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彼方の世界で知る  作者: 莉岡
第四章
5/8

「無明」

「ほう、生身の人間の娘とな」

 目の前の男がそう言った。男はあたしの倍はあるであろう身長からあたしを見下ろす。また恰幅もよく、すさまじい存在感を放っている。その威圧感に慄き、後ずさってしまうとまた別の男とぶつかった。中央に座っている巨漢の男のように大きい体ではないものの、やはり着物を着て髪の隙間からは角が見える。その様子に怯えた声を出してしまうと、この男は目尻を少し下げた。どうやら繊細な性格をしているのかもしれないが、あたしにとってその風貌そのものが畏怖の対象なのだ。

 目を覚ましたあたしは、角を生えた男らに両手を掴まれながらここへ連れてこられた。コンクリートで整備された道なんてものはなく、剥き出しで荒れている砂利道をひたすら歩かされた。時折聞こえていた悲鳴のような叫び声は、虐げられている男が発しているものだった。あたしを連行している男の一人が言った。「もう少しだ」と。そう言われ視線を前方に向けると、確かになにやら黒と赤を基調としている建物があった。あたしが今までいた世界にあれば必ず浮くような外装をしているが、この恐ろしい世界ではひどく馴染んでいる。内装も外装に違わず、黒と赤が中心となっていた。よくわからないオーナメントが壁に飾られており、電気はなく蝋燭の炎が建物内を照らしている。目に入るもの全てが馴染みのないことばかりで、一層恐怖心を煽ってくる。ようやく一番奥の部屋にたどり着いた時、巨漢の男が視界に写り思わず二度見をした。そして冒頭に戻る。

「やはり何度見ても死亡記録がありません」

「俱生神の存在も確認出来ません」

 どうやら、あたしはここではかなり違和感のある存在であるようで、先ほどから巨漢の男の周りの者たちはせわしなく動いている。「ぐしょうしん」とやらはわからないが、死亡記録という言葉に体は反応した。あたしは死んだわけじゃないのか?じゃあここはどこなの?あたしの夢?目が覚めてからあたしの頭はずっと混乱している。そんな混乱しているあたしを余所に、巨漢の男は紅色の顔を渋らせてあたしに問いかけた。

「娘よ、ここがどこかわかっているか?」

「……わからない」

あたしがそう答えると、巨漢の男はさらに顔を強張らせた。正直、出来るものならば振り返って全力で逃げ出したいほどに怖い顔だった。だが、あたしの周りには男らに囲まれて逃げ道はない。

「ここは、八大地獄だ。現世……娘がいた世界でも地獄という文化は伝わっているはずだ」

地獄というフレーズに体がぴくんと跳ねたのを、巨漢の男が見抜き損ねるわけがなかった。あたしが地獄に反応を示したことで、巨漢の男は話を続けた。

「どうやら地獄は知っているようだな。地獄には死んだ人間、すなわち亡者を裁く裁判所が十ある。ここがその裁判所の五番目だ。そして、儂がここの主――閻魔だ」

その名前に、思わずはっと息を飲み込んだ。あの時見た木の像には隣にもう一つの像があった。地獄を行き来したというオノノタカムラのインパクトがあたしにとって大きすぎて見落としていたけれど、閻魔像と確かに表記されあのお堂の中に祀られていた。そして、目の前にあの像と同じ名前、閻魔と名乗る男がいる。つまり、ここは地獄なのかもしれない。いや、正真正銘地獄だ。ここに来るまで見てきたものは到底あたしの世界では考えられないものばかりだった。そんな世界を、あたしは知らない。巨漢の男改め、閻魔様と周りの男らは依然としてあたしを奇怪な目で見つめる。彼らの話はてんで理解出来ないが、どうやらあたしは死んだわけではないようだ。「死亡記録がありません」ってそういうことだと思う。でもここは地獄だという。遠足に行って、車に轢かれたあたしはどうなったのだろう。そんなあたしの心を読んだのか、閻魔様はあたしに再び問いかけた。

「娘よ、どこまで覚えている?」

どこまで?それはきっと、あたしがここに現れるまでのことだろうか。遠足、京都、車……あたしはまだ落ち着かない頭から記憶を絞り出す。

「……中学校の遠足で京都に来た。そこでお寺に行って、そのあと友達……ううん、知り合いが車に轢かれそうになったから、……その子を突き飛ばして代わりにあたしが轢かれた。そこからはわからない」

最後に頭を横に振ったあたしを、閻魔様や周りの男らは何とも言えない表情で見ていた。憐れみや同情、そして疑い。様々な目が混じる沢山の視線は決して快いものではないし、あたしを受け入れているとも思えなかった。だが、閻魔様はその視線を振り払うかのようにとても長い溜息を吐いた。それはあたしだけじゃなく、おそらく閻魔様に仕えているであろう周りの者らも眉をあげ少し驚いた顔をした。

「鏡を持ってこい」

閻魔様は一番近くの者にそう命令した。鏡が何なのかあたしにはさっぱりわからない。こんな目に遭うことになるなら、もっと地獄について知っておけばよかったなと、ふと思ったがそんな余裕どこにもなかったことを思い出して、案外自分が地獄へやって来てしまったのは妥当ではないのかと思う。なんせ、地獄へ落ちることを願っていた程だ。

 持って来た鏡は、あたしが想像していたものよりずっと大きいものだった。あたしの身長をゆうに超える高さを持つ鏡は、とても綺麗に磨かれていて汚れひとつない。一人の男がその鏡に手を翳すと、白く発光し鏡になにかが映し出された。本来、鏡はその前にあるものを左右反対に映し出すものであるはずだが、この鏡は特殊な仕様らしくその理屈とは違っているようだ。閻魔様が「おおよそでいい、時間軸を照合させろ」と男に告げる。その命を受け男が翳している手を小さく揺らすと、鏡が次々と場面を切り替えて映し出す。そこだ、と閻魔様が呟いた。鏡に映し出されていたものは、なんとあたしだった。六道珍皇寺を出ようとしているあたしと御厨、国友がその鏡に映し出されていた。その信じがたい光景に釘付けにされていると、本来ならばこういった使い方はしないのだが今回は例外だ、と閻魔様が小さく息を吐きながらぼやく。

『次のポイントなんだけど――』

鏡の中の御厨の声が聞こえた。そしてその声をまもなくして、耳を塞ぎたくなるような音が響いた。あたしが轢かれた瞬間だった。思わず目をぎゅっと閉じ、耳も塞いだあたしとは正反対に男ら含む閻魔様は微動さえせず、どうってこともないかのように鏡を見つめていた。まるで、この空間では視覚・聴覚を遮断したあたしが異質のように見えた。だが、鏡から聞こえた御厨と国友の悲痛なあたしの呼ぶ声に、意識は再び鏡へ向く。

『小野さん!小野さん!しっかりして!』

『――はい、友達が車に轢かれちゃって……血もいっぱい流れてます!お願いです!早く救急車お願いします!』

そこに映されていたのは額から血を流しているあたしと、そのあたしの傍で泣きじゃくっている御厨、混乱しながらも携帯電話で救急車を呼ぶ国友だった。鏡が映すその光景はあまりにも残酷で、あたしは鏡から目が離せなかった。救急車を呼び終えた国友も涙まじりに御厨とともにあたしの名前を一心不乱に叫んでいたが、映像はそこで途切れてしまった。おそらく、この鏡が映しだしたものはあたしの意識がなくなったあとの状態だ。この映像を見たことで周りの男たちは一層ざわつき始める。意識は失っているが打ち所を見るに脈はあるだろう。この娘の話は本当だ、まだ死んでいない生身の人間だ。男の誰かがそう言ったのが聞こえた。

「だが記録に名前がない以上、この娘は現世ではどうなっているんだ?」

また別の男がそう声を荒げた。

「おそらく意識不明の重体扱いだろう……だがしかし」

現世の人間が生きながらにしてここ地獄へ来てしまった。亡者でも獄卒でもないこの娘をどう扱えばいいのか――。久しく悩むこととは無縁だった閻魔様が頭を抱えたと同刻、この部屋の扉が突如開かれた。

「どうした、なにやら騒がしいのう」

 赤と黒で染められたこの部屋に似つかわしくない明るい声色。輝かしいオーラを纏ってこの部屋に入ってきたのは、お坊さんのような頭をして、ゆったりとしている布を身につけてニコニコした顔の人だった。そう、まるでお地蔵さんのような人だった。お地蔵さんみたいな人は騒ぎの中心があたしであるとすぐに気付いたようで、持っている錫杖をしゃらんと鳴らしながら近づいてくる。閻魔様のような威圧感かないとは言え、やはり未知なるその雰囲気は怖い。おそらく、怖いという気持ちが顔に出ていたのだろう。お地蔵さんみたいな人は一旦足を止め、にっこりと微笑んだ。

「菩薩殿、わざわざこちらまで出向いていただいてありがとうございます」

男の一人がそう言った。

「いえいえ、気にするでない。私も閻魔と久しぶりに話そうかなと思っていたところじゃ。しかし、まさか……生身の人間がここにいるとはのう」

微笑みながら交わされる視線はいささか恐怖があった。だがしかし、その反面このボサツ様という人にはどこか落ち着きやわらかい優しさがあるように感じた。

「この娘は現世ではまだ生きているのだろう?」

閻魔様が静かに頭を縦に振った。

「ならば、閻魔よ。この娘を保護するしかないじゃろ」

ボサツ様がそう発した瞬間、周りの空気が一変した。これまで大人しかった周りの者たちが、その顔を曇らせながら口々に声を上げる。

「菩薩殿、しかし……」

「生身の人間が地獄にいるなんて前代未聞です」

「そうですよ!そもそも生身の人間がいて良い場所とは思えません!」

自分のことであるが、あまりにも実感がなくて他人事のように見ていると、おそらく裁判で使うであろう笏で閻魔様が場を制した。ぱしん、という乾いた音が響く。

「……儂も、そうするしかないと考えていたところだ」

相変わらずにっこりとするボサツ様、そして唖然とする周りの男たち。あたしのことを話し合っているはずなのに、当のあたしはよくわからないままである。ただ、ここ地獄で保護されることになったということは理解した。

「しかし、一体誰が面倒を……?閻魔様も菩薩殿もお忙しいですし」

「その件だが、阿鼻のやつを連れてこい」

閻魔様が近くの者に小さな声で伝えた。どうやらあたしの待遇は決まったようだ。あたしはここ地獄にいることとなり、その面倒をアビ?という人がしてくれるらしい。周りの者たちも話がまとまったと見て持ち場へ戻ろうとする中、あたしはおばあちゃんの言葉が頭から離れなかった。

『いいかい、杏子ちゃん。悪いことばかりする悪い子はいつか地獄に落ちちゃうからね』

『お父さんやお母さんのことを聞かない子のことだよ。地獄っていうのはね、そういう子を苦しめるところだよ。火で焼かれたり、針で刺されたり、とにかく怖いところよ。杏子ちゃんはそんなとこと行きたくないでしょ?だから良い子でいましょうね?』

あたしはここにいていいのだろうか。あれほど地獄に落ちるべきだと願っていたのに、いざ現場に来てここにいてもいいと言われたというのに、あたしは今さら恐怖に襲われている。閻魔様らは保護と言っていたけれど、あたしが悪い子だと知ったら炎で焼かれてしまうのでないか。もしかしたら、あの人のようにたくさん殴られるのではないか。自分は地獄に落ちるべきだと思っていたし、死ぬ勇気はなかったけれどその覚悟は確かにあったはずだった。けれど、実際はそんなの言葉だけだった。今のあたしに、そんな覚悟は残っていない。そんなあたしを見透かしたかのように、ボサツ様はぽんとあたしの頭を撫でた。

「これから数日は怖いことだらけで、きっと怯えながら生活することになるじゃろう。早く元の世界に戻りたいと願うじゃろう。だがこれだけは信じてほしい。お主はまだ死んでおらん、生身の人間じゃ。鬼でも亡者でもない存在じゃ。地獄の獄卒は誰構わずに拷問をするわけではない。亡者でないお主が拷問にかけられることはない。それは、この地蔵菩薩が保障しよう」

 ボサツ様は、宥めるようにあたしにそう言った。撫でている手はとても優しくて、まるで大好きだったおばあちゃんに撫でられているようだった。その手つきは心地よくて、そしてどこかあたたかくて、気を張り詰めていないと思わず涙がこぼれそうになる。嗚呼、こんなにあたたかいぬくもりはいつ以来だろうか。そんな、あたしがボサツ様のあたたかさに心満たされていると背後から声がした。

「菩薩殿」

その声は低く、そして少し掠れていた。振り返って声の主を見ようとしたところ、その姿に思わず腰が抜けた。ボサツ様が手を差し伸べて起こしてくれたが、あたしは未だその姿に恐れを抱いている。ここに来てから見た者たち――ボサツ様が言うには獄卒の鬼たちは皆着物を着ていたり、角が生えていたりとあたしが知っていう人間とはどこか違っていたけれど、それでもきちんと顔があって表情もあって、とても人間に似ていた。しかし、今あたしの目の前にいるおそらく獄卒であろう男は、とても人間と似ているとは言えない風貌をしていた。黒い着物に身を包み、顔中包帯で覆われているその男は閻魔様ほどではないが非常に身長が高く、あたしを見下ろしている。その圧迫感から思わずボサツ様の後ろに隠れる。

「この女が生身の人間か」

あまりにもぶっきらぼうな言葉にますますの恐れを抱いていると、ボサツ様が今までの経緯を包帯の男に話す。そして話が終わると仕事があるということで、この場を去ってしまった。最後にもう一度あたしの頭を撫で「大丈夫じゃ。心配することはなにもない」と言い残して。

 ボサツ様がいなくなって、包帯の男と二人。沈黙になると思ったが、そうはいかなかった。

「お前が生身の人間である以上、私の名前を教える必要はない。だが、呼ぶ名がないと困るだろから便宜上『案内人』とでも呼べ」

包帯の男、もとい自らを案内人と呼ぶ男はそう告げた。案内人はさらに続けて「名前を言え、苗字は省け」とも言ってきた。……杏子、とあたしは小さく答えた。

「では、キョウコ。まずはその洋装の衣を着替える。それはここでは、非常に目立つ」

確かに、亡者と呼ばれる者も獄卒も皆着物を着ているなかであたしの恰好は異様だった。だが、あたしは生まれてこのかた着物なんてものを着たことは一度もない。構造も着方もさっぱりだ。しかし、どうやらそれは顔に出ていたようで案内人はその高い位置から嘲笑うかの如く、あたしを鼻で笑った。

「誰も貴様が着られるなんて思っておらん。女性獄卒が多い地獄へ行くぞ」

なんてむかつく言い方だろう。だけど、どうやら着させてもらえるようだ。その女性が多いという地獄へ行こうと先を歩いていた案内人だが、突然その足を止めた。そして、くるりと翻ってあたしの方を見た。顔色が見えないせいで何を考えているかわからない。

「一つ聞く」

「はい、なんですか」

「キョウコ、貴様年はいくつだ」

「十四だけど……」

年齢なんて聞いてどうするんだ、と疑問に思うあたしとは反対に、案内人は手を顎にあてていた。口元以外が包帯で覆われているため、その表情は見えない。けれど、その雰囲気からなにやら考え込んでいるようだった。

「十四……、直接衆合に行くのは憚れるか」

口を薄らと開き、ぼそりと吐いた。独り言だったのだろう、上手く聞こえなかった。

「予定変更する。貴様はここで待っていろ」

今度ははっきり言った。言うや否や、案内人はさっさとどこかに行ってしまった。こんなところに置いていかれても困る。時折通り過ぎる獄卒らは、ちらちらとこっちを見てくる。何を話しているかはわからないが、どうやらあたしの存在の話はすでに蔓延っているようだ。本当に、噂というものは広まるのは早いものだと痛感させられる。

 どのくらい経ったのだろうか、ようやく案内人が戻ってきた。その後ろには色鮮やかな着物に身を包んでいる女性がいる。こんなところに置いていかれた文句を言おうとしたが、それすら言わせないうちにただ一言「ついてこい」と言われ、そのままとある一室に連れていかれた。案内人が部屋を出たと同時に、女性は持っていた風呂敷を広げ、入っていた着物を広げた。白の無地の着物と黒の帯だった。「じゃあ、着替えようか」と声をかけられ、あれよあれよと言う間に制服を脱がされ、そしてかわりにこの白い着物を羽織らされた。着物は思っていたよりも締め付けられるもので、初めての感覚に戸惑っていると、「今の日本じゃ滅多に着ないものね」と優しい顔でくすくす笑われた。最後に帯を締めてもらい、あたしは制服から着物へと着替え終わった。そこで、タイミングよく戸をノックする音。大丈夫ですよー、と女性が答えると案内人が入ってきた。そして、着物に着替えたあたし一瞥するなり、「さっきよりかは良いか」と呟いた。

「また着替える時は声かけてね、誰かしら向かうから」

「協力感謝します」

案内人がぺこりと頭を下げたものだから、あたしもつられてお辞儀をする。そうか、これを脱ぐということはまた着ないといけないのか。はたして、あたしはこの着物を何回着ることになるのだろうか。真っ白の着物をじっと眺めていると、「行くぞ」と案内人に言われる。もう一度お礼を述べて部屋を出ると、歩き出す案内人の後ろをついていく。着物は思っていた以上に歩きにくかった。

「どこへ行くの?」

今度は行き先をきちんと聞くことにした。さっきみたいにその場に放置なんてもう御免だ。

「一つ空いている部屋があったはずだ。そこに行く。途中外に出るから気をつけろ」

何故空き部屋に行くのかわからなかったが、一人でここにいてもどうしようもないためついていくが、この男歩くのが速い。しかし、あたしの慣れていない草履のいびつな音を聞いてか、案内人は少しだけペースを落としてくれた。

 案内人が先ほど言った通り、しばらく歩くと学校の渡り廊下のような空間に出た。今まで建物内にいたため、あの景色を見ることはなかった。しかし、今視界に移るそれらはやはりあたしには到底馴染めないものばかり。黒い空、むき出しの地面、飛び交う未知の生き物。そして、どこからか聞こえる人の叫び声。それらを受け入れることが出来ずに、俯いていると、目の前を歩く案内人は「亡者の声に耳を傾ける必要はない」と振り返らずに言った。それがどういう意味か理解出来なかった。しかし、案内人は続ける。

「受けて当然の仕打ちをされている亡者の声など、聞くことない」

そしてようやく理解する。このあちらこちらで聞こえてくる声は、苦しめられている亡者のものだと。だが、嫌でも入ってくるこの音。せめてものと思い、紛らわすために案内人に声をかけてみる。

「亡者はどんな人たちのことを言うの」

あたしが返事をしたことが意外だったのであろう。案内人の束ねている髪が大きく揺れた。

「現世で罪を犯した者たちだ」

「罪って例えばどんなこと?」

「盗みや、……強姦と言った淫行、あとは殺害や暴力などだな」

ゴウカンやインコウがいまいちわからなかったが、ある言葉にあたしは過剰に反応した。俯いていた顔をあげると、やはり気持ちの悪い世界が広がっているが今のあたしにはそんなものどうでもよかった。変わらず歩いている目の前の男に言葉を投げかける。

「暴力って?」

「そのままの意味だ。人間相手だけでなく、動物も対象だ」

「……人間に対する虐待も?」

深く息を吸い込み、そしてゆっくり吐き、心拍数があがりながらもそう尋ねた。あたしがそう問いかけると、案内人は今まで歩いていた足を止めた。そして、体をこちらへ向けた。包帯で覆われているその顔は何を考えているか読めなくて苦手だ。案内人はじっとあたしを見つめ、そして躊躇うように口を開いた。

「……そうだ。そういう輩はおそらく、等活地獄の多苦処や極苦処あたりに落ちるだろう」

「そこに落ちたら、この声の人たちみたいになるの?」

「……鉄火に焼かれ、断崖絶壁から突き落とされるからな」

躊躇う案内人とは反対にあたしの気持ちは昂ぶっていた。心臓の鼓動が早まっているのが自分でもわかる。どういうわけか地獄へ来てしまい混乱しないように自分を制するのでいっぱいになっていた心に、忘却されていた陰が蘇る。着物の下に隠されている真新しい打撲の痕や内出血が疼き、黒い陰を増長させていく。

 嗚呼、そうだ。あたしは「悪い子」。故に、ここへやってきた。そう思っていた。だけど、ここにはあの人のような人間が落ちる地獄があるという。では、ここ地獄の基準ではどちらが悪いのだろう。

「虐待されていた方の人は?」

「さあ?子供ながらに命を落としたなら賽の河原だろうが、いずれもさっきのよりは軽いだろうな」

ごくり、と唾を飲み込んだ音がした。あたしは、自分が「悪い子」だと思い込んでいた。少なくとも、あたしが今まで生きていた中ではそう捉えるしかなかった。母に、父に生かされる身なのだから二人の仲を壊した罪を、暴力を受けることで償わければならないのだ、と。だけど、狭いあたしの世界観なんてちっぽけだ。そんなの、虐待されているという現実を見ないようにするための美化でしかなかった。ここへやってきて初めて気づけた。どんなに美化して自分という存在を繕っても、「虐待されている子ども」という現実は消えないのだ。現実逃避が染み込み、父を憎むと言う、忘れ去られていた感情が形を取り戻してくる。あたしは「悪い子」なんかじゃない。むしろ悪いのはあの人だ。着物の下にある数多の生々しい傷痕。何度も殴られ、蹴られ、時には火傷だってしたことだってあった。あたしが地獄に落ちるべきなんて考えていたあの頃のあたしとは違う。本当に落ちるべきは、あの人――父だ。出来るものならば、自らの手で父を苦しめたい。……そうだ、どうせ地獄にいるんだ、このまま獄卒になっちゃおう。そうすれば、父のような子供や奥さんに暴力を振るってきた人間を苦しめることが出来る。現世でのあたしはどうなるのかわからないけど、どうせあんな世界で生きていたって救いなんてありはしないんだ。あっちに戻れば、また暴力を振るわれて傷痕が増えていくだけ。そんな世界なんて、あたしは望んでいない。望んでいたものは、温かかったかつての家庭。でも、どうせそれは二度と手に入らない。だったら、ここにいてやる。ここで鬼になって、いずれ来るであろう父をいたぶってやる。

 しばらく黙りこんでしまったあたしを案内人は、動じずただじっと見ていた。決意が固まったあたしは、震える声で力いっぱい叫んだ。

「あたしを獄卒にしてください」

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