エピソード2 目覚めと目醒め
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まず始めに感じたのは途方もない倦怠感だった。
体の筋肉を全て鉛に差し替えられたかのような気だるさと、ツンと鼻に響いてくるような消毒液の香りとが体の中を駆け巡る。
閉じているのか開いているのかすらわからないが、まぶたのある辺りからはうっすらと光の気配もした。
気を抜くと堕ちてしまいそうな意識を無理やりに呼び起こし、視力を回復させる。
「...知らない天井だ。」
思えば端末の目覚まし以外で起きたのも久しぶり。
何もかもが普段と違う目覚めだった。
「う...ん、あれ?住吉"先輩"ッ?!」
足元から声がした。
凛としたアルトボイス。
録音して無圧縮でエンドレスリピートしたくなるような、そんな声。
この声はもしや...
「...早乙女さん、か。」
「住吉先輩!良かったッ!気がついたのかッ!」
早乙女桜。
俺の学校でその名を知らぬ人はいない。
我が都桜学園で不良グループのリーダーをやっている一年下の後輩。
車に轢かれそうになったところを俺がすんでのところで庇ったのだ。
様子からして恐らく無事だったのだろう。
彼女は俺が起き上がるのを見ると、目が溶けているのではないかと思う程大粒の涙を流し、しかしフッと顔色を変えるとまだ安静にしておいてくれ、と俺をベッドに押し戻す。
真っ白な部屋と対になるかのような彼女の黒絹の髪が、ふわりと揺れるのを思わず目で追うと徐々に視界が開けてきた。
俺はベッドの上に寝ており、ベッド横の小さな机には見舞いのリンゴが置いてあった。
ここはもしやーーー
「病院だよ。君が倒れてすぐ、桜が私に電話を掛けて来てね。事情も事情だしとりあえず、ここに運びこんだんだ。かなり危ない状態だったよ。なにせ10日も意識がなかったんだからね。」
俺の考えを見透かしたかのような絶妙なタイミングで、早乙女の後ろから声がした。
凛としたこれまた美しい声。
早乙女の声と決定的に違うのはそれがよく響くバリトンボイスであることだ。
「お目覚めかな?気分はどうだい?」
現れたのは、身長が180はあろうか大柄な男。
なかなかに食えなさそうな男だな、というのが第一印象。
美醜でいえば間違いなく美に分類されるイケメン面に人畜無害そうな優しい笑みを浮かべている。
しかし多分、これは仮面を被った表向きの顔。
物腰柔らかそうに歪められた瞼の奥で光を失っている瞳と、ネームプレートに彫られた『日本医師会名誉教授』という、その若々しい見た目とはあまりにも不釣り合いな役職から彼はかなりの実力者であることが推測できた。
「僕の名前は千種 進。姓は違うが桜の父だ。一応ここの病院で院長もしている。今回は娘を庇ってくれて本当にありがとう。桜はうちの家の一人娘だ。失わずにすんで本当に良かった。」
男はそう言ってニコニコとたくさん管がつながった俺の手を取ってくる。
俺はそれを握り返し
「こちらこそ。危ないところを助けていただいて」
と礼を返す。
なるほど。
どうして金の当てもない俺みたいな貧乏学生が、こんな見るからに大きそうな病院の一人部屋に入院できたのか疑問に思っていたがどうやら早乙女さんのコネだったらしい。
早乙女さんもありがとうな、病院へ連れてきてくれて。
そう礼をしようとして彼女に向き直るーーー
「いやはや、ともかく二人とも無事で良かったよ。本当は桜の学校での話なんかも聞きたいところだがそろそろ僕も仕事に戻らないといけない。御暇するとしよう。」
どれくらいの間があったのだろう。
突然千種氏が口を開いた。
「...あぁ!すいません。ご多忙なのに長いことにお引き留めしてしまって。また機会があればゆっくりお話しましょう!」
少しテンパりながらも精一杯の"社交辞令"で返す。
その言葉に千種氏は先程とは少し違う、"冷たい微笑み"を見せゆっくりと病室をでていった。
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ーーー沈黙。
千種氏が病室をあとにし、再び二人きりになった俺と早乙女さん。
お互い先ほどから一言も発していない。
何か話した方がいいのだろうか。
でも彼女になんと声をかければよいのか...。
うーん。
「あの...住吉先輩?」
「ファッ?!あぁ、いやごめん!なにかな?」
「あっ...えっと、そこのリンゴ剥いてやろうか?」
彼女が指差したのは机の上の丸々とした大きなりんご。
点滴のお陰で特別腹は減ってないがこの沈黙をどうにかしたい。
千草氏と入れ替わりで来た看護師も、少しならものを食べても構わないと言っていたしお願いするとしよう。
シャリシャリ...とりんごが剥ける音がする。
見かけによらず器用なのか、手際よくどんどんとりんごは丸裸にされていく。
「あのさ。なんであの時あたしなんかのことこんなケガまでして助けてくれたんだ?」
早乙女さんが問いてきた。
彼女はあくまでなんでもない風を装っているが不安そうにうつむく彼女の瞳とガリッ...ガリリッ...と音を変えた手元のリンゴがその心情を物語っている。
「私みたいな社会のゴミ、助けたってメリットないだろ?誰もあたしの存在なんか望んで無い」
「早乙女さんーーー」
「どうせなら、あの時助けたりなんかせず見捨てればよかったんだ。どうせあたしなんて」
「早乙女ッ!」
思わず声を張り上げた俺に彼女が驚いたように目を見開く。
「自分の価値を自分の物差しで勝手に図ろうとするなよ。それからな。俺が君を助けたのは...ただの自己満足だ」
「...?」
「俺は昔、大切な人を目の前で失った。」
突然の言葉に彼女が言葉を飲み込み、次の言葉を待つのがわかった。
「ショックが凄くデカすぎて、不謹慎だけど『早く忘れたい。』毎日そんなことばかり考えてた」
ーーー周りの人々も『あれは不慮の事故みたいなもの。しょうがない。気にするな』口々にそう言った。
俺だってそう思いたかった
不慮の事故だったんだから仕方ない。自分のせいじゃない。
そうやって責任をなびって、記憶を風化させようとした。
でもーーー
「そんなこと出来る訳がないだろッ!目の前で大切なものが消えたんだッ!」
ーーー手を伸ばせば失わずに済んだのかもしれない。だが、俺はそれをしなかった。咄嗟に自分の命と"あの人"を天秤にかけ、判断を誤った。
夜眠ろうと思うと、毎日のようにその時の光景が浮かんできて、吐き気で目が覚めるほどうなされた。
よりダメージが少ない方を選んだ筈なのにその選択は、多分一番凄惨な結果をうんだ。
「だから君を助けたのは、もうあんな思いをしたくないって言う俺の身勝手な理由だ。...でもな。理由はそれだけじゃない。」
思わず勢いで喋ってしまった今まで誰にも話したことない気持ち。
すっかり神妙な顔になってしまった彼女に肩の力を抜いてもらうため、なるべく穏やかな顔を作って言う。
「男が女を助けるのは当然だろ?」
すると彼女は何故か顔を真っ赤にし
「ほら、リンゴ剥けたからッ、さっさと食え!」
頭は綺麗に丸く、お尻の部分は芯しか残っていない不格好なリンゴを無造作に置き、
「ありがとな」
小声でそう、呟いた。
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「それとごめんっ!」
早乙女さんが剥いてくれたリンゴを食べ終わり一心地ついた頃、突然彼女が謝罪をしてきた。
「えっ?!なにが?」
尋ねる俺に、彼女は懐からなんだか見覚えのある黒い物を取り出す。
「事故の前、これ返そうと思ってたのに忘れてた。あの時はうちの組のやつが悪いことしたみたいだったな。」
言い終えてから手渡してきたのは事故の前に俺が巻き上げられた財布だった。
「どうして...」
もう戻ってこないと思っていたのに...
「うちの組の人間には一般の生徒に恫喝したり、ものを巻き上げたりすんなって口を酸っぱくして言ってたんだがな。どうしてもこういうことする奴が出てきちまう。」
と目を伏せる。
その時気づいた。
うちの学校には時々、早乙女さんの不良グループ目当てに殴り込みにくる他校の輩がいる。
毎回、彼女によって完膚なきまでに返り討ちに合うので、その実力から校内の人間は「彼女に近づくと殴られる」と彼女を恐れ「危険だ」と敬遠する。
だが今思い返すと記憶の中の彼女は暴力こそふるえど自ら無関係な人間に突っかかったりしていたことが無い。
もしかしてーーー
「なぁ、早乙女さん。君はどうして今のグループを束ねるリーダーになったんだ?」
「入学式の時にこの服装のせいで当時からワルやってたうちの組のやつにちょっかいかけられてな。そいつがあんまりにもしつこいからブン殴ったら、組の掟?だかなんだかでリーダーに祭り上げられて...その、今に至る。」
多分彼女にちょっかいを掛けたのは元々うちの学校で番長をやっていた人なんだろう。
彼女がいった「掟」というのは、組で頭を張っている人間が喧嘩で負けたらその人が次のリーダーとなるとかそんなものなのだろう。
「じゃあ、気に食わない人間を呼び出してリンチにしたり、立場の弱い人間をパシリにしたりしたことはある?」
「そんな酷いことするわけないだろッ!?そういうことをするのは卑怯者だ。うちの組じゃ不良の風上にも置けない。」
不良であることは自覚してるのかよ。
だが、何となく分かった。
彼女は口調は荒っぽいし、ぶっきらぼうで性格や見た目は自他ともに認める不良そのもの。
だがーーー
「ーーー意外と普通の女の子なんだな。」
「なッ?!また...の子って...そんなの...」
「ん?なんか言ったか?」
「言ってないッ!」
真っ赤になったりモジモジしたり怒鳴ったり忙しい人だ。
「?まぁ、いいや。それよりさっき俺に財布返してくれた時さ。『償いなら何でもするから』って言ったよな?」
「あぁ。言ったな。...まさかえろいことを」
「いや。させねーよ。そうじゃなくてさ。早乙女さん、君は償いとして組解散してこれから真っ当な学生生活を送れ」
「えっ?突然何を」
困惑する彼女に先程から、ずっと考えていたことを口にする。
「早乙女さん。君は確かに一見、不良グループにとってこれ以上にない有力な人材だ。だから組の人達が君に番長をしてもらいたいのも分かる。」
君は服装や口調も荒々しく、腕っぷしも強い。
だけどーーー
「けど、俺からすれば君は何度も言うが普通の女の子だ。悪いことなんか一切できないし正直不良には向いていない。だったら辞めちまおうぜ。見た目も可愛いし今からでもきっと人気者になれる」
「なッ、今可愛いって...いや、でっ、でもそんなことしたら組の奴らが...」
ーーーまただ。
これは多分彼女の持つ最大の長所であり同時に最大の短所なんだと思う。
「君は"いつも人の視線ばかり気にする"な。君自身はどうしたいんだ?俺が聞きたいのは君の周りの人間のことなんかじゃない。君自身のことなんだ」
言い終えてから彼女を一心に見つめる。
最初は戸惑っていた彼女も、それに応えるように覚悟を決めた顔で口を開く。
「私は...
私は変わりたい。変えてみせるよ。」
「そうか。」
俺が思わず微笑むとなぜか彼女はうっすらと頬赤くし「飲み物買ってくる」と言って病室を出ていった。
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「普通にしてればめちゃめちゃレベル高いんだろうなぁ」
彼女の居ない病室で俺は一人、先程病室をでる前のほんの一瞬彼女が見せた笑顔を思い出していた。
それは校内で腫れ物のように扱われるあの女番長からは想像も出来ないなんと言うかこう、尊さのようなものがあった。
「...。」
だからこそ思い返してしまうのはあの時の顔。
思わず顔を曇らす。
俺に見せてくれた笑顔からは想像もできないようなーーー病室で彼女が父であるはずの千草氏に対し見せていた、怒りに満ち溢れた憎しみの顔だった。
あけましておめでとうございます。お久しぶりです。見代橋です。なんの前触れも無く長期的に投稿を休んでしまい申し訳ありませんでした。なぜ半年も休載してしまったのかについては後日、同じく投稿が遅れている他二作品と共に活動報告でお話する予定ですがまずはこちらでお詫びします。これからも「りめいくっ!」の応援宜しくお願いします。