第二十七話 夕陽のあたる教室
上遠野優子は中等部の合格発表の日、駅ソバ屋での真司の姿と同じくらいに衝撃的な光景を目にすることになった。
(真理恵先輩が……)
倉橋真理恵は中等部の受験に失敗し、その結果を六年生の担当講師に報告しているところだ。
例の女性講師が真理恵を抱き締めて大声で泣きはじめた。
「ごめんね、倉橋。ごめんね、倉橋……」
「縁がなかったんです、きっと。先生、そんなに泣かないで……」
(あの先生、あんなふうに泣くんだ……あ、あんまり見てちゃいけないわ……)
居たたまれなくなった優子は、女性講師と真理恵に気付かれないよう、そっとその場を立ち去った。
この日、五年生のクラスは休講である。六年生の合格発表に講師陣は手いっぱいで、五年生の面倒など、
(見ていられない……)
というわけだ。
優子の目的は次の月例テストの過去問である。六年生の講義はもうない。翌月三月からは優子たちがこの進学塾の最上級生となるのだ。その新クラスの選抜に次の月例テストが用いられるので、優子は念のためにその過去問を取り寄せに来たのである。
上遠野優子の足は、ついつい、最上階の五年生・Sαクラスの教室へと向かった。
この教室にも、真司がワシントンのあの教室で、彼の恩師・ホランドと向き合った時と同じように、暖かい夕陽が斜めに優しく差し込んでいる。
優子は真司の机と自分の机にそっと指先で触れると、口元を綻ばせて黒板を振り返った。
優子の漆黒のワンレングスがこの教室に差し込む夕陽を反射して、その毛先が左右にゆっくりと揺れている。
この黒板には、たくさんの思い出が書き込まれた。
優子は視線を上に向けた。
天井にはいくつもの小さな穴が見える。真司の歓迎会で、天井にダーツを優子が撃ち込んだ時の痕跡だ。
その時のダーツ投げは、ダーツに関して負け知らずの優子の役目であったのだが、優子の友人・遠山春香が優子から強引にダーツを一つ奪うと、彼女は優子の真似をして天井にそれを投げ、優子の想像以上の失敗をしでかしたものだ。
春香の投げたダーツは、LED照明に命中してそれを破壊した。
優子が投げたダーツは、上遠野流手裏剣術で用いられる手裏剣そのものとなって、この進学塾のこの教室の天井に深々と突き刺さっており、この進学塾の講師全員が、
(間違いなく男子の仕業だ……)
と、それを優子の技とは見抜けなかった。
それらの天井の穴、加えてLED照明破壊の責任の全ては、クラスのリーダー、永井主悦が一身に引き受けている。
夏期講習中に開催された、優子が所属している『五年生・Sα・真夏のクラス会』も、そのクラスの担当講師・日村の力添えで大いに盛り上がった。
優子は春香と共に、日村が用意したパイを顔面に浴び、パイまみれになって化粧室へと駆けこんだ。
教室にタオルを忘れた優子へ、ハンカチを快く貸してくれた先輩、その先輩が倉橋真理恵だった。
(うふふ……)
そのときの真理恵の笑顔を、優子が思い出し笑いをしていると、廊下をコツコツと歩く足音が聞こえてきた。
(真理恵先輩だわ……)
優子が五年生の教室を出ると、果たしてその廊下に、倉橋真理恵が立ち止まった。
「優子ちゃん。さっきはごめんね。恥ずかしいところ、見られてしまったわ」
「そんな……。恥ずかしいだなんて、そんなことは……」
真理恵は笑顔だ。優子の胸が痛む。
(真理恵先輩、……辛くないの?)
優子はその気持ちを言葉にできなかった。
「優子ちゃん。ちょっとだけ、私を一人にして。ごめんね、優子ちゃん」
真理恵はそう言い残すと、表情を変えて、使われていない空き教室の中に消えていった。
(そういえばあの教室、何に使うのかしら? 使っているところ、見たことがないわ……)
空き教室の扉には目隠しが施されている。
(ふふ、あの時みたい)
優子が真司の歓迎会を思い出したとき、空き教室の中から真理恵の絶叫が聞こえてきた。
「うわーーーーーーーーーーーーーーーん!」
「真理恵先輩っ!?」
優子は突然の空き教室内部での異変に驚いたあまり、一瞬、その空き教室の扉を蹴り破って、親しい間柄にある倉橋真理恵を救出しようとしたのだが、
(……ま、真理恵先輩……ひとりで、泣いているの?)
優子の心臓は高鳴り、その瞳からは涙が流れた。優子は身体の震えを止められず、その場から動けない。
空き教室の中では真理恵が叫び続けている。何かを投げる音、何かがぶつかる音、真理恵の叫び声と共に、様々な音が聞こえてきた。
真理恵が泣き叫びながら教室内で暴れているのだ。目隠しで空き教室の中の様子は優子に全く分からないが、真理恵が暴れていることだけは感じ取れた。
(真理恵先輩……)
この空き教室はこの進学塾が用意した、受験に失敗した生徒だけが使える泣き部屋だったのだ。その黒板には例の六年生の女性講師の手で、
『負けないで』
とだけ書かれてある。
優子は真理恵の絶叫を胸に刻み込むと、両掌を握りしめて全身に気合を入れたのち、黙ってその場から離れ、家路を急いだ。
「パパ、ママ。あたし、あの私大の中等部を受験するわ。絶対に、あたし、合格して見せる」
優子が第一志望校をその中等部に定めたのは、その日の晩であった。




