第十六話 二項定理
「真司。塾行かね?」
「行かね」
「おい。頼むよ。親が煩いんだよ。頼むよ」
「おれはいいよ。めんどくせえ」
「おーい。頼むよ。真司。なあ」
「……うるせえなあ」
宮田が真司を塾へと誘っている。
つい最近から通い始めた剣道教室の稽古が激烈過ぎて、真司はそこに参加するだけでも精一杯だった。
道場の師範からは、
「素振り千回を毎日、だぞ……いいね」
厳しく言いつけられていて、真司にはその理由が分からなかったのだが、時々サボると必ず師範にバレてしまい、その度に道場の隅で兄弟子たちからボコボコにされている。
真司が素振りをサボった日、これを師範に通報しているのは、実は真司の母親の真夏であって、真夏もまた、真司がサボった日は師範に連絡を入れるように、と、真司の父親の修司から念を押されていたのである。
(塾なあ……)
小学校の授業を十分に面白く感じていたため、真司は塾に興味が湧かなかった。
それでも宮田がしつこく食い下がってくるため、仕方なく、といった様子で、
「母さんに聞いとくよ」
「助かった! 今度の日曜な! 頼むよ。真司」
「めんどくせえなあ……」
(あ……)
一年生の頃に熱中していた教材プリント学習、真司はそれを思い出した。
(でもなあ……)
二項定理の文章題を楽しんでいたレベルはとうに過ぎて、今では線形代数学にまで手を付けつつある。あの教材プリントは、もう真司の役に立たないはずだ。
宮田に生返事を返しておいて、帰宅後にこの件を真夏に伝えると、
「塾? 行きなよ。面白いと思うよ。あたしも通ってたし。いろいろ細かく教えてくれるよ。あたしが通っていたところ、連れてってあげる。んー……。大丈夫かな。うん。行けると思うよ。いつ行く? 日曜? あたし休みだし、付き合ってあげる」
「え?」
真夏の話が真司にとっては意外だった。今まで、真夏に大丈夫かななどと言われたことがなかったためだ。
その場で真司は宮田に電話をかけて、候補の進学塾、真夏が通っていたという進学塾の名称を告げると、彼との約束通りに、日曜、進学塾の入会試験を受けるため、真夏と共に家を出た。
少子高齢化社会の中、この進学塾は入塾希望者に試験を課し、容赦なく合格者と不合格者を明確にして、一定水準以上の児童を集めていると評判だ。
残念ながら、テストを受けることになっていた最寄り駅のこの校舎に、真夏の恩師はいなかった。
真司は気を引き締めてこのテストに臨んだわけだが、出題レベルに拍子抜けし、ついうっかり、全問に正解してしまった。




