第十二話 TOEIC九百点
真司の予想に反して、修司と真夏の帰宅は早かった。
「ただいまー!」
真夏が階段をバタバタと駆け上がってくる。真司を一目見て、真夏が声を張り上げた。
真夏の目が大きく開いている。
「久しぶり! 大きくなったね!」
「ただいま。母さん」
「で、貴女がアイリーンね。ありがとう、いろいろと。ゆっくりしていってね」
「……?」
アイリスは早口でまくし立てる真夏の日本語を聞き取れない。
通訳は真司に決まった。
修司はコンビニ袋からビールを一本取りだすと、残りの五本を冷蔵庫に入れる。そして、リビングに異物がないか、じっくりと室内を観察した。駆け出し時代の名残である。
ものというのは不思議なもので、いつの間にかなくなっているものもあれば、いつの間にか増えているものもある。
なくなっているものは捨ててしまったのかもしれないし、どこかにしまい込んでしまったのかもしれない。忘れた頃に出てきた、という経験を誰もが持っていることだろう。
ところが、いつの間にかに増えているもの、これには注意が必要だ。自分が増やしたものはにはそれなりの確認をしているであろうが、自分の知らないところで増えているものには、そこに何が仕掛けられているか、とても分かったものではないのだ。
昨今、増加する盗聴器や盗撮器の類は、そうやって仕込まれていくのである。
アイリスを居候させるにあたっては、いくつかのルールが決められた。そのうちの一つが、
『せっかくだから、あたしに英会話を教えて』
真夏の語学力は眼科医として十分なものであったが、ネイティブの物の見方、表現の仕方は独特で、TOEICにおける九百点の壁は、まさにそこにあると言っても過言ではない。
この違いを知ることで、海外の研究室で書かれた論文に対する理解度が飛躍的に向上することだろう。
アイリスにとっては勉強にならないが、宿を借りるという礼の意味も込めて、彼女は快く真夏の申し出を受け入れた。
今日のところは、通訳を介するらしい。
「アイリス。貴女、本当はアイリーンっていうんでしょ? 何でアイリスなの? 【この部分は英語である】」
「昔からそう呼ばれていますので 【この部分も英語だ】」
「えー。なんかね。あたしの感覚だと、アイリスってなんかガキっぽいよ。あと、なんかバカっぽく感じちゃう。あと、アイリスなにやまっていうメーカーもあるし。電子レンジとか。ペットのご飯とかの。あたしはアイリーンって呼ぶわ。いいかしら? 【この部分は日本語だ】」
「……?」
アイリスが真司に通訳をせがむ。
修司が真夏とアイリスから目を逸らせてビールを一口飲む、その様子が真司の目に入った。逃げの体勢に入っているわけだ。初日からケンカをされてはたまらない、二人をよく知る息子・真司に丸投げをするつもりである。
(……訳しづらいったらねえな)
真司が直接話法で真夏の発言内容をアイリスに伝えると、彼女は笑いながら英語で、
「私も昔からそう思っていたの。これからはアイリーンと呼んで。シンジもよ」




