第二十八話 バレンタイン
同月のバレンタインデー、山元真司は、昨年末の暮れのあの事件以来、恋人となった上遠野優子からチョコレートを受け取った。
ブランド店の包装紙に包まれていたため、どこかの店で優子が買ってきたのだろう。
最寄り駅近辺の公園でチョコレートを真司に渡すとき、優子は、
「あっち向いて」
反射的に真司が近くの交番に顔を向けると、優子がリップクリームに光る生暖かいその唇を真司の頬に押し付けてきた。
唇と一緒に優子の身体全体が密着し、その感触から真司が逃れられずにいると、優子はそれをいいことに唇で真司の頬を吸い続けた。
優子は鼻での呼吸を荒くして、必死に真司の頬、そこにその唇を押し当てている。優子の熱い鼻息が真司の頬を温め続けた。この状態の優子を見るのは久しぶりで、真司の気持ちも盛り上がってくる。
その体勢で三十秒、一分、五分と二人は密着し続けると、ついに真司が音を上げた。
「そ、そろそろヤバいおれ……。優子……」
「やん……」
「う……動かれると……おれもうヤバい……」
真司の情けない声に、優子はそう言って真司の耳たぶに唇を動かすと、もう一度真司の頬に唇で吸い付いた。
真司と優子、二人の脳と身体が沸騰していた。
(ちょ! あやっば!)
何を考えたのか、優子の身体が再び動き始めた。
「思い返せば、すごいことしてたわね。あたしたち」
「……まあな」
喫茶店に場所を移動した。真司にしても、優子にしても、ちょっとこのまま帰宅して、親に会わせる顔がなかったのだ。
「ほら。今日はバレンタインデーだし、特別な日だし。そういうことにしよう。パパとママにも話さないわ」
「当たり前だ。それだけはマジでホントにやめてくれ」
「嫌だったらもうしないけど……ごめん」
「そうじゃないよ。していいよ。もっとしてくれよ」
「いやらしいわね、真司君」
(……おまえもな)
「あたしのお願い、聞いてくれる?」
「内容次第だけど」
あのようなことをされてしまっては、優子のお願いを聞かないわけにはいかないだろう。しかしそのお願いは、真司の期待とは異なる内容のはずだ。
真司は優子のあの顔を思い出した。魅惑的な表情が脳裏に浮かぶ。すぐにも反応してしまいそうだ。真司は慌てて優子の残像を振り払った。
(惚れた弱みか……仕方ねえな)
「分かったよ。言ってみろよ」
「マウスツーマウスは受験が終わってからにして」
「キスのこと?」
「ちょっと恥ずかしいでしょ! 小さな声で」
「分かったよ。で?」
「だから受験が終わるまでここはダメ」
優子が自分の唇に指を向けた。
「あんなことしといてそれはないだろ。生殺しだよ、それ」
「お願いよ、だから。真司君はいいでしょ、頭いいんだし。あたしはそうじゃないの。恋と受験の同時並行なんて出来ないわ」
「うーん……」
(あと一年かあ……こっちじゃこういうもんかなあ……)
ワシントンでの経験を思い出した。あちらでは十代前半の少女が、ファーストキスで口を開けて舌を入れて来る。
永井の言う通り、一年間は右手を恋人にするしかない。そのたった一年を惜しんで、真司は目の前にいる優子を手放す気にはなれなかった。
「分かったよ優子。でも月一回くらいは、さっきのやってくれよ」
「月に一回って、それじゃあたしの励みにならないじゃない。四半期に一度、くらいならいいのかしら? あたしもすっごく気持ちよかったの、さっきのが……」
「えー、じゃあ三か月に一回とかはどうかな?」
「……それくらいなら……うん、いいわ。じゃあ次は五月にさっきのを二人で楽しみましょう」
「その間はどうするの?」
「ほっぺにチュッとさせて」
「……ブチューじゃなくて?」
「いやらしいわね、真司君」
「優子が仕掛けてきたんだろ」
「……仕方ないじゃない、あたしの身体が勝手にそうしちゃったのよ」
「……あ、いいよ、それで。すげえ気持ちよかったよ優子。マジで感動した。初めてだよ、あんなに興奮したの、おれ」
「あたしもね、なんていうか、その、夢中になって身体が動いちゃったのよ。さっきの、周りが見えなくなるのね。気を付けないと大変なことになるわ。五月になったら今度はあたしの家でさっきのしようよ。人目が嫌だし、家なら安全だし。今日よりもいいかも……」
「じゃあおれの家でやろうよ。こっちは大変なんだよ。いろいろ出ちゃうからさあ、おれは」
「……あたしだって大変なのよ。女だって色々と出てくるんだから」
「……」
「……服はお互いに着たままよ、真司君。あと、受験が終わるまではあたしの家じゃないとダメ。これは絶対に譲れないわ」
「……あいよ」
「……受験が終わったら、ね……、ちゃんと、ぜんぶ許してあげるから。お願いよ、その時まで待って。ね? 真司君、あたしのお願い、聞いてくれる?」
「あ、ああ、もちろんだとも。でも、優子。そこまで思い詰めなくても……いいんだよ?」
「あたしが決めたことなの。その時になったら真司君、もう一度、考えてくれればいいわよ」
「あいよ、優子」
「……本当に、真司君てステキなのね」
「……優子はマジで中等部受けるの?」
「うん。真理恵先輩を見て思ったの。真理恵先輩ほどのお人が、あんなに泣けるほど頑張っても入れないなんて……。そんな学校、ほかにはきっとないはずだわ。やりがいが湧いてきたのね、あたし。頑張るからね、あたし」
「……もしもだよ、ダメだったら?」
「あたし、バリバリの女子校に行くわ。真理恵先輩と同じ学校よ」
「……」
(おいおい、それはねえよ……)
「……おれと同じ学校じゃなくなるよ?」
「だからあたしは頑張れるのよ」
「……」
(マジかー……)
そろそろかなというところで、優子の携帯電話が鳴り始めた。優子の父、英雄が迎えに来てくれるらしい。真司は帰ろうとしたが、優子に引き留められ、英雄の車に乗せられて、このバレンタインの晩にも優子の家で夕飯をご馳走されることになった。
優子は父・英雄の助手席に座り、今日の罪滅ぼしのためか、パパ、パパと、英雄に何度も声をかけてはよく笑い、よく喋った。




