第四十五話 赤い糸
幸枝から声がかかった。
「真司君、準備ができたわ。後ろを向いてみて」
「あ、はい……」
身体を後ろに向ける。
(おわ……)
真後ろに立っていた辰夫の気配を全く感じなかったこともあるが、辰夫の身なりにも真司は驚いた。
辰夫が笑顔で腰に太刀と脇差を差している。例の主人公と同じような服だ。
(どうしたんだ……?)
「そのお姿は……?」
「真司君、ちょっと待ってくれ。わしも年でな、準備運動をしておきたいのじゃ」
辰夫は少し離れて、伸びたり縮んだりと体をせわしなく動かした。
リズミカルに動き続けた辰夫は隣の部屋に移動して、仕切りとなっていた障子を取り外すと正座した。
「よし、いいだろう」
「真司君、びっくりしちゃうといけないから、ちょっとこっちの窓側に移動してね」
幸枝の言葉に従って、真司は窓側の椅子に腰を掛けた。
(……なんだ?)
「学芸会の劇みたいなものかしら。真司君に見せてあげようって、辰夫さんと相談してたの。一瞬で終わっちゃうけど、たぶん二度と見られないからよく見ておいてね。私が扇子を投げると、辰夫さんがそれを一刀両断にするわよ」
「は、はい……」
(マジか……凄いことになったぞ……)
期待が膨らみ、真司は前のめりに返事をした。
幸枝が辰夫のいる部屋の戸締りを確認して戻ってきた。続いて居間の扉もロックする。
「これよ」
幸枝は抽斗から扇子を取り出すと、一度開いてから帯の間に挟んで真司に笑いかけた。薄い墨で描かれた梅の花が真司の残像に残っている。幸枝は記念写真でも撮影するかのように立っているだけだ。
「いいかしら、真司君? いきますよ」
「はい!」
『ばちいいいいいいいいいいいいいん……』
(……おいマジか!)
真司の返事と同時に、幸枝の帯に挟まれていたはずの扇子が消えていた。真司には、幸枝が少しだけ動いたようにしか見えてない。
どうやって投げたのかも分からないが、扇子が唸りを上げて飛んで行ったと思われた次の瞬間、金属同士のぶつかり合う音が真司の耳に聞こえてきた。
目線を辰夫に向けることさえ真司はできていない。
慌てて視線を辰夫に移動すると、辰夫が片膝をついた姿勢でニヤッと笑顔を見せた。
二つになった扇子が辰夫の前に転がっている。壁に当たって跳ね返ってきたのだろうか、扇子の落ちる音は聞こえなかった。
(……なんてこった! 信じられねええ!)
脳の機能が一瞬停止した。真司は生まれてからの十二年、このような経験をしたことがない。
扇子が唸りを上げる音、鍔鳴りと思われる音も真司には初めてだった。
辰夫はあの扇子を切断したらしい。鞘に納まっているあの刀は真剣だろう。
辰夫がそれを振るう瞬間は見逃してしまったが、真剣がその機能を発揮したことは真司にも十分に理解できた。
「……す、す、すげえなこりゃ……」
真司は呆然と、辰夫、幸枝を交互に見比べながら、ようやく声を発することができた。 辰夫が太刀と脇差を刀掛けに置いている。悠然とした動作だった。
(マジですげえ……)
「ああすまん、真司君。やっぱり驚かせてしまったかな」
「いーやすげえっす! 正直おれビビってますけどマジっすかこれ……。……うっわ、マジすげえ。ちょっとあの扇子見に行っていいすか?」
いつの間にか一人称がおれになってしまっていたが、なりふりになど構っていられる余裕など今の真司にはなかった。
一刻も早く扇子の状態を見たい、ただそれだけだった。
真司が扇子を拾うとそれは文字通り真っ二つとなっており、切り口で指が切れそうだった。
刀掛けに置かれた太刀と脇差の柄には、黒地に鮮やかな赤い糸が刺繍されている。
椅子に戻った真司は切断された扇子を握りしめ、辰夫と幸枝に、
「この扇子、おれにくれませんか?」
「もちろんじゃ。真司君、もっといいものもあるぞ。楽しみにな」
辰夫がもう一度、真司を見てニヤッと笑った。




