第七十五話 Engage !
金沢への新幹線の中で、ちょっとした騒ぎがあった。
刃物を振り回した男が、真夏、美紀、佐紀、志村の乗車する新幹線に大宮駅で迷い込んできた。
志村は携帯を取り出して警察に通報しようとするが、ちらつく刃物への恐怖で身が竦み、真夏と目を合わせると、隣の窓側に座る美紀を庇って目を閉じた。
(こっちに来ないで……)
真夏は隣の窓側に座る佐紀を左手に抱き締めると、
「佐紀。じっとしているのよ」
急所への傷だけは避けなければならないため、旅行鞄を右手で盾に取ると、車内の様子に視力と聴力を集中しながら、被害者の出た場合の対処をシュミレートした。
(もし、あたしが殺られたら……)
夫の修司には抱いてもらえなくなるが、それならばそれは真夏の運命に過ぎないだろう。真夏を失った修司は、その仇がたとえ便所の中に隠れて震えていても、確実にその仇を見つけ出して、同じ方法でその仇を殺すことになるだろう。それもまた、修司の運命である。
(しゅうくんに、人殺しになって欲しくないなあ……)
一瞬の間、思考に気を取られた真夏は、佐紀の言葉を聞き逃していた。
「お母さん。重みのあるペンとか持ってない?」
「佐紀ちゃん……!」
志村が佐紀の言葉に気付いて小さく声をかけたとき、真夏は我に返って佐紀の言葉へ本能的に従うと、スーツのポケットからモンブランの万年筆を取り出して佐紀に手渡した。
ペンはマイスターシュテュックゴールドコーティング百四十九と呼ばれるもので、三畑から医学部への入学記念にと真夏にプレゼントされた、太目で重量のある逸品である。
万年筆を受け取った佐紀は、クルクルと無造作にそのキャップを外したが、手作業による十八金仕立てのペン先が金色と銀色に美しく光沢を放つ様子を見ると、そのペン先を守るためにキャップを元へと戻した。
美紀と佐紀が目を合わせて頷きあった。
(眼球は避けて、眉間を狙うかな。この万年筆、スッゴイ高そうだし……)
「……佐紀さん、いくわよ! スリー、ツー、ワン、エンゲージ!」
「ラジャー! エンゲージ!」
美紀と佐紀の大音声に、刃物男が振り向いた。
佐紀は反対側の座席に飛び込みながら、新幹線の通路上で真夏の万年筆をその男に向けて投げつけた。狙いはその男の眉間であった。
美紀の合図で佐紀が男の額に投げつけたその万年筆は、刃物を持ったその男の眉間へと強かに命中した。
と同時に、いつの間にか志村の腕から抜け出していた美紀が、文字通りその男に肉薄し、右の掌底をその男の顎に打ち付けて、その衝撃で天井を見上げたその男の左脇をススス……と通り抜けると、
「……すぐに楽になるわ」
囁きながらその男の首に左腕を巻き付け奥襟を掴みながら、その男の背後へと一瞬のうちに回り、右腕を男の左前頭部に添えて後ろから抱き締めるようにその男を抱えると、そのままの体勢でその男を一気に締め落とし、気を失ったその男の重い身体をゆっくりと新幹線の通路に横たえた。
真夏の万年筆をその男に投げた直後から、美紀の援護に回っていた佐紀は、男の手放したバタフライナイフを拾い上げ、刀身もそのままに器用に扱いながら、先ほど自分が男に向かって投げつけた真夏の万年筆を探し始めた。
真夏の万年筆はすぐに見つかった。
「あった。お母さんありがと」
美紀によって通路に優しく横たえられたその男に与えられたもう一つの僥倖があるとすれば、それは彼が意識を失う前の一瞬の間にだけ、彼が背中に感じることのできた膨らみかけの美紀の乳房の感触だったはずだ。
「真夏。この子たちって……」
「あたしの娘よ。素敵でしょ? 由美ちゃん」
真夏は笑顔で美紀と佐紀に手招きをした。
車内では乗り合わせた乗客が驚きと共に携帯やスマホを手にしている。
「第一東京弁護士会の志村です。この二人の撮影はこの二人の母親の代理人弁護士として禁止します」
志村は真夏、美紀、佐紀の三人を、他の乗客の視線から庇うように立ち上がって、胸のバッジと所属事務所のIDカードを提示した。
真夏による治療が必要と思われる負傷者はいなかった。
四人はその後、所轄の警察署で事情聴取を受けたのちに埼玉の県警本部へと移送され、修司と同期の西野警視正から、
「あの、真夏さん。警察で会うの、これで何度目ですか? 修司といい、あんまり暴れないでくださいよ。あのときだって僕がどんなに苦労したか……。ご存知でしょう? ほら志村さんもあのときにいらっしゃったじゃないですか……貴女も同じですよ……」
四人の金沢への到着は、午後七時を回ってしまった。




