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第四十話 Фрейя

 佐紀(さき)が部屋を片付けている間、真司(しんじ)は廊下でお(はし)とお(たま)(いじく)り回していた。美紀(みき)もその場にしゃがみこんで、この様子を眺めている。少し表情が柔らかくなっていた。

 美紀が二匹を撫でながら、小さな声で真司に尋ねた。

「……お箸とお玉、この子たちをご存じだったのですね」

「うん。ほら、この鼻。真っ直ぐに伸びてる。これは北欧系純血種の特徴だろ? こいつらの祖先だよ。北欧神話ってあるだろ。その女神、フレイヤ(Фрейя)の馬車? つかネコ車なのかな? それを引いたのはこいつらの祖先だ。北米系のノルウェイジャンとは違う。にしてもデカいな。何キロあるの? こいつら」

「九キロくらいでしょうか。それも一年前に量ったことなので、いまは正確には分からないのです」

 真司がお箸を抱え上げようとしたが、お箸は逃げ出してしまった。お玉はまだ逃げていない。ゴロゴロと、その真っ直ぐに伸びた鼻を鳴らしている。

「お前らはいいのか? ウチに来るの」

「ええ。お爺様がおっしゃるのですもの」

「ふーん……」

(高そうな品種でも、やっぱネコはネコだな……)

 お箸が戻ってくると、また二匹は喉を鳴らせながらじゃれ合い始めた。爪が切られていないが、体毛の手入れは行き届いているようだ。美紀と佐紀が愛情をもって接しているのだろう。でなければ今頃は毛玉だらけのネコになっているはずだ。

「お前ら自身はそれでいいのか?」

「信頼する人が決めてくれたこと。わたくしはそれで十分です」

(真面目な問いにはちゃんと口を開くか……)

「ふーん……」

 美紀に対する評価を少しだけ引き上げようとしたとき、

「ただ、わたくしたちのお兄様となる以上、それなりのお方でないと……。素直に『お兄様』とはお呼びできません」

「それでいいよ。それはお前ら自身の判断に任せる」

「……はい」

 美紀は満足げに二匹を撫でた。


「片付いたよー」

 佐紀の部屋には、ようやく三人が座れるか、という程度のスペースだけが作られていた。

 大きな化粧台の前に用途の分からないチューブが多数転がって、本棚には多言語の洋書が詰め込まれている。ベッドには服やカバンが散乱し、勉強机と思しき机には漫画や教科書、筆記用具、ノート、リモコン、カップ、マウスなど、あらゆるものが載せられている。壁にはアメリカの野球チームのポスターやらペナントやらががべたべたと貼ってあり、背の高いスピーカーにはなぜかペットボトルが置いてあった。アップライトピアノと部屋の中央にあるガラスのテーブルだけは無事だった。

(ガラステーブルが片付いたのか……)

 佐紀は絨毯に残っているお(はし)、お(たま)の抜け毛と格闘している。

「おい、この絨毯……いくらだった?」

 部屋に入って真っ先に目が行った絨毯について、真司は直球を投げてみた。

「すっごい高いらしいですよ。金額は聞いたことないですけど。えへへ」

「えへへって言ったぞ」

「ツッコミがきた!」

(この絨毯、札束の二つや三つで買えるもんじゃないな……)

 真司は絨毯の表裏、厚みや模様、素材を確認した。ワシントン郊外の友人宅で、似たような絨毯を触ったことがある。

「すげえ……クムのシルクで署名入りだよ。下手したらこれでBMWの新車が買えっぞ。これウチに持ってきてくれ、マジで。すげえぞこれ」

「売り飛ばさないなら持っていきます。美紀ちゃんの部屋にも似たようなのがありますよ」

「マジか! ちょっと見せてくれ」

「今はお断りします。初めてお会いしてから何分だと思っていらっしゃるんですか? レディに対してはもう少し、お気遣いなさってくださいな。真司さん」

 真司も佐紀も、

(この部屋の扉を勝手に開けたのはそのレディだよな)

(あたしの部屋って言ったのそのレディの方なのにな)

 踏む必要のない地雷を踏むバカはいない。真司も佐紀も口には出さなかった。

「じゃ、持ってきてくれ」

「考えておきますわ、真司さん」

 美紀は素っ気なく答えると作法通りに正座した。この部屋にはイスがないのだ。

「あ」

「なんですの?」

「ワンピがシワになるぞ。……こういう気遣いは?」

「とても大切ですわ。ついでにわたくし自身にも、お気遣いくださいね。ちょっと失礼」

 美紀は立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。

「おい、おれなんか怒らせたのか?」

「お茶ですよ、たぶん。美紀ちゃんは気が利くのです」

 佐紀が掃除したばかりの絨毯を二匹の巨大なネコがゆっくりと歩く。佐紀は苦笑いして、

「お箸、お玉、あんま毛を落とさないでよ」

 毛玉の着いたコロコロのスペアテープーを丸め、ゴミ箱へと投げ込んだ。

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