桜の君
生暖かい春の陽気が、脱脂綿のように世界を包んでいた。
まとわりつく空気を掻き分けて、堤防沿いに自転車を走らせる。
額に張り付いた前髪を引き剥がしたくて、がむしゃらにペダルを漕いだ。
まさか、入学式当日に寝坊するとは。読みかけの小説に見切りを付けられず、深夜まで読み耽っていた昨日の自分をぶってやりたい。もう十五分も遅刻している。
大学の近所に下宿を初めたのは一週間前のことだ。
家賃は三万円で大学まで自転車に乗って十分程度。悪くない条件だと思う。まぁそれでも遅刻するときは遅刻するんだけど。
これまで順調に漕ぎ進めていたが、不意に信号に捕まった。
止まったことで少し冷静になった僕は乱れた呼吸を整えて前髪を丁寧に横に流す。堤防沿いの道はうららかな陽気であちこちで芽吹く植物の香りがする。花曇りの空を背負って桜が憂鬱に枝を揺らしている。大学はもう目前だ。
信号が青に変わる少し前、道路を挟んだ向こう側で女の人が立ち止まった。オフホワイトの日傘を差した彼女は悠然と桜を見上げた。瞬間、呼吸ができなくなる。その立ち姿が、あまりにも美しかったから。
切れ長の目、整った鼻の形、そしてーー何かに耐えるようにきつく結ばれた口元。
彼女は、桜を見上げながら泣いていた。嗚咽も漏らさず、凛としてはらりと、静かに涙だけを溢していた。
胸が張り裂けそうなほど美しい。
信号が変わっても僕は動けなかった。
日傘だけが彼女を世界から守っていた。
次の信号で自分の横を通り過ぎる彼女の顔を見ることが出来たかった。通りすぎてから振り返り見た背中は冗談のようにしゃんとしていた。まるで先程の光景が、春の白昼夢に過ぎなかったように。 我に帰った僕は急いで自転車に跨がった。
雲間から差し込んだ太陽光が、桜の花弁で乱反射している。