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彼方の世界で知る  作者: 莉岡
第五章
6/8

「我執」

 獄卒とは、地獄に落ちた亡者に責め苦を味わわす鬼たち。閻魔大王に従い、拷問を担う鬼たち。そんなものにこの生身の娘はなりたいというのか。

 着物の袖口から見える腕や、踝に広がる鬱血や打撲の痕。この娘が暴力を振るわれていることは初めて会った時から気づいていた。それが何によるものなかはわからなかったが、先ほどの問いかけからすると、ほぼ間違いなく親からの虐待だ。となると、獄卒になりたいというのは親に対する復讐心からだろう。そんなもののために、残りの余生を潰してまで獄卒になろうなど、滑稽だ。だが、いつの時代にも虐待というのは存在している。私もそういう被害に遭った亡者を多く見てきた。そして、復讐の気持ちを持つ者も決して少なくないことも私は知っている。

「それは何故だ」

「あっちにいる時、その……虐待されてた。……父から。あたしは、父みたいな人間が嫌いだから」

やはり虐待による復讐心だった。本来ならば、私はこんな小娘の話など聞く必要はない。やめておけ、その一言で済まさねばならない。だが、それはキョウコが亡き者だった場合だ。無論、生身の人間だからと言って許されるわけではない。

「……やめておけ。生身の人間、それもまだ十四の子供が耐えられるものなんかじゃない」

「大丈夫だから、お願いします。……あたしを、獄卒にさせてください!どんなことでもあたしやります、なんでもやります。だから、どうか……」

震える声と足元。キョウコは口をぱくぱくさせながらも、そう言い放った。キョウコはこう言うが、きっと刑場を見れば尻尾を巻いて逃げてしまうだろう。齢十四の子供の精神で耐えられるほど地獄の刑場は甘くない。だが、だからこそ刑場を見せるべきなのではないだろうか。あまりにも残酷な刑場を目の当たりにしたことで、現世への欲が出てこないだろうか。否、出るわけがない。だが、獄卒になりたいという欲は小さくなるだろう。

「……ついてこい」

獄卒なんてものになりたいというその気持ち、私がへし折ってさしあげましょう。


 どこの刑場へつれていこうか悩んだ末、選んだのは己の縄張り、阿鼻地獄。地獄最下層に位置するその地獄は刑場に向かうことすら難い。亡者はこの地獄へ落ちるまで二千の歳月を要する。等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、風の噂ではあるがこの七つの地獄でさえ、ここ阿鼻地獄に比べれば夢のような幸福であるとすら聞く。おそらく、いや確実にこの生身の娘では耐えられない。だが、それでいいのだ。現世で生を全うしていない者が、獄卒になろうなど有り得て良いものではない。ましてや、キョウコはまだ十四の子供だ。現世の人間が地獄に興味を持つのは、獄卒としても喜ばしいことだ。だが、興味の域を逸れてしまうのはいただけない。我々と人間は、別の生き物。人間が我々に干渉することは決して許されない。その違いをその目で焼きつめろ、キョウコ。

 いくら亡者が落ちるのに二千年もかかるとは言え、獄卒まで刑場に行くまで二千年もかかるのは馬鹿げた話だ。踵を翻し、再び閻魔庁へ戻り地下へ。固く閉ざされているその扉を、懐から出した鍵で開けると、そこにはとても長い通路が延々と伸びている。行くぞ、とキョウコに声をかけ、その長い通路を進んでいく。亡者ほどではないが、やはり最下層。他の地獄の刑場へ行くよりも、遥かに時間がかかる。通路を歩き始め、およそ三十分。ようやく、その通路は終わりを告げた。通路を出ると、そこに広がるのは先ほどよりも生々しい世界。まだ何も始まっていないというのに、ふと後ろを振り返ると青い顔をしたキョウコ。足は震え、呼吸の音が乱れている。

「ここは……」

「阿鼻地獄。八大地獄の最下層。僧侶や仏に粗相を犯した者、現代で言うならば父母殺害や世話になった人、徳や教養が高い者を侮辱した者が落ちる。最も責苦が激しい地獄だ」

そして、私の生業の地。

「ここは亡者が落ちるまで二千年かかる。故になかなか呵責することがないのだが、どうやらキョウコ、貴様は運が良いみたいだ」

私の言葉が理解出来なかったのか、頭を傾げるキョウコ。未だ怯えた目をするキョウコを、私は半ば無理矢理に促し、奥へ進んでいった。さあ、この何も知らぬ愚かな娘をどこへつれていこうか。


 烏口処を通り過ぎた。口を裂かれた亡者がぐつぐつと煮えた切る泥の河の中へ突き落されていた。裂けた口から沸騰した泥が流れ込み、口内の粘膜が爛れ、悪臭を放つ。そして体内に侵入した泥は体のあらゆる器官にいき届き、やがて内臓ごとその身を焼き落とす。外からも、中からも襲う、逃れられぬ苦しみ。

 黒肚処を通り過ぎた。見るからに痩せ細った亡者。骨と皮しかないその身、潤いのない皮膚。地べたに這いつくばって、土を舐める姿は非常に滑稽。食に貪欲なその亡者は、ついに自らの皮膚を目にし、そして口に含んだ。久々の「肉」だったのだろう。皺だらけの口で自らの肉体を貪り始めた。血もろくに出ない、肉と呼んで良いものかすらわからないその干からびた肉体ははたして美味たるものなのか。自らの肉体を食いちぎる亡者は背後の漆黒の蛇に気づいていない。その蛇は亡者の足の甲にまとわりつき、そしてその鋭く光る牙で食らいついた。しかし、何度蛇は亡者を食らおうとも、亡者の体は再生するのだ。何度も蛇に食われ、その度に蘇る体。肉体が滅ぶことなく、繰り返される苦しみ。

 苦悩急処を通り過ぎた。亡者はその両の眼に、溶け出された銅を垂らされていた。赤く、黒く、溶けた銅はそのまま頬を伝い、肩から胸へ、そして臀部へ。みるみるうちに銅に犯されていく体に、熱砂が降り注ぐ。獄卒が金棒でその熱砂を銅で犯されてる眼にすり込む。鉄が焼けるような音をあげ、亡者は言葉すら紡げない。熱砂はさらに体中にすり込まれ、銅と熱砂が混じった皮膚が剥がれ落ち、真皮が顔を出す。そしてそこにも銅は流れ落ち、熱砂は降り注ぐ。おおよそ皮膚と呼ばれるものが全て焼かれ落ちた時、ついにキョウコは腰が抜けその場に脱力してしまった。

 焦点のあっていない目、震えの止まらぬその身体。キョウコのそれは、拷問を受ける前の亡者と同じだった。どう声をかけようと悩んでいた時、キョウコの震える唇が薄く開いた。

「負けない……、絶対負けない。私は、……私は負けない」

とても微力な声であったが、キョウコは確かにそう言った。そして、震える体を無理矢理起こし、私の前に立ち上がった。自分は大丈夫だから、まるでそう言わんばかりに強い視線で私を見た。正直、ここで立ちあがったのは意外だった。どうせ帰りたいと弱音を吐くとばかり思っていた。

ならば、尚更その芯を折らなければならぬ。どこへつれていこうか悩んでいたが、行き先は決まった。――無彼岸常受苦悩処。私が担い手を務めるそこへ。


 正直なところ、予想以上だった。殴ったり蹴ったり、あたしはそんなレベルを想像していた。所詮中学生が考える拷問なんてそんなレベルなのだ。まさか、人の体に銅や泥が入れられるなんて思いもしなかった。そもそも人間の体があんな姿――銅に犯され焼け爛れ、皮膚が剥がれ落ち肉体が真っ赤に染まりあがるなんて一度たりとも考えたことはなかった。あの人に殴られ何度も鬱血の痕を残され、血の味をあたしは知っている。だから、責め苦なんて大したことはないと思っていた。だが、今のあたしは震えが止まらない。ただひたすらに怖い、今すぐに逃げ出したい。けれど今更引き返すことは出来ない。怖さ如きで、消えるほどの憎しみではないのだ。案内人の後ろを黙ってついていく。次はどこへつれていくつもりなのか。どこへつれいかれようが、あたしは絶対に負けないんだから。

 ついた場所は、鉄で覆われた空間だった。今までの刑場の雰囲気とはどこか異なるこの空間。金属独特の冷たさで覆われている所為か、地獄自身が持つ熱さが遮られているようだった。しかし、血の臭いはどこよりも充満していた。血で充ちた空間、そこに響くのは嬲る音、そしてもう一つとても奇妙な音。それは今までの地獄では聞いたことがなく、あたしの不安を一層強くする。まるでなにかを取り出しているかのような粘着質なその音。その音の正体を見た時、あたしは思わず目を覆ってしまった。

 濁った白色、どろりとした液体のようなもの。それを全裸の人間の臍から引っ張り出していた。見たこともないそれは、かすかに動きまるで生があるかのようだった。目を覆っている指の隙間からその光景を垣間見ていると、案内人が口を開いた。その手には長い鉄の釘を持っていた。

「あれは魂そのもの」

「た、……魂?」

なんと、あの物体は魂だと言う。鉄の棒を臍に突き刺し、まるで耳かきでもしているかの如く獄卒は臍の中を掻き回し、ねっとりとした粘着質な音を鳴らす。それは明らかに人間から聞こえていい音ではなく、悍ましい気持ちの悪さがあたしの下腹部からじわじわと襲ってくる。肉を断つ音、皮膚を裂く音。視覚からも聴覚からも襲い掛かってくる拷問。今にも吐き出してしまいそうな口元を両手で覆い隠し、必死に自分という意識を保とうとする。一瞬でも気を抜いてしまうと、胃の中の全てを吐き出してしまいそうだった。

――大丈夫、あたしは耐えれる。

自分にそう強く何度も心の中で繰り返し唱え暗示をかける。ようやく自分を制せれた時、気づくと隣に案内人はいなかった。辺りを見回すと、魂とその魂の抜けた亡者のすぐ側に案内人はいた。まさか。信じたくない見たくないその光景がちらつき、抑えたはずの吐き気が再びせり上がってくる。

 案内人は手に持っている長い鉄の釘をゆっくりと掲げた。魂の抜けた亡者は虚ろな目で案内人を見上げている。そして、一気にその釘を、魂目がけて勢いよく振り下ろした。あたしの目には、その光景はまるで映画のワンシーンみたく全てがコマ送りのように流れていった。速度を持った釘は魂に刺さり、魂は破片を飛び散らせた。びちゃびちゃと空を舞う破片、その一つがあたしの頬をかすめた。そっと頬に手をあてた。ぬちゃり、と気味の悪い音がした。そして、そのまま手のひらを開けおそるおそる目の前へ持ってきた。微かに光沢があり、程よく粘り気のあるそれはゆっくりとあたしの手首を伝っていく。袖口に侵入されそうになった刹那、これはあの亡者の魂であることを思い出した。途端、あたしは血相を変えて腕ごと振り回した。嫌だ、気持ち悪い、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、気持ち悪い。必死に腕を振り、息を荒げてもなおあたしは動きを止めなかった。吐き気とか、そんな生ぬるいものじゃない。なんと形容していいかわからない程の気持ち悪さがあたしの中で暴れている。ようやく付着していた魂が吹き飛んだ時、あたしは腰が抜け落ちその場に膝を付けていた。荒れる呼吸音の中、案内人はあたしの方をちらりと見た。包帯で覆われて表情は見えないはずなのに、今確かに案内人は、口角をあげ、笑った。乱れていた呼吸が一瞬ぴたりと止んだ。あの男は、笑った。魂を突き刺して、ぐちょぐちょにして、辺りに散らしたというのに、あの男は笑っていた。人間の成すことじゃない、こんなことしておきながら笑えるなんてあの男は人間じゃない。そこではっとする。そうだ、あの男は間違いなく、獄卒なのだ。知っていたはずのことなのに、今それをまじまじと見せつけられた。これが獄卒だ、と言わんばかりに案内人は自分の頬に付いた破片を親指で掬い取り、そして舐め取った。

 案内人は口角をあげたまま、魂から釘を抜いた。その際にも破片は撒き散る。そして、その釘を亡者に向けた。生気のない亡者の眼に映る案内人の姿はさぞ恐ろしいものだろう。ここで見ているあたしですら恐ろしくて仕方ない。鈍く光るその鉄の釘は、先ほどの魂が付着して不気味な雰囲気を醸し出している。案内人は構い構えて、その釘の先を改めて亡者に向けた。何をするのか、とあたしが思うよりも早くに案内人は動いた。何が起きたのか全く見えなかった。気づいた時には、案内人は亡者のお腹……いや、臍を釘で貫いていた。魂の抜かれた亡者に感覚や感情はあるのだろうか、あたしにはわからない。けれど、血は通っていたようで釘に血が伝い流れている。赤黒い血はそのまま地へ落ち、赤の染みとなる。濁った白の魂、赤黒く淀んだ血、両方が地に散った。人間を構成していたその二つは、もはやその機能を失い、惨くもその役目を無理矢理終わらされた。赤と白、本来ならばめでたい色だったはずの二色。案内人は依然として笑みを浮かべ、周りの獄卒も何もおかしいことなんてないとでも言っているかのような表情で、寸胴を持ってきている。これが、獄卒にとってのあたり前なのだろうか。

 獄卒が持ってきた寸胴の中には真っ赤ななにか。嫌な予感がした。案内人は魂と血が付着した釘を寸胴の中へ突っ込んだ。寸胴から出てきた釘は真っ赤な液体まみれ。まさか、あれは。ここへ来る前見せられた液体の銅が過る。液体の銅もあのように真っ赤だった。少し色が違うように見えるが、おそらくあれも銅のような金属を溶かしたものに違いないはずだ。その液体をどうするのか。もう亡者はぼろぼろだ。魂を引き抜かれ、その魂を釘刺しにされ、挙句その釘で臍を中心に身を貫かれたというのに、まだやるというのか。怖く、泣きたいはずなのに、声も涙も不思議と出ない。それほどまでに、あたしの体は恐怖に支配されてしまっている。案内人は亡者の顎を掴み上へ向けた。そして、真っ赤な釘を喉元目がけて、ねじり込ませた。さらに獄卒は開いている隙間に寸胴をあて、直接真っ赤な液体を流し込んだのだ。黒い煙をあげ、喉を通るその液体が内側から体を焼く音はあたしまで聞こえる。豚肉や鶏肉を焼いているかのような音が、あの亡者の体からする。案内人は舌なめずり、亡者が焼かれるその音が止んだ時、喉から引き抜いた釘で亡者の首を刎ねた。その首は空を舞い、あたしの目の前に転がり落ちてきた。真っ赤な液体を流し込まれ爛れた口元、頬に付いている白と赤。生気のない眼と目が合ってしまった。その気持ち悪さと不気味さに思わず悲鳴をあげると、案内人が髪を掴み後ろへ生首を投げ飛ばした。

「どうだった」

目線を合わせることなく、案内人は見下ろしてそう言っていた。どうだった?なんて、そんなもの言葉で返せるほどの気力はあたしに残っていない。ただ首を横に振ったあたしなんて目もくれずに案内人は勝手に喋る。

「無彼岸常受苦悩処。私が担っている地獄はどうだ」

なんということか。ここはこの男のテリトリーだった。

「どうだ、獄卒になる気失せただろう」

 その言葉であたしは目を覚ました。そうか、あたしは獄卒になりたいと言ったのだった。だから、こんなものを見ることになったのだった。こみ上げてく吐き気を意地で堪え、覚束ない足で立ち上がろうとする。案内人が手を差し伸べてきたが、あたしはその手を振り払った。

「……平気」

「先ほどまで腰を抜かし、目を反らし、挙句悲鳴をあげたというのに、平気と言うか」

全部見透かされていた。けど、そんなのどうでもいい。なんとか立ち上がれたあたしは、案内人を見上げきっと睨みつけた。確かに、ここでの呵責はとても耐えきれるものではなかった。けど、あたしがそう思ったということは全員が思うことでもある。つまり、あの人だってこんな目に遭えばあたし同じようになるだろう。そして、怯えた表情で助けを請うに違いない。あたしはあの人が憎い。ここで見たこの気持ち悪くも痛々しい拷問、あたしはこれをあの人に味わわせたいのだ。

「正直……怖かった、逃げたかった、泣きたかった」

睨み付け、そう言ったあたしを案内人は満足そうに口元を緩めている。怖くて逃げたくて泣きたかったのは本当のことだ。それは否定しない。けど、とあたしは続けた。案内人の緩くなっていた口元がもとに戻った。

「けど、……だからこそこの気持ちを味わわせたい。あの人に同じ気持ちをさせたい。あたしは獄卒になる」

そう言い切ったと同時に、あたしの頬に涙が伝った。今まで我慢していたものが決壊したようだった。あたしは涙を拭わず、ただじっと案内人を睨み付けた。涙で滲む視界、案内人がぼやける。そして、案内人が溜息をついた。

「後悔しないと言えるか」

「しない、絶対しない」

再び案内人は溜息をついた。そして歯切れ悪くついてこいと、歩き出したのだった。


 後悔しない、とこの小娘は言い切った。あの地獄を見ればキョウコの気持ちは変わると思い込んでいた。しかし、キョウコは自分が味わった恐怖を父親に味わわせたいと言う。まさかこの私が折れることになるとは、とんだ子供だ。本当につれていくべきか悩んだ末、私はこの幼子を案内していた。行先は等活地獄。ここ八大地獄で一番軽い地獄であるが、それはあくまで我々獄卒による考え方だ。生身の人間にはどう見えるかなど考えたこともない。刑場に足を踏み込むと、あたり一面に広がる熱気。そして、蔓延る血の臭い。私には慣れきっているものだが、生身の人間にはそうもいかないだろう。案の定、後ろにいるキョウコは口を手で覆っている。「やめてもいいのだぞ」と私が声をかけても、キョウコは頑なに「平気」と拒否し、少し震える足で歩きだした。それからも、度々キョウコは先ほどの地獄とは真逆なこの環境に身を強張らせ立ち止まることがあったが、それでもこの娘は私についてきた。そして、ついに刑場の奥へ足を踏み入れることに達した。後ろを振り返りキョウコの様子を仰いでみると、恐怖と驚愕でわかりやすいほどに顔を崩していた。まあ、無理もないだろう。何度も何度も鉄火に焼かれる亡者、現世とは異なる姿の気味の悪い地獄の犬に頭を噛み千切られ、逃げようとするものならば槍で目玉を突かれる。今広がっている光景はそういうものだ。いくら先ほど酷なものを見てきたと雖も、所詮はまだ青い子供。現世で生きてきた子供には到底考えることの出来ない異様な景色だ。そのあまりにも惨い事実に、キョウコの顔色は青みを帯びていく。

「本来生身の人間が見ていいもの、来ていいところではない。引き返すか?」

出来るものならば、ここで引き返してほしいところだ。いくら拷問を生業としている鬼の私でも、生身の、それも子供にこんなことを教えたいわけではない。それでも、この娘は顔を青くしながらも頭を勢いよく横に振るのだった。

「あたしは鬼に、獄卒になりたい。そのために、お願いして、ここまで、来た。絶対に、引き返さない」

恐怖か、緊張か。キョウコは途切れ途切れになりながらも、自らの意思を述べた。こんな娘など担ぐのは容易いこと。無理やりにでも担いで引き返すことだって可能ではある。だが、阿鼻を越え、ここまでついてきたその精神がどこまで通用するのか、見たくもある。私は釜の横に掛けられている柄の長い金棒を手に取り、キョウコに渡した。

「これで、その釜の中にいるものを突き倒せ」

さあ、キョウコ、貴様がなりたいと請う獄卒へあと少しだ。


 案内人から渡された金棒は、あたしが知っている金棒よりも持ち手の部分が長く槍のようだった。金棒を受け取ると、思わずがくんと体が前方に倒れそうになった。この金棒見た目以上に重く、あたしが持つにはぎりぎりだった。そんなあたしを見て、案内人はまた「引き返すか」と言わんばかりに唇が開いたので、すかさず「平気」と投げかけた。大丈夫、あたしは出来る。これぐらいなんともない。さっきだって耐えれた。自分にそう言い聞かせ、少し震えだしてきた足で台に乗り釜の中を覗いた。蔓延する湯気の中から見えた釜の中身は、真っ赤だった。だが、その真っ赤な液体の中に浮かんでいるものがあった。それはおそらく人の手足と思われるもので、皮膚の一部が溶け出し、赤色の液体に皮膚の肌色が混じりだしている。それに加え、ところどころに人間の一部であろう部分が浮かんだり沈んだりしている。その時、液体の中から人の頭が飛び出してきた。そして、アツイ、タスケテ、と何度も叫びながら手を釜の縁にかけようとした。

「突いて沈めろ」

それを見ていた案内人がそう言った。そのためのそれだ、とあたしは持つ金棒を指差した。息を大きく吸い込み、もう一度釜を目にする。正直、見たくもない光景だがここでひるむわけにはいかない。それに、直接自分の手で下すわけではない。大丈夫、突いた感触なんてすぐに忘れる。今までもこの傷痕の痛みを忘れることで生きてきたんだ、なのに。そう頭で理解していても、体は一層震え、金棒を持ち上げる力が入らない。金棒を持ち上げて、この亡者目当てに振り下ろして、再びこの真っ赤な釜の中に沈ませなければならないのに、どうしてあたしの体は動いてくれないの。

 震えて動けないあたしを見かねた案内人はあたしから金棒を取り上げ、「こうだ」とその金棒を振り下ろした。亡者の目玉を突き、さらに目の奥まで金棒を動かせ抉り出す音を鳴らしていく。テレビでやっているような安いホラー映画のよりも遥かに生々しく、あまりの気持ち悪さに耳を塞いでしまった。今までアツイ、タスケテと譫言のように叫んでいた亡者は目を抉られてもなお叫び続けている。目玉から金棒を一旦離すと、案内人は亡者の頭部目掛け勢いよく金棒を振り払った。すると頭の上部の一部が剥き出しになり、そこから血――赤い液体が流れ落ち、釜を満たしていく。そして案内人はその剥き出しになった頭部に金棒を刺し込ませた。かき混ぜるように金棒を回し、ぐちょぐちょとまた生々しい気色の悪い音が鳴る。剥き出しになった部分はもはや頭としての外見を保てておらず、ただただ赤い液体を垂れ流しているだけだった。そこから垣間見えたものは、とても直視出来るものではなく、あたしはすぐさま目を反らした。今までタスケテと繰り返していた亡者はついにその言葉を失い、赤い液体の中へ沈んでしまった。そして、再び浮かび上がってくることもなかった。浮かび上がらない亡者に苛立ったのか、案内人は舌打ちを鳴らした。すると金棒を持っていない手をおもむろに掲げ、呪文のような言葉を呟いた。

「活きよ、活きよ」

案内人がその言葉を放つやいなや、なんと先ほど沈んだ亡者が再び浮かんできたのだった。しかも、先ほど抉られた目玉と頭は元に戻っている。拷問に亡者が耐えられなくて殺してしまっても、あの呪文を呟けば何度でも亡者を蘇らすことが出来る、その徹底された拷問にあたしは言葉を失った。蘇った亡者は、またタスケテと爛れた唇で叫ぶ。その光景は、「地獄絵図」に違いなかった。そう、ここは紛れもない地獄なのだ。

「キョウコ」

 再び金棒があたしの手に渡った。お前もやってみろ、と言わんばかりに案内人はあたしを見ている。さっきより全然軽いじゃない、大丈夫、大丈夫。こんなの平気よ。何度心の中で唱えても震えは消えない。今度こそ、と心の中で意気込んでも目を開けられない。意地で目を開くと、真っ赤な液体に浮かぶ亡者。しかし、先ほど案内人により目玉をほじくり返され頭の中を掻き回された亡者の姿が脳裏にしっかりと残っていて、蘇らされた亡者を見ることが出来ず、せっかく開くことの出来た目をまた閉じてしまった。それを引き金に、阿鼻地獄での記憶が鮮明に蘇ってきた。肉を断つ音、焼かれる音、亡者の悲鳴、血の臭い、飛び散った魂、銅の熱気。記憶は鮮やかに形を成し、あたしの体を犯し、這い寄る。そして、限界がきた。阿鼻地獄にいた時から熱気と血生臭さに体は悲鳴をあげていた。それでも獄卒になりたい一心で、必死に我慢していた。だが、案内人による「拷問」をこんなにも近い距離で二度も見てしまった。音、臭い、姿、全てがあたしに襲いかかってきた。立っていられないほどに気持ち悪さが体中を浸食していき、あたしはその場にうずくまってしまった。案内人は屈み、吐き気を催し目尻に涙を貯めるあたしの背中をさすった。そして、だから言っただろ、とあたしに言い聞かせるように呟いた。

「キョウコ、貴様は確かに地獄に来てしまった。だが、現世で貴様は生きている。まだ生を全うしていない現世の人間だ。刑を科す者でも、刑を科される者でもない。キョウコがいるべきところは現世しかない。獄卒になりたいなんて安易に言うな。貴様は現世で生きろ」

現世で生きろ、そう言われて浮かびあがるのはあの痛々しい日々。暴力を振るわれる日々になんて戻りたくない。けれど、あたしは獄卒になれなかった。いくら亡者が相手とは言え、あたしに呵責することは出来なかった。苦しみや痛みしかない現世でしか生きられない自分、獄卒になれない自分、とにかく自分が悔しくて仕方ない。父に抗う力も、亡者を呵責する力もない自分がどうしようもなく無力で、目尻に貯まっていた涙が頬を伝った。あたしはここにいたいのに、どうして、どうしてあたしは一歩も動くことが出来ないの。どうして嘔吐いてしまっているの。立ち上がって、金棒を持って、釜の中にいる亡者をいたぶらなければいけないのに、あたしの体はまるで極寒の中にいるかのように震えている。涙もひっきりなしに流れ落ち、あたしは立ち上がることすら出来なくなっていた。そんな動けないあたしを見て案内人はさすっていた手を止め、溜息を小さく吐き、あたしの前に回り両手を肩にかけさせそのままおぶらされた。

「案内人……」

「黙っていろ、そこで吐くなよ」

誰かにおんぶしてもらうなんて初めてかもしれない。冷たくてぶっきらぼうな鬼のくせに、どこか温かい背中。いいや、これはきっと地獄のこの熱さによるものだ。鬼の背中が温かいわけない。泣きじゃくって朦朧とする頭の中でそんなことを考えながら、案内人の揺れる背中の上であたしはゆっくりと瞼を閉じた。


 わかってはいたが、やはり無理であったか。十四の小娘に獄卒など担えるものではないと知っていながら、その現場を見せたのは間違いだったのだろうか。いつもより手を抜きぬるいものにしたが、それでもこの娘は耐えることが出来なかった。その程度、なのだ。キョウコはまだまだ子供だ。子供は親の元で育つべきだ。だが、私の背中で寝息を立てているこの娘はその親の元に帰りたくないのだろう。正直、刑場の中までついてこれたのは意外だった。そこまでのものなのだろう、帰りたくないという意思は。だが、まだ現世に生きている者が地獄にいつまでもいることは出来ない。きっといずれ大きな「ずれ」となる。どうしたものかと、頭を捻っていると、キョウコに着物を着せてくれた衆合地獄の女性獄卒がこちらへやってきた。

「閻魔大王にさっきのこと告げてきましたよ。さっそく閻魔庁でやるみたいなので立ち寄ってください、とのことです」

「わざわざすまない。今から行く」

「その子もですか?」

女性獄卒が指すのは私の背中で眠っているキョウコ。

「着いたら起こす。おそらく、こいつこそ知らねばならいことだろう」

それもそうですね、と返し女性獄卒は持ち場へと戻っていった。

――あの娘、おそらく虐待を受けている。閻魔大王に親を調べてくれと伝えてくれ

キョウコが頑なに現世を拒むその理由、紐解いていこう。


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