「境界」
視界は真っ暗だった。何も見えない。けれど、近くでいろんな人の声が聞こえてくる。女の人の声、男の人の声、低い声、高い声、様々な声があたしの耳に入っている。真っ暗な視界とたくさんの声、そうだここはどこなのだろう。ボサツ様と真っ暗な道を歩いていたことは覚えている。けれど、そこからどうなったのか全く記憶がない。気が付けば意識を失い、今に至っている。あたしは、無事に帰ってこれたのだろうか。その時、真っ暗だった視界の奥にとても小さな光が灯った。その光はどんどん膨らんでいき、やがてあたしの視界全部を覆うほどに広がった。そして、その光が突然弾けた。
「……杏子?杏子だ!杏子が目を覚ましたぞ!」
光が弾け飛ぶと、視界は一新し真っ白い天井が映った。そこに、あの人――お父さんの顔が映り込み、あたしの名前を叫んだ。その声につられ、また二人の顔が視界の横から映りこんだ。お母さんと、御厨だった。重い体をゆっくり起こすと、頭がずきりと痛んだ。……そういえば、ここでのあたしは「事故にあって意識を失っている」ことになっていることを思い出した。ところどころ痛む体を起こしきると、優しく抱きしめられた。
「よかった……、本当によかった……」
抱きしめたのはお母さんで、泣きじゃくりながらあたしがここにいるということを確認するかのように、優しくそれでいて力強く抱きしめられた。御厨も両手で顔を覆い、涙を啜る音が鳴る。みんな、ただいま。あたしはどうやら現世に帰ってこれたようだ。
その後、騒ぎに駆けつけた看護師と医師により、今の自分の状態を聞かされた。出血は多かったものの、打ち所がまだよかったから命に別状はなかった。しかし、出血の多さから来た意識不明によりなかなか目を覚まさなかった、とのことだった。あの時の獄卒の男が言っていた通りだった。体中が痛む上、まだ傷が癒えていないのでしばらくは入院しろとも伝えられた。「あそこ」にいた時は傷一つなかったのに、こちらに戻ってくると怪我だらけとは不思議なものだった。今日はもう遅いということもあって、看護師らから三人は帰るよう促されているが、明日からも必ず来ると、三人が揃えて言うものだから笑ってしまった。
一人で過ごす病室は思いのほか広く感じられた。体が痛むのでベッドから動けないが、不思議と退屈ではなかった。天井に向けて、右手をかざしてみる。握ってみたり、開いてみたり、とにかく痛まない範囲で手をたくさん動かしてみた。あの時、金棒を持った感覚はしっかりと手は覚えていた。拷問に挑戦しようと見た目よりも重い金棒を持った、あの感触。金属独特の冷たさと、ざらざらした表面。そして、なによりこびり付いていた血の痕と臭い。この世界にはおそらく存在し得ないものなのに、あたしの手はそれをしっかり記憶していた。金棒だけじゃない。獄卒、熱気、見たこともない不気味な生き物、亡者の叫び声。目を閉じれば鮮明に蘇る「あそこ」の記憶。あたしは本当に地獄にいたのだと、改めて気づいた。心のどこかでこれは夢なのではないかと疑っていた。けれど、あたしの体は覚えている。あれは夢なんかじゃない。この記憶を忘れたくない、あたしはあの時と同じように記憶を思い出し、噛みしめ、記憶に刻ながら眠りについた。
それからというもの、本当に三人はあたしの病室へ交替でやってきた。お父さんは甘いお菓子を持ってきたり、お母さんは漫画や小説を持ってきてくれた。御厨は勉強道具持ってきて、あたしが授業に置いていかれないようにわかりやすく教えてくれた。国友も時々見舞いにきてくれた。
そして、各々があたしにその心の内を伝えた。
持ってきてれくれた焼き菓子を口に頬張ると、甘い世界が広がった。しっとりとした生地から広がる柑橘の匂い。目を輝かせながら食べるあたしを、お父さんは苦い顔で見つめていた。
「すまなかった」
もう一つ食べようと箱に伸ばした手がぴたりと止まった。そのまま手をひっこめ、あたしも決意を固めお父さんの方を向いた。今までに見たこともないばつの悪そうな顔だった。
「今まで、本当にすまなかった。謝って許されることではないのは承知だ。それでも、話を聞いてほしい」
あたしは静かに頷いた。
「俺はな、お母さん……杏子から見ればおばあちゃん一人に育てられてきたんだ」
全部知っているよ、お父さんがどんなにおばあちゃんを大切にし、愛していたか。そう言いたいのを我慢し、お父さんの言葉に耳を傾けた。
「一人で俺を育ててくれた婆さんに恩返すために今まで生きていた。でも、その婆さんが亡くなって、俺はなにもわからなくなった。心ここにあらず、ってやつだ。そのせいで会社でも失敗が増えて、どんどんストレスがたまっていったんだ」
目を伏せ、額に手をあて、苦しそうに言葉をひねり出す。
「そんな時、何も知らずに生きている杏子が腹立たしくて仕方なかった。お前のために俺は上司からたくさん叱られながらも稼いでいるんだぞ、お前が生きているのは俺のおかげなんだぞ、って……。今考えれば本当馬鹿げた話だ。確かに、俺は婆さんのために生きていた。けど、結婚も出産も、俺自身が決めたことだった。彩子……母さんを好きになって、二人の子供がほしいと願ったから杏子が生まれたのに、……俺は何もわからない自分の子供に手をあげた最低な父親だ。きっと婆さんも悲しんでる」
そこまで告白すると、額にあてていた手を振り払い、涙の溜まる顔をあたしに思いっきり下げた。父の涙はあの鏡で見たものと同じものだった。
「許されないのはわかっている。でも、杏子を失いかけて、ようやく杏子の大切さ、愛しさに初めて気づけた。もう俺は家族を失いたくない。だから俺はもう一度やり直したい。これからは三人で本当の家族になりたいんだ」
最後の方はもう涙まじりで濁っていたけれど、お父さんの気持ちはきちんとあたしに伝わった。今度はあたしの番だ。
「……そんなこと言ったて、許さないよ。あたしがどれだけ苦しかったと思ってるの」
あたしの言葉にお父さんはわかりやすいほどに絶望した。顔を青くし、頭は項垂れ目は伏してしまっている。あたしはそんなお父さんを無視し、だからと続けた。
「だから、あたしが許してもいいかなと思えるような家族を作って」
あたしは、そう言い切った。お父さんは先ほどの絶望から一変、信じられないような表情を浮かべた。あたしは焼き菓子を一つ取り、お父さんに渡した。
「許すつもりはない。だからあたしが思わず許したくなるような家族にしてよ、お父さん」
お父さん、あたしのその言葉にお父さんは泣き崩れた。そのままあたしから焼き菓子を受け取り、ありがとう本当にありがとうと涙をぼとぼとと落としながらも一口齧った。そして、涙だらけの顔でこう言った。
「甘くておいしいな、二人で食べて正解だ」
お父さんが焼き菓子を持ってきた翌日、今日はお母さんが漫画や小説を持ってきてくれた。そして、またお母さんも思いを打ち明けてくれた。
お母さんはお父さんのおばあちゃんの想いを知りつつ結婚したという。自分がこの人にとって一番でないことは理解していたけれど、おばあちゃんが亡くなりどんどん変わっていくお父さんを複雑な気持ちで見ていた。自分では彼を慰めるには力不足だと痛感していたという。
「勝俊さんが杏子に暴力を振るったなんて最初理解出来なかったの。あの人がそんなことするはずないって、思っていたの。本当は助けないといけなかったのに、助けてあげられなくてごめんなさい。それだけじゃない、私も杏子をストレスの捌け口にしてしまった。本当にごめんなさい」
お母さんが持ってきた漫画や小説はどれも表紙がぴかぴかで、一目で新品だとわかった。
「あの言葉」
あたしが一冊の漫画を取りながらそう言うと、お母さんはぴくりと肩を跳ねらせた。
「『あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ』この言葉は本当なの?」
お母さんはあたしの問いに勢いよく頭を横に振った。
「言い訳に聞こえるかもしらないけど、私も勝俊さんも子供を望んだの。だから杏子が生まれた。……あれは、そう、八つ当たりが一番近いかしら。変わっていく勝俊さん、助けを求める杏子。私がなんとかしないといけなかったのに、私は何も出来なかった。何も出来ない自分が腹立たしくて、それを杏子に八つ当たりしてしまった……謝って済む問題じゃないけれど、何回でも謝らせて。本当にごめんなさい」
昨日のお父さんに続き、お母さんも泣きながらそう謝った。けど、正直もうあたしは謝られたいわけではなかった。謝るぐらいなら、次を築いてほしい。
「昨日お父さんにも同じことを言われて、いっぱい謝られた」
ぴかぴかの表紙の漫画を触ると、その表紙に指紋がついた。袖でその跡を拭った。
「もう正直、謝られるのはお腹いっぱいだから、さ」
拭った表紙はやはりぴかぴかで、なんだか読むのが勿体なかった。
「お父さんと一緒に、あたしが許したくなるような家族作ってよ。ね、お母さん」
あたしはあの時「あそこ」であの人に向けたものと同じ、とびっきりの笑顔をお母さんに向けたのだった。お母さんは
ベッドの上にかかっている机の上には教科書と二冊のノートが広げられていた。ノートのうち、ひとつはとても綺麗に板書が取れており、要所がわかりやすくまとめられている。しかし、もう一つのノートは数字が乱雑に書き込まれており、お世辞にも綺麗とは言い難いものだった。
「――ってことで、ここの答えが出てそれをここに使うの」
あたしは御厨がもはや何を言っているのか全く理解出来ていなかった。もともと勉強が出来るタイプではないあたしにとって、委員長を務めている御厨はハードルが高すぎた。頭を捻らせ、ひたすら唸り声をあげているあたしを御厨は困ったような笑顔で見つめている。
――ああ、もうダメ、わかんない。
とうとう、あたしがペンを置いたのを見た御厨は「ちょっと休憩しようか」と、足元に置いている鞄を探り始めた。そして、御厨が鞄から出してきたのはとても分厚い本だった。休憩でも教科書見るの、と不安になっているあたしをよそに御厨はこの分厚い本を開いた。
「これね、幼稚園の卒園アルバムだよ」
表紙をめくりながら御厨はそう言った。
「ほら、ここ」
御厨のその言葉にびくりと肩が跳ね上がった。そんなあたしを余所に、御厨はとある写真を指した。そこには、それぞれ「みくりや しおり」、「おの きょうこ」と書かれたスモッグを着て仲良く手を繋いでいる二人の女の子の写真があった。それは紛れもなく御厨とあたしだった。御厨からアルバムを受け取りぱらぱらとめくっていくと、そこには御厨とあたしのたくさんの思い出が残されていた。写真の中のあたしはどれも楽しそうに笑って、御厨と仲睦まじく遊んでいる。けれど、やはり今のあたしには残っていない記憶ばかりだった。何も覚えていないあたし。どうしてあたしは忘れてしまったのだろうか。その真実に、アルバムを持つ手が震える。すると、御厨はアルバムを取り、両手で震えるあたしの手を包み込んだ。まっすぐで、透き通って、素直な眼であたしを見つめて離さなかった。
「小野さん、大丈夫。今すぐ思い出さなくてもいい。ううん、例えこれから思い出すことが出来なくてもいい」
御厨の手がぎゅっとあたしの手を握る。先ほどよりも力を込め、真摯にあたしを捉え、震えるあたしを精一杯宥めた。放課後の教室で怖いほどに輝いていたあの日の御厨と同じ顔だった。違うことと言えば、今は怖さなんてものはなく、ただ愛しさがそこにあった。
「あの日、言ったことは本当だよ。小野さん、いや杏子ちゃんともう一度仲良くなりたい。先生からの頼みとかなんかじゃない、これは私の本心そのものだよ」
あたしは、御厨に包まれている手を一度引っ込めた。それを見た御厨はひどく悲しそうな顔をしたが、あたしは再び手を出し今度はあたしが御厨の手を包み込んだ。
「こんなあたしを覚えていてくれて、本当にありがとう」
御厨は目を丸くし、やがてその顔には涙が伝った。そして、あたしを優しく抱きしめた。優しい匂いと、あたたかい体。あたしより小柄な御厨の体を、あたしも抱きしめ返した。
「私を、助けてくれて、本当にありがとう」
涙を啜り、少し枯れた声で御厨は何度もそう言った。あたしはその度に背中をさすり、御厨を受け入れた。そして、その御厨のあたたかい体にふと「あの時」が過った。
嗚呼、そうだ。あの時「あの人」に撫でられた感覚はこれと同じだ。そしてあたしはようやく思い出した。
――おばあちゃんの優しさと同じだ。
窓から風が吹き込み、窓際に飾られていた胡蝶蘭が静かに揺れた。




