前章「報身」
先日、置手紙と一緒に添えた京都遠足のお知らせという紙。それが今あたしの机に返されている。ご丁寧に必要最低限のものも置いて。
いつもならこういう遠足のような行事は避けていた。あたし自身が行っても楽しめないのもあるが、きっとあたしが行けば他の子たちはあたし以上に楽しめなくなってしまう。だが、今回は違う。遠足を避ければお母さんと二人きりになってしまう。そんなの、今のあたしには耐えられない。だからといって、なかなか遠足に乗り気にもなれない。どうしよう。ふと、紙に目を落とすと、そこには行き先などが載っていた。行き先は京都府京都市東山区と書いてあるが、京都の場所がぎりぎり分かるレベルのあたしにとっては、東山区がどこなのか全く分からない。建仁寺や八坂神社、六道珍皇寺を回って日本の文化を直接触れてみましょう。続きにそう書かれているがいまいちピンとこなかった。そもそも読み方もわからない。こんなところへ行ったところで楽しめないのはわかりきっているが、それでもこの家にいるよりかは……マシなのかもしれない。頭の中がぐるぐるするなか、あたしが導き出した答えは、「行く」だった。
紙最下部に「班行動を通じてクラスの団結力を高めましょう」と書いてあったが、そこまで目を通していなかったあたしは翌日のホームルームで後悔することとなる。
翌日のホームルーム、あたしは案の定後悔していた。てっきり遠足は全員で動くものと思い込んでいたが、どうやら後半は班行動の時間があるようでこのホームルームがその班決めの時間だという。ふざけるな、と心の中でこぼす。これならお母さんと二人きりの方がマシかもしれない。やはり、遠足なんてものにあたしが行くのはそもそも間違っているんだ。そうと決まれば、あたしはただひたすら窓の外を眺める。こういう時、後ろかつ窓際の席でよかったなと心底思う。ゆっくりと流れる雲、たまに聞こえる飛行機の音、そういう音は教室に溢れる喧噪からあたしを癒してくれる、はずだった。あたしの前に影が出来た。それが人によるものだとはすぐに理解出来てはいたけれど、すぐに顔を上げることはしなかった。
「小野さん」
その影があたしを呼んだ。少しだけ視線をずらして確認すると、少し長いポニーテールを靡かしながらあたしを見る女子がいた。確かこのクラスの委員長をやっていることは覚えているが名前は思い出せない。なんか難しい名前だったはず。そしてこの女子の後ろにももう一人女子がいることも確認した。ポニーテールの女子はあたしが無視に近い形を取っているにも関わらず、構わず話しかけてくる。
「小野さん、私御厨栞だよ。覚えているかな?」
あたしは小さく頭を横に振った。
「あはは……、そうだよね」
御厨というらしいポニーテールの女子はそう苦笑いを作る。クラスに全く興味を持たないあたしがクラスメイト名前を覚えているわけがなかった。もちろん後ろの女子の名前もわからない。あたしが名前を覚えていなかったにも関わらず御厨は尚も話しかけてくる。
「ねえ、小野さんよかったら私たちと班組まない?」
私たち、ということは後ろの女子も一緒なのか。だけどそんな気遣い必要ない。そもそもあたしは遠足に行かないのだから。おそらく委員長を務めているから担任にあれこれ言われたのだろう。浮いている小野を誘えとでも言われたのだろうな、かわいそうに。あたしは先ほどと同じように頭を横に振ると、御厨はわかりやすく顔を曇らせた。
「小野さん去年もいなかったじゃん。今年は行こうよ!」
「……悪いけど、行きたくないの」
そりゃそうだ、クラスの連中は揃いも揃ってあたしのことを気味悪がる。なんでわざわざそんな人らと一日拘束されなきゃダメなのか。いつもの学校生活ならまだしも、遠足のように皆がどこかいつもと違う特別な気持ちになるような空間はあたしにとって毒でしかない。というか、御厨と去年も同じクラスだったことを今知った。
「先生に何か言われてあたしに声かけたんだろうけど、あたし別に平気だから」
そう口早にあたしは告げる。後ろの女子はずっと眉を顰めている。
こんな言い方したのだから流石に折れただろうと思っていたけれど、委員長さんはどうやらあたしが想像していた以上に頑強のようだった。
「先生に言われたからじゃない、私自身の意思で声をかけたんだよ。小野さん一年の時からずっと暗い顔しているし、誰とも一緒にいない。みんなはそれを気味悪いって言うけど、私はそうは思わない。だって……」
だって、のあとはよく聞こえなかった。しかし意図して濁したようだった。
「……そういうの、余計なお世話って言うんだよ。お節介したいなら別の子にして」
もうお願いだからあたしに話しかけるのはやめて。あたしなんか誘ったってなにもいいことなんてない。むしろ誘えば後悔するに決まっている。そしてお母さんみたいに言うんだ、あんたなんかいなければよかったのに、って。そんなの、もう嫌だ。
「……あはは、そうだよね。私って本当……お節介だよね」
きっとこれであたしから離れると思っていた。だけど御厨という女はあたしがここまで言っても引こうとは微塵もしない。御厨はおそろしく強かった。
「でもね、小野さんのことが心配なのは本当なんだよ。ずっとずっと、声をかけたかった。でも、私って臆病だからなかなか一歩が踏み出せなかった。……もう一度言うね。ねえ、小野さん私たちと遠足へ行こう?」
御厨がどんなに言おうとも、あたしも自分の気持ちを変えるつもりはなかった。遠足には行かない、それは揺るぐことのないものだ。だが、ここでずっと黙っていた御厨の後ろにいた女子が前へ出できたことで事態は変化する。
「あの……、栞ちゃんの気持ちも少しは考えてあげてください!」
名前を知らぬこの女子は声を震わせてそう告げた。これは御厨も予想外だったようで少し驚いた表情をする。
御厨の気持ちを考えろ、なんて言われてもあたしには何もわからない。そもそも人の気持ちがそう簡単にわかるものなら、あたしは今別の道を進んでいるはずだ。
「御厨さんの気持ちを考えろ、って言うなら、そっちこそあたしの気持ち考えてよ。あんたらがどれだけ誘おうが、あたしは遠足なんか行きたくないの。その気持ち少しは考えろよ」
別に猫を被っていたわけではないが、だんだん汚くなる言葉。こういう言葉を使ってしまうあたり、あたしはやはりあの人の娘なのだと思ってしまう。あたしの言葉に対して再び前へ出ようとする女子を御厨が制して、御厨が一歩出る。
「椿ありがとう。でもさがっててほしいんだ。小野さんは、自分で誘わなきゃ意味がない」
「栞ちゃん……」
茶番なら余所でやってくれ。これ以上ここにいれば埒があかない。ここにいたら遠足に来てよと何度も何度も言われてしまう。だったら、逃げるようで後味は悪いが教室から出てしまおう。適当な理由をつけて教室から離れようと、椅子を引いて立ち上がろうとした時「待って!」と御厨に腕を掴まれた。
「小野さん行こう!行きたくないっていう小野さんの気持ちはすごく伝わってきた。でも、行こうよ、絶対後悔させないし絶対笑顔にさせてみせる!絶対楽しいものに私がする!だから私と一緒に京都に行こう。ううん、私と京都遠足に行ってください」
もう折れるしかなかった。御厨はこのクラスの委員長だ、御厨を敵に回せばおそらくクラス全員が敵になるだろう。家にいるのが心地悪くなってしまった以上、学校に来なければならない。家よりマシな学校を今以上に悪化させるわけにはいかなかった。それに、当日休んでしまえばいいのだと今更気づいた。どうせ、本音はあたしなんか来てほしくないのだろうから、当日休めばあたしも御厨たちも万々歳だ。それが一番平和的だ。
「……わかったよ」
そう呟いたものの、あたしの頭は当日休むことでいっぱいだった。そんなあたしの傍らで、御厨と椿という女子はこれからどうするかと話していた。あたしのこと誘った割に二人で決めようとしている。ほらね、やっぱりあたしなんか目にもくれない。委員長って大変だな。形だけとは言え問題児を誘わなきゃ駄目なんだから。とんだくだらない茶番につき合わされたものだと、厭きれを含んだ溜息をつくと同時に御厨がずいっと顔を近づけ「小野さんはどこに行きたい?」と聞いてきた。
「え……?えっと、どこでもいい……」
予想外すぎる御厨の行動に、先ほどまでのきつい言葉はどこへいってしまったのかと自分でも思ってしまう程動揺してしまった。御厨らは相変わらずあれこれ話しているが、依然として御厨はあたしの傍から離れない。どうしたものかと考えていると、チャイムが鳴り響いた。ホームルームが終了したという合図であると同時に、放課後の清掃の始まりを告げるものでもある。あたしは今週掃除当番でないのでさっさと帰えろうと思うのだが、御厨がひっついているからそうもいかない。早く帰りたいあたしは、御厨を引っ剥がそうとしようとしたと同時に椿という女子が御厨を軽く引っ張った。
「栞ちゃん私たち掃除当番だよ。早く行こう?それに小野さん困ってるよ……?」
「そうだったね。引っ付いて小野さんごめんね。椿はどこだっけ?」
「私は数学準備室。栞ちゃんは?」
「私は美術室。途中まで一緒に行こう」
「うん」
御厨が離れて、ようやく帰れるあたし。鞄を抱え、掃除当番だという御厨らの横を通り過ぎようとした刹那、御厨があたしの名前を呼んだ。帰ろうとするあたしは振り返らずに、立ち止まって耳だけ傾ける。
「小野さん、私のわがままを受け入れてくれてありがとう。さっきも言ったけど、絶対楽しいものにするから。本当にありがとう。じゃあ、また明日ね!」
それだけ言い残して二人は長い廊下の先へ姿を消した、と思ったが一つの影がこちらへ戻ってきた。あたしにはもう関係ないことだろうと思って、靴箱の方角へ足を向けた時またしてもあたしの名前が呼ばれた。今度は御厨とは違う声だった。
「小野さん、私国友椿。遠足私も一緒の班だから、その……よろしくね」
国友椿、と名乗る女子はそうあたしに言った。国友はそれと、と続けたが「ううん、なんでもない」と歯切れの悪い言葉を残して数学準備室の方へ行ってしまった。
上靴を脱ぎ、下靴に履き替えた時思わず盛大な溜息が出てしまった。今日は非常に疲れる一日だった。御厨の勢いに流されて遠足に行くと言ってしまったが、あたしの中に実際に遠足に行くというビジョンは全くなかった。御厨も国友もああ言ってきたが、どうせ言葉だけだ。きっと、班行動になったらあたし放置して二人でどこか行くに決まっている。あたしは絶対遠足には行くもんか。御厨は今日やたらとスキンシップを取ってきたが、それもどうせ今日限りだ。明日になれば今まで通り、あたしなんかに話しかけてくる人は誰もいない生活に戻る。少し普通の子みたいになれたからといって、浮かれて辛い目に遭うのはあたし自身なんだ。ただでさえ、お母さんのあの言葉でひどく辟易しているというのに。辛い思いするぐらいなら一人でいい。あたしはそうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくつもりだ。
帰宅して、机の上に置かれているお金をポケットに入れ再び家を出る。お母さんとはあれから一切話をしていない。適当にスーパーのお惣菜コーナーでお弁当を選び、ついでにお茶も買った。夕方学校から帰ると机にお金が置かれるようになった。それは、夕飯は自分で買いにいけということらしく、あたしはどうやら唯一与えられていた食事すらも奪われてしまいかねないところまできてしまったようだ。家に再度帰り、買った弁当をレンジにかけ一人ぼっちで夕飯を食す。全く悲しいと思ってもいないはずなのに不思議と左頬に生ぬるいものが伝う。どうして、こんなことになってしまったのだろう、と嘆きながら食べるスーパーの惣菜はひどくまずかった。
翌日、きっとまた一人ぼっちの生活と思いこんでいたあたしの頭はキャパオーバーを起こしていた。教室に入るとあたしの席には御厨と国友が何故か既に待ち構えていた。自分の席が間違っていないかもう一度見たが、やはり二人がいるところがあたしの席だった。二人はあたしを見つけるや否や声をかけてきて、また手招きもする。……どうやらいじめられているわけではなさそうだ。だがしかし、彼女らの奇行はこれだけではなかった。移動教室の際もあたしの周りに現れ、いつも一人で菓子パンを食べる弁当の時間もついてきた。いつもぼうっとしてただ窓の外を眺めているだけの昼休みも、席の近くに居座り二人で喋り時折あたしに話を振ってくる。それは楽しいものなのかと疑っていると、まるで心を見透かされてしまったかのように御厨が「私小野さんと喋れて楽しいよ」と笑顔で小さく零した。それを受けて戸惑うあたしをくすくす笑う国友。もうわけがわからなかった。ただひたすら御厨を中心にあたしにかまってくる。あたしには御厨の真意が読めない。こういった日々は今日で終わると思いきやそういうわけでもなく、翌日も翌々日も続くこととなった。その間に、バスの座席や自由行動でのルートなど遠足にまつわる様々なことを決める時間があったが、いずれも御厨があたしを引っ張り、参加させられた。まるで外堀を埋められて遠足に行かざるを得ないようにされていることに嫌気が差し、ついその不機嫌さが顔に出てしまい、あたしの表情に気付いたのか御厨ははっとして口元を押さえた。そして「私張り切りすぎちゃったね、ごめん」と。あたしどうせ行かないのに、と言いたい唇をぐっと堪えて飲み込む。ここで言ってしまえば昨日の二の舞だ。
「ねえ、小野さん。私ね、本当に楽しみなの。勇気出して小野さんに声かけて、ほぼ無理矢理にだけど一緒の班になれて、この三人で行けるのが本当に楽しみなんだ」
御厨はあまりにも素直すぎると思う。あたしとは真逆だ。虐待を受けていることを盾に捻くれた性格を受け入れさせている自分にとって、御厨のまっすぐな眼はひどく痛いものだ。人間ここまでまっすぐな眼が出来るものだと気付かされる。
今日はどうやら天気が良いみたいで、放課後の教室に綺麗な夕日が射し込む。窓際に腰をかけていた御厨はくるりと背を向け、窓の外――グラウンドを見つめながらゆっくりと唇を開いた。
「小野さんはきっと興味なくて覚えてないだろうけど、……私ね、小学生の時引っ越してきたの」
へえ、そうなんだ。と決して口には出さずに心の中で相槌を打つ。あたしは相変わらずぼうっとして、天井を仰いでいるだけ。
「でも生まれはここだよ。幼稚園もここの幼稚園に通っていたよ。第三幼稚園って言うんだけど……小野さん知ってる?」
何故御厨とこんな会話をしなければいけないのか分からなかったが、その幼稚園はあたしも通っていたものだった。突然理由もなく嫌な汗が額を伝った。どくんどくんと心は高鳴る。まさか、いや、でも、そんなはずは。頭の中を埋め尽くすのは分かりやすい動揺の言葉たち。
「小野さん、私そこで『杏子』って子と仲良くしてたんだ。……ねえ、小野さん私のこと」
「知らない!やめて!あたしは、御厨なんて人知らない!あんたとはこの学校で知り合った!あたしの中にあんたはいない!」
御厨の言葉を遮って、あたしは声を荒げた。あたしと御厨はこの中学校で出会った。それ以前に出会ったことはない。だが、あたしの肝心の幼稚園の記憶は抜け落ちている。おそらく暴力による弊害で、よりにもよって一番家族らしい家族であっただろう幸せな幼稚園の頃の記憶が失われている。
「……大きい声出して悪い。でも、あたし幼稚園の時のことなにも覚えてないから御厨さんのことも覚えてないし、正直……信じられないし」
「そっか……なら仕方ないか。私の方こそ変な話をしてごめんね」
この話はお互い忘れよう、御厨のその提案によってこの会話は終わることが出来たが、ただでさえ心地よいとは到底言えなかった雰囲気がより一層重く、苦しいものになってしまった。あたしはもう耐えきれなくなって帰ろうと鞄に手をかけた時、御厨がその手を握った。
「……だったら、もう一度友達になろう」
夕日の眩しさではない。それは紛れもなく御厨による輝き。素直で、透き通って、まっすぐで、そんな眼があたしを捕えた。逸らすことの出来ないその力強い眼差しにあたしは抗うことは出来ず、ただただ圧倒されるばかりだった。言葉をうまく発することのできないあたしを、御厨は優しく微笑み包み込む。あたしはそんな雰囲気が、優しすぎる御厨が怖くなって逃げるように教室から出て家までダッシュした。その日の夜は寝ることが出来なかった。
翌日、学校に行くと御厨は昨日のことなんてなかったかのように、あのやわらかい表情であたしの周りにいる。もちろん、国友もだ。昨日、あの御厨の表情を忘れることが出来なかったどころか、今なお脳裏に焼き付いている。忘れられないあの眼、表情。そして、一つの陰。あたしは本当にかつて御厨と親しい間柄だったのか。それはわからない。だが、不思議なことにこれらの気持ちや昨日の出来事は決して心地悪いものではなかった。むしろ、信じがたいが遠足に行ってもいいと思っている自分がいる。暴力を振るわれ心も体もぼろぼろな自分。母に突き放された自分。地獄に落ちるべき自分。様々な思いを胸に、その日はついにやってきた。




