第二十二話 Fall in LOVE
普段の優子なら、手首を掴まれて駅ソバ屋に引きずり込まれる、そんな暴挙を男性に対して許しはしなかっただろう。その相手が真司であっても同様だ。
普段の彼女なら、掴まれた左手首にもう片方の手を添えて、掴んできた相手の手首を逆に固めていたかもしれない。
優子は真司にそんな行動を許したのではなく、従わざるを得なかったのだ。
真司の握力は優子の想像をはるかに超えて強く、同時にその左手首と共に優子の身体を引き寄せる真司の腕力にも抗うことができなかった。そもそも、背後から近づく真司の気配さえも感じることができていない。
優子から見た進学塾での真司は、感想戦ともいえる月例テストの解き直し討論会で頻繁に弁舌を振るい、クラスメイトはもちろんのこと、講師である日村さえも感心させて唸らせることが多かったが、クラスメイトに対して粗暴な振る舞いに出ることは一度たりともなかったはずだ。
歓迎会での春香の態度に一度だけその牙を剥いたこともあった気がするが、優子の中でその件は、無礼な春香に対する真司なりの誠意を込めた注意として処理されている。
あの時の真司は無礼な春香に対しても気を遣った言葉を確かに口にしたはずだ。
その真司が、今、優子をソバ屋に引きずり込んで、その背に優子を庇いながら、ここまで追ってくるかもしれない優子の敵を探している。
真司の拳が閉じたり開いたりと素早く動いていて、その動きと速さが尋常のものではないことに優子は気が付いた。
その拳は結んで開いてのそれではなく、単なる準備運動のそれでもなく、古来からの格闘技の中で用いられる正拳という形そのものだった。
真司は両手の小指から順に拳を握り込み、親指で一旦その拳を固めては解放するという動作を瞬時に繰り返している。例えばそれは、実際に格闘技を経験していない人物から見た場合、両手の指を使ったマジックのようにも見えるだろう。そんな動きである。
真司はその動作を不意に中断すると、左手指の付け根部分に自分のハンカチを巻き付けた。右の拳はそのままである。真司は打撃に左拳を、寝技に右手を使うつもりだ。
真司はボクシンググローブの下にあるボクサーの手に似た左拳を完成させると振り返り、自信に満ちた笑顔を優子に向けた。
「心配すんなよ、優子」
温和で謙虚だったはずの真司が、優子を守るために見ず知らずの男と戦う覚悟を決めている。
これは優子にとって衝撃的な光景となった。
ドラマや漫画にはもちろんのこと、ドキュメンタリーの中にも時として登場する燃える男、真司が初めてその本来の姿を優子に見せた瞬間である。
優子が真司に抱いていた嫉妬は跡形もなく消えてしまった。
その代わり、優子は自分の身体の中心部分、子宮のあたりに火照りを感じると、少しの時間をかけてから、それが本能の求めであることを理性で理解した。
電車が一本、ホームから滑り出していく。
その電車の中に、優子の敵がいた。
真司はその電車が視界から完全に消えるまで、自身の緊張を決して緩めなかった。
電車の最後尾がホームを離れた。
大きく息を吐いた真司は、この場所がソバ屋であると思い出して、優子に努めて優しく声をかけた。
「優子、何か食うかな?」
「……ありがとう、真司君。正直に言ってあたし、あなたに本気で痺れたわ」
真司を正面から見詰める優子の声が震えていたのも、優子の目に涙が浮かんでいたのも、その原因は恐怖によるものではなく、
(ほんの数分の間だったのに、一気にあたしは女にされてしまったわ……)
この驚きと感動によるものであった。




