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彼方の世界で知る  作者: 莉岡
第一章
1/8

「中道」

 痛いとか、熱いとか、そういう風に感じ取れていたのはもう何年前の話だろう。今となっては流れ作業のように見えてしまう時もある。もちろん痛みを感じないわけではない。そういう体になればどれだけ楽になれるだろうか。痛みを感じない体になれたら、毎日やって来る『夜』に怯えなくなるのだろうか。だがしかし、いくら流れ作業のように見えるとは言え、体は確実に痛みを認識している。そしてそれは、痣や固まる血を通してあたしを恐怖へ誘ってくる。

 幼い頃は、どの家もこういった躾をされているのだとずっと思っていた。しかし、学校で学んだことがあっているならば、どうやらこれは「虐待」と言うものらしい。虐待は立派な犯罪らしいが、あたしが学校のパソコンで見た情報だとご飯を与えてもらえなかったり、お風呂に入らせてもらえなかったりするのだと言う。だが、あたしの場合はご飯もお風呂も与えてもらっている。暴力を振るわれているだけでも虐待と呼ぶらしいが、近い親戚もいないし、ましてや友達なんているはずがないあたしには相談することも出来ず、自分が虐待に遭っていることを外に知らす術がない。だけど、あたしはどのみち知らせようとは思っていない。あたしはお風呂も食事も与えられている。パソコンで見た話は、あたしが受けているものよりも遙かに悲惨なものだった。最悪のケースは死亡もあった。あたしなんかより、そういった人が助けられるべきだ。と、言うのは言い訳だ。実際家の外に虐待が知らされてしまうと、今よりひどい暴力を振るわれるのではないか、お風呂や食事までもが奪われてしまうのではないか。そういう恐怖があたしを支配してくる。そして、あたしは本当に悪い子なのだと思い込む。そうやって今まで耐えてきた。そして、今日もあの人は帰ってくる。『夜』の始まりだ。

 あたしの部屋は二階にあるが、玄関のドアを開ける音はここまで聞こえてくる。きっとまずはご飯を食べるはずだから、上には上がってこないはず。部屋から出なければ時間は稼げる。だが、突然襲ってくる尿意。そういえば少し前に水を飲んでいたのだった。しまったと、舌打ちしてももう後の祭りだ。我慢しているが、どんどんせり上げってくるじれったい感覚は容赦なくあたしを攻め立てる。そして限界がきた。その尿意にあたしは勝てなかった。布団をめくり、ベッドから極力音を立てないように出る。必要最低限の物しか置いていない部屋の扉に耳をあて、澄ませる。特に音はしていない。これまた音をたてないように解錠し、慎重にドアノブを回して扉を押す。右奥の部屋に明かりはない。踊り場の電気を点けずに手さぐりで前へ進む。もちろん細心の注意を払って、音は立てないように慎重に動く。だんだんと目が暗闇に慣れてきた時、右足を前に出すとそこに足場はなかった。階段だ。一度右足を引っ込め、小さく息を整える。

――まだ、我慢できる。だけど時間はない。

トイレは階段を下りてすぐ左だ。息を飲みこみ、右足を再び踏み出す。薄らとしか見えない視界に不安は募る。一段ずつ音を殺して下りていくと、少しずつ明かりが見えてきた。あの人はやはりリビングにいるようだ。最後の一段を下り終わった時、安堵から息を零しそうになりかけたのを必死で飲み込む。目の前のガラス戸からは部屋を照らす電気やテレビの音が漏れている。今まで以上に気を引き締め、左手にあるトイレのノブを握る。そして、静かに回し一気に駆け込む。電気は点け忘れた。

 暗い中必死に目を凝らしながら用を足し終えてから、はっと気づいた。

――水を流してしまった。

先ほどまであれほど気を張り詰めていた状態だったが、トイレに辿りつけて尿意から解放されてしまい、油断が生じてしまった。その結果、いつもと同じように水を流してしまった。しかもよりによって、小ではなく大で。どうしようと思うと同時に様々な考えが頭の中を過る。あの人が気付いているとは限らない?いいえ、大のレバーで流した音は居間でも聞こえる時がある。でも、今あの人はテレビを見ていたし、そっちに集中していたかもしれない。でも……。と、頭の中で一人自問自答を繰り返すが、これだというものはなかなか出てこない。もういっそあの人が寝るまでここに立て籠もろうとも考えた。だが、小野家にトイレは一つしかない。もし、あの人たちが用を足しにきたらおしまいだ。つまり、ここから出て二階の自分の部屋に戻るしか術はないのだ。

 ……よし、と心のなかで呟く。覚悟は出来た。鍵を外し、ノブを回す。少し開けた隙間から見える視野はトイレに入る前と変わっておらず、左手のガラス戸から居間の光が零れている。だが、一つ違うのはテレビの音がなくなっていた。もしかしたら、もうすぐここを出るのかもしれない、そうなってしまえば鉢合わせになってしまう。それはまずい。早まる心を落ち着かせ、入った時と同じように静かに扉を開ききった。そこには誰もおらず、静けさだけがあった。いける、と心の中で小さく笑んだ刹那、後ろのガラス戸が音を立てて開かれた。そこに立つあの人の表情は逆光でよく見えない。今階段を走って駆け上がれば、部屋まで逃げ切れるし、鍵をかけてしまえば籠れるのに両足はピクリとも動いてくれない。

「杏子」

 あの人があたしの名前を声に出した。その瞬間、強い力によって体は突き飛ばされていた。頭がじんじんと痛む中、逃げなきゃと思うが体をうまく動かせない。右手をついて立ち上がろうとした時、今度はお腹にすごい力が乗りかかってきた。馬乗りにされていると気付いたのは、乾いた音が鳴って頬が赤く染まりあがった時だった。

「なんなんだ!お前は!俺を避けるみたいにこそこそと!ああ?大体、お前が悪いんだぞ!ガキのくせして親に歯向かうなんざあっていいわけねえだろ!」

まだ赤く染まっている頬に二発目が降り注ぐ。先ほどのよりスピードを増している拳は口内にまで振動を伝え、口の端から赤い液体が流れる。液体はあの人の拳に伝い、袖口に染みを作る。

「穢らわしいガキめ」

「ぐっ……」

腹上で膝を立てられたことで、ぐりぐりと腹の中に強い圧迫感が生じ呼吸が乱れる。息も満足に出来ないあたしをこの人はさらに追い打ちをかける。休む時間なんて一切与えられるわけがない。髪の毛先を力づくに引っ張られ頭皮は悲鳴を上げ、口の中の鉄の味と相まって、流したくもない涙が勝手に流れてしまう。それでもこの人は涙なんて目もくれず、ただひたすら力任せに嬲り、罵り、蔑み、声を荒げ、家の中は汚い言葉で満たされてしまう。髪を引っ張られたことにより、この人との距離が少し近くなった。居間から入ってくる光が逆光となって表情が見えなかったが、ようやくこの人の顔色が薄い光の中露わになる。露わになった表情は、目尻が上がり目は鋭く尖り大きく口を開けた鬼のようだったが一瞬だけ、――ひどく悲しそうな目であたしを見ていた。

「人様の顔をじろじろ見てるんじゃねえ!気持ち悪い」

そう吐き捨てると、再び今度は頭上から拳が下ろされる。またしても鈍い音が小さく響く。気持ち悪い程に頭が揺さぶられ、視界がだんだんとぼやけていくなか、ようやく飽きたのかあたしを嬲る手がぴたりと止まった。

 今まで思わず耳を塞ぎたくなるような音ばかりしていたため気づくことが出来なかった。しかし、いざ静まってみればどうやら二階の方で微かであるが物音がしている。

――お母さんだ。

その音が妻によるものだとこの人もわかったのだろう、少しほっとするあたしに舌打ちを鳴らし、力強く突き放した。依然として体は痛いが、気が済んだのであろうこの人はあたしなんていなかったかのように階段を上り、部屋へ戻っていった。電気は点けっぱなしだった。

 ぼやける視界とふらふらする体に鞭を打ち、体を起こす。口の中が異様に気持ち悪い。そういえば切れて血が出ているのだった。口を漱ぐため台所へ向かおうと壁を手に立った時、二階から襖を開く音が聞こえた。誰?またあの人?なんで?もう今日は終わりなんじゃんじゃないの?と、一気に混乱するあたしを余所に、襖の音は足音に変わり、その音はゆっくりと階段へ近づいてくる。一歩ずつ忍び寄ってくる音。過ぎ去ったはずの恐怖が再びあたしの元に戻ってきた。体が硬直する。そして、階段をゆっくりと下りていた音がぴたりと止まった。振り返れば全てわかることなのに、あたしの体はうまく動いてくれない。少し沈黙が訪れる。だが、それはすぐに破られた。

「……杏子」

あの人ではないその声。あたしの体はまるで逆毛立つかのようにぶわっと震える。気持ち悪いままのはずである口内が乾く。震える体を無理矢理振り向かせると、そこには階段のほのかなあかりに照らされ佇む、母の姿があった。

「……おかあ、さん」

口の中が切れているためうまく喋ることが出来ない。もとより、動揺してそんなことなんて関係ないけど。

 お母さんはあたしの名前を呼んだきり何も喋らずに、ただひたすら暴力を振るわれ、ぼろぼろになったあたしを見つめている。再び沈黙が訪れようとしたが、今度はあたしがそれを壊す。

「どうしたの?」

暴力を振るわれていたことなんてなかったかのように、出来るだけ明るく言ったつもりだった。だけど、母の目は相変わらずあたしだけを見て無言のままだった。あたしの言葉に返事するわけでもなく、かといってあの人のように力任せに接するわけでもなく、ただずっとあたしをその目に写している。

 だが、ようやくその唇が薄く開いた。

「……どうして」

「お母さん?」

それは聞き取るのが難しいほどひどく小さい声。

「どうして、……どうして、こんなことになるの!」

先ほどまでの姿からは想像も出来ない大きな声に思わず体が強張る。その言葉は確実に怒りを孕み、そしてその矛先は確実にあたしに向けられていた。ただ黙ってあたしを見つめていた母がまるで偽物だったかのように次々と、怒号が飛んでくる。

「どうして!あの人は、勝俊さんはこんなことをする人なんかじゃなかったのに!なんで!私は勝俊さんと幸せな家庭を作りたかっただけなのに!」

言葉とは裏腹に、お母さんの頬には静かに涙が流れている。

 そんなの、あたしだってそうだよ。あたしだって、あたしだってみんなと同じ普通の生活が送りたかったのに。お母さんのせいでないってわかっていても、この場にいると責めかねないと判断したあたしは、お母さんは押しのけて二階へあがっていった。そして自分の部屋に籠り、鍵をかけてベッドに身を放り投げた。口の中は相変わらず気持ち悪かったけど、そんなのどうでもいいと思えるぐらいあたしの頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 その夜、あたしは久々に涙を流しながら眠りについた。願わくは、こんな生活が夢であってほしいと。


 やはり、そうそう都合が良いことなんて起きるわけでもなく、結局は夢であるわけもなくて、気が付けばカーテンから朝日が射し込んでいる。こうやっていつも通り朝が来ていつも通り朝ごはんを作って食べて、そして別段行きたくもない学校へ足を運ぶ。授業なんて適当に聞き流して、弁当の時間は離れで食べて、これでいいのだと自分に言い聞かせながら一人で過ごしている。あたしが所謂「普通」の子だったらあたしみたいな子には近づきたくないだろうし。たまに視線を感じることはある。最初の頃はそれが気味悪くて嫌で仕方なかったけれど、あの人――実の父から暴力を振るわれていくうちに、視線どころじゃなくなり今ではどうでもよくなった。痣や出血痕は日に日に増えていき、見えているわけでもないのに、まるでオーラでも出ているみたいにどんどん人は離れていく。そうやって、学校でも一人で過ごし、下校している日々。たまに聞こえるクラブ活動の話や話題のドラマ、ヒットしているアーティストの楽曲、同級生たちが話すことに興味が湧くことはあれども、結局のところそこで終わってしまう。

 何事も下手に口出さない方が身のためだ。それは虐待を受けて唯一学んだことだった。

 下校して家に戻っても誰もいない、それが当たり前だったはずなのに、今日玄関には女物の靴が並んでいた。いつもなら出かけているはずのお母さんの靴だ。まだ日は暮れてないというのに、あの人はまだいないというのに体がぶるりと震えた。靴を脱ぎ、踊り場を抜け居間へ入るとそこには椅子に腰をかけ、ただじっと虚空を見つめるお母さんの姿があった。テレビも点けず、ひたすら虚ろな目でぼんやりとしているお母さんは、ようやくあたしが帰ってきていることに気が付いたようで、ゆっくりと椅子を引き立ち上がった。そして昨晩と同じようにあたしを見つめる。だが、どこか昨日とは雰囲気は違うように見えた。どこがとか何がとかまでは分からないけど、直感でそう見えた。そしてその直感はやはり悪いものだった。

 お母さんはふうと息を零したのち、今まで虚ろにしていた目をきっと吊り上らせた。昨晩怒りに任せて感情のまま動いていた姿とはまた別の感情。昨晩のような姿は少ないもののまだ今までにも見たことがある、感じたことのあるものであったが、今目の前にいるお母さんは初めて見るものだった。

「昨日ね、あれからいろいろ考えてみたのよ。そしたらね、いろいろ分かっちゃたの」

 一歩ずつ近づいてくるお母さん。いや、違う。これは、お母さんの姿をしたなにかだ。

「勝俊さんがおかしくなったのは、杏子あんたのせいよ」

あの人のように暴力を振るわれているわけでもないのに、体は動かないし口に中は鉄の味が広がってくる。

――お母さん?何を言っているの?

 暴力を振るわれていることに達観していた一方で、心の中ではお母さんが助けてくれるってかすかに信じていた。昨日の夜だって、二階のお母さんの音が聞こえたからあの人も止まることが出来た。そういったことは過去に何度か起きていた。だから、お父さんに暴力を振るわれても、学校で一人ぼっちでも、お母さんだけはきっとあたしを見てくれている。そう信じていたし、お母さんも同じ気持ちなのだと信じ切っていた。それなのに。

「あんたが生まれてから勝俊さんはおかしくなった。あんたが生まれる前に戻りたい」

「そ、そんなの言いがかりじゃん!」

あたしだって好きで生まれてきたわけじゃないんだよ、と言おうとしたけれど、その言葉は出なかった。気がつけば距離があったはずのあたし達の間は埋められていて、お母さんは目と鼻の先に立っていた。

「あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ」

お母さん――目の前の女の人は静かにそう吐き捨てた。

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