に釣られてしまう。
「じゃあ私、配送日指定の手続きだけしてくるから、真夏たちはここでゆっくりしててね。ここまでのお会計だけ先に済ませておくわ」
「いいよ、由美ちゃん。もう少し、ここでゆっくりしようよ。あのお店だって、由美ちゃんの意思を聞いたんだから、このまま発送することはないでしょう? ちゃんと由美ちゃんが来るまで待ってくれるよ。ほら、座って座って。ビールまだ残ってるし。あたしももうちょっと飲みたいの。ふふふ」
志村は再度、その中古オーディオショップに電話を入れ、再訪時間を正確に伝えた。
この様子を眺めていた美紀は、器用に注文用のタッチパネルを操作して、
「志村さん、デザートを頂いても、よろしいかしら?」
この言葉を聞いた真夏と志村は、お互いに顔を見合わせて微笑んだ。




