第七十四話 胡蝶蘭
『ピロリロリーン、ピロリロリーン』
テレビドアホンには真夏の顔が見え隠れしている。
(早く開けてえ……)
今日は真司の母・真夏の送別会で、上司からも同僚からも患者からも愛された彼女は、贈られた両手いっぱいの花束を抱え、背伸びをしながらドアホンのカメラに顔を映そうと真剣な表情で背伸びを続けている。
真司が玄関を開けると、真夏は見慣れた靴に目をやって、
「あ! 三畑さん?」
この時期のこの時間に山元邸への侵入を許される人物は限られている。
リビングに駆け上がると、
「三畑さん。いらっしゃい!」
花束を持ったまま三畑に微笑んだ。
「まなっちゃん。君は変わらないねえ……」
三畑の心のスクリーンに、少女時代の真夏が上映された。
真夏が十八歳で妊娠した時、彼女にとって味方と呼べる人間は、夫となる修司を除いて三畑だけだった。
三畑には激怒する真夏の父・博と国土交通省参事官執務室で殴り合いの死闘を繰り広げ、現行犯逮捕された後に一週間の黙秘を続けて拘留された過去がある。
これは三畑の信仰心に由来するものであったが、当時の真夏には『世の光』とも言える存在だった。
真夏はその時の恩を生涯忘れず、十数年後の三畑の死に、一週間の長期に渡って喪に服すことになる。
三畑は二本目の徳利を腹に収めたあたりで、
「時間かな。そろそろ失礼するよ」
「また来てくださいね。三畑さん」
門の外まで送りに出た真夏に声を掛けられて、三畑はタクシーに乗り込んだ。
行き先は自宅ではなく赤坂の料理屋で、山元家の偵察報告を酒の肴に、真夏の父・博と寿司をつまむことになっていた。
(楽しみが増えたな……)
今後は真夏や真司だけではなく、美紀と佐紀の成長、加えて二人の料理も楽しめることだろう。
「運転手さん、ゆっくりでいいですよ」
今日の出来事を聞いた博は悔しがるはずだ。図面のメモを確認しながら、三畑はその表情を思い描いて口元を綻ばせた。
リビングではラッピングされたままの胡蝶蘭がピンクの花を咲かせている。
「これさあ、けっこうデリケートなんだよねえ」
「おれの部屋で育てるよ」
(こういうのもお鉢が回ってくるっていうのか……)
鉢には飯ではなく胡蝶蘭が入っている。
この時期に開花している胡蝶蘭は温室栽培されたものだ。冷気に弱いため、冬場の温度管理を徹底する必要がある。その代わり、生命力の強いこの種は十年、二十年と長持ちし、年に一度だけ花を咲かせては育成者の手間に感謝を捧げてくれるのだ。その感謝は数か月に及ぶことさえもある。
「お腹空いてない?」
「あたしたちは夕方食べたんで。まだ平気」
真司と美紀が頷く。
「何食べたの?」
「肉うどん。大盛りで」
佐紀が笑顔で答える。
「おいしいよね、肉うどん。お昼は?」
「お昼も。大盛りで」
「え? どこで?」
「駅のソバ屋さん」
「二回とも?」
「場所は違うけど」
「駅のおソバ屋さんて美味しいけどさあ……」
真夏は呆れて真司を見ると、
「しっかりしてよお……」
「カネがなくてな」
真司は美紀と佐紀の目の前で、身も蓋もないことを言い出した。
(少しはオブラートに包みなさいってば! このばか!)
「カード渡してあるでしょ。こういう時に使ってよね」
真司に手渡されている黒いクレジットカードは家族用のものだが、大概のものなら限度額を気にせず使用できる。真夏は文句を言いながらも、引き出しの封筒から五千円札を一枚取り出して真司に手渡した。
「美味しかったですよ。お母さま」
美紀のフォローに、
「せっかく東京まで来たのに。ごめんね。夜食作ってあげる」
特別なことをして美紀と佐紀をもてなすつもりはなかった真夏だが、ここ二日間の外出先が恵比寿の写真館と真司の進学塾だけでは申し訳のない気分になってきた。
「真司さんは江の島にも連れて行って下さいましたよ。お母さま」
「江の島? 寒かったでしょ?」
「いいえ。むしろお母さまのお若い頃のお話も聞けて……。フフフ」
「ちょっと真司!」
真夏はチャーハンを二合分作ると、
「美紀、佐紀、お風呂入ろ」
二人を連れて出て行った。
リビングに取り残された真司は、例のタワーパソコンを起動して、胡蝶蘭の育て方について検索を続けている。
(いけね……)
永井や春香に礼を伝えていなかった。春香の母親には優子の送りまで頼んでいる。
永井にメールを送ると、春香宅の固定電話を呼び出した。
「あ、山元君? 今日のあの子何? アレが姉の方? ねえあの子。優子見てなんか、なんていうかその、テカテカ? してたよ。妹の方は? どうなの? あんな感じ? 見せてくれればよかったのに。でもあの子、驚いちゃったわ。めちゃくちゃ出来るじゃない。でもアレはなあ。アレきっと百合よ。真夏さんにはどう? あー、見に行きたいな」
(そういやあん時も赤くなってたな……)
真司は金沢での挨拶を思い出した。
そして今、佐紀を含めた三人で一緒に風呂に入っている。やや様子が気になったが、母親と義姉妹の入浴シーンを覗くわけにもいかない。
「引っ越して来たら見に来いよ」
志村の言う『悶々とした日々』とは状況が異なるが、美紀の性癖については少々観察の必要がある。優子に手を出されてはたまらない。母親のことは気にしなかった。
「絶対行くからね。なんか優子もあの子気に入っちゃったみたいでさ。私もすっごい気になるの。アレはやっぱり絶対そうよ。野生の勘が働くの。あの子絶対百合よ百合。きっと私と同じだわ」
(お前もか……)
春香の第一志望は都内でも屈指の女子校だったのだが、優子の希望を聞くと、何事もなかったように真司と優子の目指す私大中等部へとその第一志望を変更した。
彼女のフルネームは遠山春香と言って、
『この苗字を捨てても構わないって思える人としか結婚しない』
常々そう語っている。確かに相手が男性とは明言していなかった。
「手を出さないでくれよ」
美紀にではなく優子にだ。優子をその道に引き込まれては真司が困る。
真司は春香とその母親に礼を述べると電話を切った。
真夏、美紀、佐紀の三人が戻ってきたので、
「じゃあおれも」
真司はバスルームに向かう。昨日もだったが、髪をアップにして首にタオルを巻く女性陣三人のスウェット姿には、少々居心地の悪さを真司は感じている。
ドラム式の洗濯機が動いていた。洗濯物は今後、分別されることになるらしい。
(ふーん。今日も白か……)
服を脱ぎながらその内部を眺め、浴室に入ると排水口を確認する。
(今日も髪が残ってない……)
脱衣所のゴミ箱をチェックしたが何もない。美紀と佐紀ほどではないが、真夏の髪もそこそこには長い。抜け毛はどこかに持ち去ったようだ。
(おれの洗濯物、どうするかだな……)
ドラム内部で回転する三人の白い下着と思われる布を再度眺めながら、
(やれやれだ……)
真司は浴室に戻ると頭から体を洗い始めた。
翌朝早い時間に、真夏と志村に連れられて美紀と佐紀は金沢へと帰って行った。手に持ったカバンには、恵比寿で撮影した記念写真が入っているはずだ。
志村には真夏の代理人弁護士として辰夫と幸枝に養子縁組の法律効果を説明し、届出書を区役所に提出するという仕事があったが、この程度の内容には大抵代理人など必要とされないため、実質的には真夏との金沢旅行に行くようなものだ。
結局、地下室への案内は忘れられてしまった。
別れの挨拶を済ませると、真司は塾の冬期講習に参加した。




