第一話 SAT
ホーム中ほどにある駅そば屋で、高校生にも見えるカップルがカウンターの隅で仲睦まじく肩を寄せ合いつつ、熱々のそばを手繰っては口に運んでいる。
この二人はこの店の常連客で、月水金の週三回、午後八時を過ぎた頃になると、この駅そば屋を訪れては毎回必ず、男子生徒は暖かい月見そば、女子生徒は暖かいたぬきそばを注文する。
店内ではそばを運んだりお茶を運んだりと、男子生徒が女子生徒の世話を焼き続けるのだが、そばを食べ終えて一歩店外に出ると、今度は女子生徒が男子生徒にコートを着せたり、彼の口元を丁寧に彼女がハンカチで拭ったりと、その役割を自然に交代する。
(微笑ましいわね……それに、随分と二人とも背が伸びて……顔つきも体つきも大人っぽくなってきたわ……)
この店のこの時間帯を切り盛りしている若い女性は、この二人にこんな思いを抱いている。この二人とは、もう一年以上の顔見知り、となっているのだ。
大人びた風貌のこの二人だが、実は、翌年の二月、つまりはあと一か月あまりで中学受験を迎えることとなる小学校六年生のカップルだった。
二人の会話が聞こえてくる。
「ねえ、真司君。頭がいいって何なのかしら?」
「……おれだってよく分かっていないよ、優子」
小さな唇を大げさに尖らせて、女子生徒・上遠野優子が隣にいる男子生徒・山元真司の顔をのぞき込むと、真司は艶々と濡れて光る優子のその唇に、一秒ほどその目を奪われてしまった。
(優子には敵わねえなあ……)
その艶々は優子の食しているたぬきそばの油が主成分なのだが、アップでそれを目の当たりにする真司にとっては、そこに優子の『女』を感じること禁じ得ず、彼女の濡れて光るその小さな唇は、真司にとってインパクト絶大な優子の象徴とも言えるものであった。
男の目は欲求に正直で、欲しいものには素直に向いていくものだ。
この駅そば屋を出ると優子は化粧室へと身を隠し、その唇に薄い色合いのリップクリームを塗るだろう。
今は白いバレッタでまとめられている漆黒の髪も、その時には肩までのワンレングスとなって甘い芳香を放つはずだ。
優子との交際が始まってようやく一年となった今となっても、バレンタインの夜に喫茶店で優子が宣言した通りに、彼女は唇同士の接触を今でも真司に許してはくれていなかった。
潔く諦めて、真司は目の前の月見そばに集中した。
「あーあ。真司君は頭いいからね。あたしはダメかもな」
「やめてくれよ、中等部は優子が言い出したんだろ。受かるって、な? な?」
「あーあ……」
優子は大げさにため息をつくと、今回はため息の形に口を開けたまま、横目で真司を見つめてきた。
優子の白い歯の奥にピンクの舌が蠢いている。
「優子。もう勘弁してくれよ」
中等部というのは私大の付属校で、女子の募集定員が圧倒的に少なく、例年その競争は熾烈を極めている。
私大の内部には女子高とその内部で呼ばれる女子高等部があって、その私大への内部進学を希望するだけの女子生徒ならば、高校受験の学齢を迎えた段階で、その女子高等部への受験を試みたほうがよっぽど合格の見込みも高まる上に、受験勉強の負担も中学受験と比べてずっと楽なのだ。ただ、その女子高等部も全国偏差値は七十を超えてはいるのだが。
とにもかくにも、彼らが合格を目指している中等部は受かりにくく、入りにくい中学校として有名で、その中等部を受験した経験のある少女たちにとってみれば、私大そのものの受験などザルのようなものに感じるということだ。
その私大の人気は卒業生による人脈・同窓会に起因しているのだが、ここでは詳しく触れないことにしておこう。
真司にとってはそんな中等部など、実際のところどうでもよかった。
彼は九歳の時に受験したSATにおいて、二千百点という驚異的な成績を修めている。
ワシントンの現地校でスキップを重ねた彼は、年上の同級生にもまれながら、日本における中等教育課程に相当する部分をそこで既に修了していた。
真司にとっての『Clear and Present Danger』は優子の進学先だけである。
その中等部の受験に失敗した場合、
『あたし、バリバリの女子校に行く。真理恵先輩の学校』
たとえ真司のIQが百六十に迫っていたとしても、彼では女子校に出願することすらできるはずもない。
この点だけが真司にとって問題だった。
優子の勉強を見ること自体は容易いが、二人きりでいると邪な気持ちが湧いてきて、それを優子に気付かれてしまう。
しかし今は、優子の尻を蹴飛ばしてでも中等部に合格させる必要がある。
奥の手はあるがフェアじゃないので採用できない。
(上手くいかねえなあ……)
「優子。そろそろ急げよ」
真司は優子に笑顔を見せて、彼女のペースを上げさせた。
視線が優子の唇に向かってしまう。
(こっちも上手くいかねえな……)
「……お茶をもらってくるよ、優子」
真司は優子の肩をポンポンと優しく叩くと、カウンターへと歩いて行った。




