Ⅲ話
Ⅰ
二月一六日。七時。
「んん…。ここは…ど…こ?」
喉が渇いたとともに少し貧血気味に織姫は目を開けた。
冷ややかの汗が織姫の額から頬を伝い、ソファーから身体を起す。
「……………」
無言のまま未知な世界にいるような顔をし続ける織姫はふと、傷だらけの体が手当てされていることに気づいた。身体は不思議に、あまり痛くない。しかも丁寧に包帯が巻かれていた。二つの蓋然を示唆しつつ、織姫が奇妙だと顔をしかめる。というよりも気持ち悪そうに怜悧な思考が働きをもたらしたのだ。
「わたし――生きてるの……」
強張る織姫は胸中でぼやく。だんだん不気味に思いはじめて肩を竦め両手で胸を抱いた。少々肌蹴ている自分を見て頬を赤くして――辺りを見渡してみると、その場所は廃墟となった学習塾だ。しかも、いろいろと古臭い寂びた空間。あちこち腐敗している。地面の隙間からちょろちょろと雑草が生えている。広さはざっと一般の教室一個分のフロアだ。それと、この暖かさは暖炉が焚かれているからだろう。
僕は二階から降りて――織姫の元気な姿を見た瞬間、「あ、織姫さん…」と、小さく囁き――驚き慌ててからんと空き缶を蹴り飛ばしてしまう。
次の瞬間、
「……だれっ」
背中越しにビクンと敏感に反応する。柳眉を逆立てるように織姫が眦を決する顔で近くにあるカッターナイフを敏捷に手元に持っていき――僕の方へ向け、後ずさった。
命を狙われているような想いで、そういった仕草で威嚇する。
「……………、」
僕は織姫の硬い形相にまごつくように黙想にふける。
まただ。
また――見据える双眸が、凄まじい眼光を鋭く放って僕を射すくめている。一言も発していないにも関わらず、部屋全体が威圧感に包まるようだ。
互い違いに緊張の面持ちで小さく唾をのむ。
僕は気圧される。苦悶に満ちた顔になる僕はそれでも鷹揚にと接することだけ専念して、彼女に温かい餃子を向けて近づこうとした。香ばしい煙が虚空にのぼる。
「あの……ちがくて、僕…そんなつもり全然なくって――」
「…………動かないで…動いたら、殺す! ………今すぐ…わたしをここから解放してよ!」
強風で船体が動揺するような声で云々する。
怜悧な頭脳を働きかけているにも関わらず織姫の両手が酷く震え上がっている。けれども、怯夫をした気勢をぐんぐんと激発し続けた。
――それでも。
言われたとおりにしない僕はガクガク膝を揺らしながら一歩、一歩、静かに前へ動かし、
「で、で、でも――きみ、昨日……大怪我していたから、覚えてない? 陸橋で倒れたこと…僕がきみを手当てし上げたんだ。僕、インドア系だから、こーゆーの得意で………そんな警戒しなくても、僕はきみに危害を加えようとしないし思わないから。平気だよ」
「………兵器?」
鋭い光が浮かぶ瞳まま首を振り続けて織姫はそのまま引き摺って後退るが、ほどなく背中が壁に当たる。
「この包帯? 兵器なの?」
そう、短く発した質問は、見事なまでに感情がともってないか、冷た過ぎる肉声でもどちらとも捉えられる気がする。及び、冷静沈着とも言えてしまう。だが、肩がなぜか震えている。
そんな訝しく思う少女を僕は、
「う、うん。消毒もしたし…包帯が解けないように巻いたし――止血してあるから平気」
僕は視線を落とした先から織姫を垣間見る。それから、怪我人の疑問を和らげように微笑んだ。僕は織姫が執る行動に媚びた真似をし続ける、とても気まずく感じる距離のなかで。
「あなた――わたしが寝ている合間にそんなこと……!」
「いやあ、別に礼はいいから。……ほら、傷がまた開くかもしれないから。寝ててよ」
と、芝居気たっぷりに腕を広げて訥弁で質朴たっぷりに気を張り詰めた。
鉄の壁越しに背中を預ける織姫は、岩のような無表情で僕へ冷え切った視線を送り込む。
重々しく口を開き、
「どんな、術なの!」
「え?」
「だから、この包帯って…兵器なんでしょ」
マジマジと目を見開き、唇を結んだ。
僕は引き締められている織姫の用心深さを解いてやろうと――僕はもの柔らかに、
「うん、平気だよ…」
「はやく――外して!」
織姫は即答した。
「え? でもっ ホントに…へ、平気だよ?」
僕は頬に冷や汗を掻きながら、悠然たる態度で小さく声音を発する。
戯言にしか聞こえなかった織姫は目を剥いてぶる、と背筋を震わせた、
「うるさい――忍者! わたしに忍者の兵器をつけるなんて――お前もあいつらの仲間なのか」
織姫が挙動から耄碌するように発狂した――理性が失いかける。その殷々とした大きな声は室内に響き――教室の中でこもった。それは霊的に張り上がった強い叫声だ。その異様な霊圧が僕の肩を重くさせる。たぶん、僕が霊視の才を持っていさえすれば、きっと、彼女の身から途轍もない霊気が駄々もれになっていることだろう。
「…………あ、」
織姫のいきなりのセンチメントで僕は畏怖の念を抱き、神経を凍らせた。コホン、と僕は優しく静かに空咳を打ち、申し訳なさそうに丁寧な物言いで「ごめん…僕、なにか悪いことしたのかな…その、無断で…服を脱がして怪我の処置をしてしまったことは謝る…でも…でも、あんまりきみの…は、は、は、『裸』とか…み、み、『視』ていないから…あんまり…あはは…は」と弁解がましいことを抜かした。
それでも「………、」無言のまま大きな不安を抱くように苛まされカッターナイフを擬しなどして、それを僕へ脅嚇する。
己の弁疏が端的な効果を示さなかったことを胸に抱き、及び、今までの会話にどこか胸中でつっかえる障害を帯びた体験をした僕は、はっ! と、別の趣旨じゃないかと気づきはじめて、
「もしかして――その包帯を危険視してるの? …かな?」
「………違うの?」
しばし、間合いを開けて、思わずギャップ萌えしてしまうほど、態度が豹変。それはそれは素直な口調で織姫は首を横に捻り、ちょっぴり警戒心を解きかける。
僕は不意をつかれるように頬を赤らめた。
隙をすかさず、その場で不審を打つ僕は、
「ち、ち、違うよ。……そ、それは…ただの救急箱から取り出した…応急用の包帯なんだ。……だ、だから、べ、別に怯えなくてもいいん…だよ…………」
焦りながら浮ついた声で僕は喋る。それでも彼女はちょっぴり怪訝そうにする。じろじろ視る織姫の警戒を解くため、自前の財布から昨日会計済みのレシートを見せつける。
それをじっと不思議そうに見つめる織姫は、
「…………、」
安堵の胸をなでおろすと、グーとお腹を鳴らす。お腹を空かすと、織姫は人前でそれを聞かれるのを嫌がり――恥ずかしくて堪らない顔つきで顔を横に伏せる。それも真っ赤にして。
「ぁ………。あのぉ…た、食べる? …餃子?」
それを見てあんぐりと口を開けた僕は毅然な態度で織姫の弱った心へつけねらう風に掻い潜って宇都宮学区名物―餃子を差出す。
「……ぅん――」
香ばしい匂いにより、身体全身に刺激を与えられた織姫が朴訥に浅く頷きを掛け――大人しく鼻白む。同時に重心を預けている背中を崩され、スーと、縦に床へやおら座り込んだ。
しおらしく肩を竦める彼女もよく考えれば、よく考えなくとも普通に普遍に僕と同じ――単純過ぎる人間だ。心のなかで何となく安堵の胸をなでおろし――恥じることもあるんだと思わずにはいられない僕は彼女に畏敬の念を注ぎ込み、やや自身を深めた表情でにんまりと笑いを掛けた。
Ⅱ
僕は顔を吊り上げた。
苦笑い。
ぱくぱく上品に食い平らげた一人前分の餃子がテーブルの前には、気づけば――タワー型に二十七枚皿になって重なっていた。
うんとも、スンとも言わずにただ……坦々と、がつがつ、もぐもぐ頬を動かしている織姫に僕は知らず識らず騙された。
なんだ? この女は? と、心のなかで無意識にぽろり、大胆につぶやきが落ちた。まるで大食い選手権で勝負してないのに自分より器の大きい巨漢に迫力で押し潰され、力量の差をつけられ、絶対に叶わないと死亡フラグを立ててしまう気持ちだ――それは、心ともなく敗北してしまった慈悲というのか? そんな気持ちにさせられる。だって、無理もないことだ。言い訳がましいことだと思うが――どこからそのような身体からバキューム・カー染みた未知な四次元空間が展開されているのか僕には…ぽかん? である。華奢で細いラインをなぞっているくせに意外にも胃袋がフードファイターなみだった。
もう、びっくり。
驚愕だ。
恐ろしいと思った。
人は見掛けによらないと僕はにっこり微笑みながら、肝に銘じた。
僕は空々らしい口ぶりで、
「あの…お…織姫さ…んだよね。どうしてあの吹雪いているなかを歩いていたの? てか、そんなに、怪我して…あっゴメン、きみは、そういうこと訊かれるの、嫌がる、だったよね…」
「別に――いいわ。そーいえばあなただれだったかしら?」
「ええ? 覚えてないの? 一昨日会った秋條雨だよ…ほら、ココアを奢って上げたときの…」
「あぁ――」
「うん、うん」
「ごめんなさい――まったく、覚えてないわ。わたし、昨日以降のことどうしても忘れちゃう病気らしくて――」
織姫は静かに両目を細めた。
「え? そ、そうだよね――あはは……きみ、みたいな、かわいい女の子が――こんな地味な男…記憶に留まる…………訳ないか。あはは…」
ポーカフェイスな面相で天井を仰いだ織姫に対して心のなかでポンッ、と掌を叩く僕は驚いた表情を執るのではなく、ちょっとばかし先走った――思い過ごしていた――自分が何だかバカみたいに思い――己の怯懦を恥じる。
僕は奥底から控えめになる、
「……………」
「…………」
「それよりも、織姫さんは――なぜ…大怪我を……」
気まずい雰囲気に身を包まれた僕はとりあらず、一番の『ネック』を訊いてみた。
結局のところそこなのだ。一応理解しているつもりだ――織姫と出会ってまだ、間もない。日が浅いというか初対面に近い彼女に対して、失礼と知って問いただすことはよくないよな! と思っていても、ここに来て……僕も彼女も互いに引き返せないシチュエーションだ。かといって別に強制にせがもうとは思わない。
けど、争いごとが嫌いな僕にとって人が傷つけられているところを黙って見過ごすほど――人を簡単に見捨ててしまうほど――落ちぶれてはいないのだ。
結局のところ好奇心で知りたいだけかもしれない――結局のところ偽善者ぶりたいのかもしれない。その二つの可能性が示唆してしまい、僕はだんだん、後を引き下がることができなくなる。というか、このまま何もなかったことにするのは、おそらく無理過ぎた。
「――気になるの?」
ナプキンで口を拭く織姫が冷静につぶやく。
「ゴメンなさい――別に深い意味はなくて…好奇心というか――ん? じゃあくて――なんというか――なんていうのか――その……」
「わたし、追われているの……アサシンに」
「アサシン? 暗殺者って意味でいいのかなっ……」
織姫の後に続いて僕は神妙に訊いた。
「…そう、そのように該当するわ……わたしも、また、アサシン…」
「――織姫さんも? なの…?」
「織姫でいいわ…アメッ……」
「あ…ごめん…うん、了解した…」
僕は織姫の様子をうかがうと大人しく軽く首肯する。
「あなた? ごめん、ごめんって多いよね? 喧しいとは思わないの?」
ちょっぴり上目遣いで織姫が小さく首を傾げた。
僕は悟りを開いて、
「ぬッ(汗)。ごめん、」
「癖なの?」
織姫が両指先を合わせる仕草をする。
「おそらく…たぶん――むかしから、怯臆に生きてきたから…なんとなく身に染みちゃって。なんだかんだで、僕んちが、忍者の末裔で名門だから、それの次期当主な、僕であって…いろいろと期待されては、その期待に応えられず白い目で見られ続けられてきたから、いつの間にか……なんて、ゆーか。こうなってしまったんだと思うよ――きみはない? そーいうの?」
「…ないわ……。わたし、両親とも誰かに殺されたものっ。……だから、アメみたいな、裕福に育った覚えもないし、された覚えもないわ」
織姫は汚いものでも見るような目で僕の顔に一瞥をくれる。大きな凛とする瞳を薄目にでもするように細くして、小川のせせらぎの音に似た声で僕に喋りかけた。
「………こ、殺され…………………な、なんでそんなことに、」
芯のない声でそう言って、僕はさりげなく後ろへ下がる。
織姫の瞳が苛烈で思い詰めた。だが、それもどこか、感情が入っていないような。
「なんでもかんでも、人から教えて貰おうとするのは、やめてくれない。そのくらい、自分で考えた方がいいわよ。自分のためにならないから」
「そ、そーだよね。わ、悪かったよ、ご、ごめんなさい。で、でも………――アサシンって忍者じゃないの…暗部とか、そーいう類じゃないの?」
さっき、指摘されたばかりなのに僕は懲りずに悉く聞き倒す。織姫の面相が微かに渋い顔になるが、構わず、押し潰されないように目へ神経を集中させた。自分の心をおどおどさせながら。
「全然違う。知らない? アサシンは宗教団体なの。わたしもその暗殺教団の一員だった」
「…だった?」
僕は奇妙に訊く。
「逃げてきたの…自分の野望のために」
「…………………」
まったく、話が掴めない僕は頭を混乱させた。だけど、それでも言っていることがちょこっと、だけ理解した。要するに織姫が所属している組織は人殺し専門としているところだ。さらに言えば、彼女は何かを仕出かして仲間から逃走して追い討ちを掛けられている。ということなのだろう。
「野望? ってなに…はは…」
バカげた目標だな! って思いながら、軽く苦笑いし顔をうつむけ、頬を掻き織姫の無表情をちらりと覗き見る。
「さっき。わたし。言ったでしょ? 両親がなにものかに殺されたって」
「……ま…まさか……復讐? とかじゃ……」
おそる、おそる、僕は足元を見ながら、訊いてみた。
いまだに――織姫は地面によつんばになりながら、
「復讐? それもありなのかも。けど、わたしはやらない」
「…?」
「わたしはこの世界には望まれない存在なの。決して。父と母は互いに愛した夫婦だったわ。娘のわたしから見ても幸せそうに見えた。けど、それはわたしに心配させないようにした背景に過ぎなかった。彼らはお互いの世界に悩まされ、怯え、不安が積もるなかで生きてきた。忍者もあるでしょ? 掟みたいなもの。敵同士と交際は禁止みたいな」
「……たぶん…」
「幸せじゃないって、幸せを味わえないって一種の呪いと同じじゃない。だから、わたしは時代を変えるのよ。わたしたち家族を見捨てたこの時代を殺すの。それが、雪袖の宿命と野望なの。幸せの国を作るためなら、邪魔するもの、刃向う者、混沌へ誘う者、全て殺す。いつか、みんなが平和って文字を心底わかってもらえるまでわたしは戦う。自分の正義を汚しても新時代を手に入れる。たとえ、人を殺し続けて、罪だらけになろうとわたしはそれらを背負い続ける、この強くなれる薬を使って――」
注射器と液体入りの瓶を掌のなかで握りしめる織姫はそれを僕に渡してみた。陶器のような硬い声で答え続ける。それを聞き続ける僕は暗く落ち込んで両肩を収斂したまま立ち尽くした。
織姫がカールのかかった長い睫毛を動かしてまばたきをする。形の良い鼻梁に顎から首筋への滑らかな線。それらが窓から差し込む朝陽に照らされてその場で美しく咲く一厘のコスモスのような少女。だが、その少女の中身は黒々としていて感情が死んでいて僕と思うところが同じでも価値観や考え方がまったく相違する。
どこか似ていて――似ていない。
別に似た境遇に親近感を持つわけでもなく。
僕より格が上――ってだけで、皮肉にも少し憧れるだけに過ぎない。
結局、この子も争わないと、この社会を平和にできない――思考タイプのようだ。
何かしら目的があるのなら、やっぱり彼女の言う通り戦う、しかないのかもしれない。
けど、僕はみんなのようにはなれない人間だ。ずっと、恐い思いも罪も悲しみも痛みもしたくない――意気地なしの卑怯な生き物だ。挙句の果てには暴力から逃げるしかポンコツだ。
僕は単に楽したい……だけであって。いつか、この時代を終わらしてくれる救世主が現れることを期待して待っているだけだ。僕は期待ばかりして――たった一人の女の子がこんな風に野望を燃やしているのにやり遂げようと頑張っているのに何もしない僕は何だか情けないようにも思えてくる。
――悔しいケド。
――ホントに情けない。
「…………」
不毛に浸される僕は黙って俯き、唇を噛んだ。そんな僕の状態を微塵も興味を示さず、のうのうと起立する織姫は木製のハンガーラックに掛けている愛用の黒マントを羽織り、もう、こんなところ用がないわと言っているような動作を執る。唐突に、礼も言わずして――一歩、二歩、と織姫は踵を返した。サラサラしたときいろの毛を翻し、その背中から冷たい霊気を放っていたに違いないと僕は垣間見た。
が、その瞬間だ。
「どこへ、行く、咎人」
唐突にタダならない霊圧が押し寄せた。僕はそれに気づいていたが、気のせいだろうと曖昧に悟っていちいち気にはしていなかった。いや、心を取り乱していたから今まで、気づかなかったと言う方が正しい。そいつらは、人心が乱れない、安らかで落ち着いている。穏やかである。そのわりに――いつの間にか幻影のように姿を現した忍者たちの格好は漆黒の両翼を広げるような長めのコートにその下には忍び袴。の、人影たちが数人、僕らを囲うように包囲した。途端に鋭い威圧感がドドンっと息苦しくなるほど緊迫した空気に包まれる。
身の危険を察知した織姫が機敏な動きで、
「――アメもここから立ち去った方がいいよ」
鷹が悠然と空を飛ぶように二階から飛び降りて身のこなしがよい着地の仕方をする。同時にいきなりのことで戸惑う僕は慌てながらも「織姫さん」と、呼び止めようと試みた。
僕が彼女を呼び戻そうとしたのは彼らが諜報保安官たちだからだ。彼らの目的などは、主に政治や治安、経済や軍事上を執り行うことになり、さらに相手国や対象組織の情報を収集する活動もある。特に非合法的手段による情報収集をスパイ活動だ。
よって彼らの座右の銘は――業務を完璧に遂行すること。
ゆらっと、険しい相貌を浮かべる織姫が相手を惑わす見せかけの動作をする。僕は気圧されて、後ろに下がって――躓いてズッコケる。
すると、
「――雪袖織姫さんだよね? おはゆ~。抜け忍の血族さん――」
諜報保安官のなかでも段違いの霊気を帯びた若い少女の――陽気な声がした。
くるりと、潤う眼光を閃かせ、見張って、
「さらに言ってしまえば――アウトロー・ウーマン?」
と、少女が小さく鋭く吐き捨て、強面になる。
忍びの額当て代わりにキャップを被る少女から――爛爛と肉体から放電。
包囲する諜報保安官たちの前に僕と同い年くらいの少女が歩み出る。ベージュとアッシュに染まるミディアムヘアースタイル。大きな双眸、凛とした、透き通る綺麗な、澄みきった瞳。リーダー格しか、着用できない諜報保安官用の戎衣。ただし、少女だけは、学生制服の上に着衣していた。
背後に並び立つ取り巻きも負けに劣らず、毅然たる態度を失わず、身構えている。おかげで僕の方までそのピリピリとしたものが伝わり、体が勝手に聡明鋭敏な動きをして、身を護るようにしゃがみ、すぼらしいく両手で頭を掲げる。嘆かわしいく思うほど、身がビクビク震える。
しかし、瞳に鋭い光が浮かぶ織姫だけは両手に愛用の二丁の銃を構え、銃口を諜報保安官に向けてトリガーを引き放ち、三人ほど致命傷負わせ、道を開き、前進を目論む。ところが、四人の諜報保安官らにより、呪符が放たれ、雲霞の如く、みな一斉に指先で印を結ぶ。投擲した捕獲符が突如と目映い緑色の光を放散し、大樹の根っこに変化し、凄絶な根っこ共は、あっさりと、織姫の体躯を捕り抑えた。
「……きゃっ……うぅ…ぁあぁあぁぁぁ…」
金切りの悲鳴と脆弱な唸る方をする織姫は自分自身の身体を見下ろして、衰退しはじめる。
何本という霊的な根っこが織姫の四肢に、スケベにからんで――枷のように嵌められているせいで金縛りのように身動きができなくなる。それだけじゃあなく、その根っこは、ただの生物的なものではなく、織姫の体から養分を吸い取るように霊気を吸い上げている。
織姫は虚ろった表情でガクっと手足の力が抜け落ちた。視界が朦朧とする。
一方、一瞬にして静かになった、と、なんとなく僕はそう思い、おどおど、立ち上がって二階から一階へ状況を見下ろす。と、錆びついた手すりを軽く握りしめて。一息のんだ。
「……………」
僕の足音に気づいたベージュとアッシュに染まる少女が軽く見上げた、
「雨? 雨なの? どうして、こんなところに?」
その少女は胡乱そうな目つきで裂帛する。
思わず、愕然と後ずさる僕は、
「つ、つばめ? その格好…に、任務……。どうしてって……あの、その子、怪我しているんだ。つばめ。そんな、風にしたら、彼女がかわいそうじゃあないか――放してやってくれよ」
遠慮気味に――鬼気迫る口振りをしながら、不意に強張る僕の顔が少し弛緩する。
「はッ? あははは。阿呆臭いね。馬鹿じゃないの? こいつ、里の咎人なのよ? 犯罪者なのよ? それでも、庇っちゃうのかなぁ。きみは? 『そーいうのなら、お前も殺るよっ!』」
つばめは容赦なく侮蔑の視線を向ける。言い訳とか口答えすれば、同罪扱いされて浄化処分されるか、その場でお払い箱。下手すれば、腹を立てて勢いに乗って殺されるかもしれない。
同時につばめの命令を待つまでもなくつばめの部下諜報保安官が一斉に身構えた。
………織姫さんが犯罪者? 到底信じがたい事実で腑に落ちない僕は「………うわっ…。ごめんなさい」と、再び泡を食う素振りを見せる。つばめはそんな僕を黙殺し、怒ったような面相のまま顔を背けた。同じく、つばめの部下たちが手を下げる。
「はッ……」
――また、またやってしまった………くそぉ……………。
僕はその瞬間、驚くほどに不思議と安心感に包まれた。
「…アメ」
織姫がそんな僕の表情を憎らしげにちら見して、眠りにつく。僕はたったひとりの人間を助けることもできなく、ただ、黙って動揺して見据えるしかできなかった。
立ち尽くす僕の真下でつばめは悪魔のような不敵な笑みを浮かべた。
「…どう? 異国の血が混ざる女の子?」
余裕ぷりにつばめはミント味のガムを膨らませる。と、たちまち、
「はい。知見した結果。髪、目、鼻、輪郭、肌の色、なにしろ…霊気の質がそれを証明しているかと! それに、フランスを象徴する国章が彼女の服装の胸元に小さくプリントしてありました。おそらく、フランス教団の一員かと思います……」
いつの間にかテキパキと動いていた諜報保安官のひとりがつばめに整然と報告を済ます。
「うふふ…」
それを聞いたつばめが倏忽に満足げな微笑を浮べ、えくぼが浮かび上がる。それから怖いくらいに真顔になった。少し感情を制御した酷薄な目つきで僕を垣間見てから、鼻白む。さらにつばめが険しい表情で織姫を見据える。と、
「………連行してください――」
淡々とつばめが部下へ事務的な口調で告げる。
指示に従う者たちはそのまま、安易に織姫を連れて行く。
「………」
しばし、ぽかんと、目を丸くする僕は沈黙したままになる。
僕は固まって声も上手く出せやしない。
僕は生唾をのんだ。
次に、つばめは諜報保安官を撤退させ――
つばめが沈静した怒声で、
「あとで、きみの話…訊かせてよ、雨!」
そう言い残したつばめが悠然と立ち去る。
「……………」
僕は答えない。答えられない。
唐突に――辺りが――この空間が――静まり返った。
残ったのはピンピンした無傷な自分と、なんとも言えないほどの罪悪感。
そして、織姫に渡されたまま、手元のなかで温められた注射器セット。
なにより、一番。一番。人としてやってはいけないことをしてしまった。
僕は地面に這いつくばる、
「……また、…逃げてしまった。……この意気地なし…こんな…こんな…僕でいいのか………」
悔しい涙をながしながら、その涙で身も心も潤い、掠れた声で口籠る。涙のしずくがたちまち、心を打った。
――………………ごめんなさい、織姫さん…………。
なんだか、その言葉は、自分の心が激しく揺れる気持ちと自分の愚かさが滲み出た気がする。
Ⅲ
――……………ごめんなさい、織姫さん…………。
僕は胸を撫で下ろした。
――卑怯なことに暴力から身を護るのに手一杯で彼女を見捨ててしまった。惨めを見るよ。
本当に情けない。情けない――己に憫然な姿を描いてしまった。
僕はあの修羅場から逃げたんだ――姉からも逃げたんだ。
織姫に対して傍観者的な態度をしてしまったんだ。
さっき起きた、荒々しい事態が収拾してから、嘆かわしいほどに、僕はなぜか、ほっとしてしまっている。なんて…どうしようもないんだ。
なんで、僕はこんなにクズでグズなんだろう。
せいぜい――なにをやっても、駄目男ってことなんだ! 僕の今の姿は凡人より水準以下に見えるはずだ。他人のために身を挺してなにかして上げることができなければ、所詮いつもの自分を成りきるのが関の山だ。
――この手で彼女を助けたかった。よ。でも無理だった。僕にはやっぱりできなかった。よ。
そう、心で思い留めておいて体が動かない。
これじゃあ……まさに意気地なし、じゃあないか……。
それどころか、僕は彼女の心へ中途半端な気持ちで踏み躙ったんだ。
いつも、こんな感じだ。僕は他人に媚びを売り続けて自分しか見ていない。
『…アメ』
僕を呼んだ、あの言葉が胸にザクンと突き刺さる。
口にするのも悍ましいほど、あの子から鋭利な刃物のような眼差しで目視された――そう思い返すと、不意に胸中に湧き上がってくるそんな苦い思いがひ弱な心へ容赦なくグサ、グサと、深く抉られる。僕は血相を変え、唐突に織姫から預かっている私物を眺める。
――注射薬……。
緋色の瞳を泳がせながら、巨大な葛藤に見舞われた。
どぎまぎと、寝そべっている体を起し、
「……くそっ! こんなもの! …………、」
理性を失う僕は少々発狂気味に、織姫が大事そうに手にしていたものをブン投げようとした。だが、「…マジ……か、」僕は途中で窮迫になり、それができなかった。きっと、これを手放せば、本当の意味での「弱虫決定ジャン」と、そう――思い浮かび上がったからだ。
もう、一度、僕は、眉をひそめてじっと、手元のものを瞠る。途端に、徐々に身体が熱くなり、頬の辺りから汗が流れ出る。
途端に、僕の心臓が影響を受け、急速に鼓動が速まった、
「…………、」
僕は、自分が今、とても、とても前に進まなくてはいけない感覚に打たれた。そっと息を詰める。
「やれば、僕にもできるかな。でも、やらないと――絶対にできない。かもしれない」
剣呑しながら、僕は息を殺す勢いで奥歯を噛締め、やや自身を深めた表情をする。僕は思わず左手の拳を痛くなるほど握りしめた。
僕は注射薬を忍具ポーチに閉まって立ち上がる。
後の懺悔を捨てて何も考えず、ただ、これ以上自分を嫌いにならない自分になりたいと、足元に籠めて思いっきり二階のスロープから飛び降りた。
僕は廃墟のドアを潜る。
僕は昼下がりの街を走る、走る、全力で。
外は薄暗い曇り、このまま、雨でも降りそうな予感だ。
それでもお構いなしに足を止めない。自分を変えるために、織姫を助けるために、駆け走る。
僕は喘ぐ。畜生、と胸中で叫ぶ。それは口からにも出たかもしれない。
目が霞む。頭が朦朧とする。
しかしそれでも、荒々しい呼吸の合間に、
「僕はこの忍びの世から、逸脱した存在になりたい。僕が…僕自身が織姫さんみたいになれる最後の機会かもしれない。この好機を逃せば、きっと、慎太郎の言う通り一生『家畜』ままだ。僕は変わる。変わるんだ。きっと……この手で!」
僕は意思を固める。
兎に角、僕はのべつに疾走し続ける。
Ⅳ
城山地区に行くと、まさにド田舎だ。
鳥獣をおどしてその被害を防ぐために田んぼに立てられている案山子がまさに厳つい。
また、ここも一応――宇都宮学区である。ただし、『街』や『町』というよりは『村』に近かったりする。
その証拠に都会では、お眼にかかれない雑木林や清らかな谷川が流れ、あるところには、陵丘があり、丘陵地帯が次々に続いている。またあるところには、蜿蜿と続く石階段がある――そこを登り、しばらくすると、林に囲まれ、そこを抜けた先には絢爛華麗な門が風格めいたものを醸し出し、古い書院造が広々と建てられている。
かつて、北条家から譲渡された、忍び宗家――風魔一族の隠れ家。
そこに秋條家の木造邸宅がある。
星霜ここに幾十年と流れが刻まれる屋敷。古雅そのものが感じさせる風情。しみじみとした味わい。冬枯れの景色ありさまもがあり、一部一部分が蒼然たる暮色に閉ざされる。
地面の小石を何度も蹴り続けて僕はこのまま武器庫へ向かい、用足しをする。忍具の補給をする。服装は学校指定のつなぎのままで、常備されている忍刀《黒羽》の兄弟刀《白羽》を背中に携える。三角手裏剣を十二枚ほど忍具ケースに仕舞い込み、僕が蔵から出た瞬間、やや剣呑極まる目つきで外の周囲を歩きながら見渡した。
「………………」
思わずぎょっと体を仰け反らせる。どこからか、気配らしきものが感じられる。委縮した空気が荒れる、黒光りの光沢がある黒羽の柄を静かに握りしめる。
「……妙な感覚がするような気が?」
噛んで含む厳しい表情が考え浮かぶ。
不吉な予感だけ、ひしひしと伝わってくる。
そのとき、僕の視野狭窄から頻繁に爆発する笑い声、何らかの存在が揺れ動く。僕がそう見えてしまうのは、気持ちが集中せず間が抜けていることなのか? また、物の形や色などがはっきりせず、ぼやけて見えるさまなのか? まさに日和見みたいなものである。それでも、僕は気を抜かず、目を凝らして見据える。と、徐々にその姿ははっきりとさせた。
僕はそこで異様なものを見た。
「………式神?」
かすかな、しかし迫力満点気味の囁き声、僕の背中に戦慄が走る。
一瞬の恐慌に続いて僕は、不安を感じた。姿を現した灰色のフード付きローブをまとった人の姿。それはやけに人見知りのようなのが見受けられる。というのは、深々と、フードを被っているせいか――そこには、表情がうかがえないのである。いや、正確には違う。だらりとした長めの袖、裾が不気味に、風になびかれて揺れ動く。もう、日が暮れ始めて、いっそうそれが、薄暗い闇に溶け込むのだ。
そして、よくよく考えてみると、式神? というよりは死に神に近い。そう思考が働いたのはおそらく、正解だろう。なにせ、見せかけだけでしっかりしたうろうろと歩く足元には、恐ろしさのあまり、絶叫してしまうほど、ホラー的なもので足がない――足がついていなかった。
「………………」
僕は恐怖のあまり声をあげることすらできず、ただ、黙りこくって狼狽えるしかできない。
ひらひらと広げられた袖口から、薄墨色のグローブが見えたが、それ以上は覗き込むことは不可能だった。
「わひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
この世のものとは思えない、底気味わるい笑い方をする死に神は僕を標的にし、薄墨色のグローブに持つ二等の(アッ)斧で牙をむいて身を空中でぐるりと大車輪のように回転し、僕の首を目掛けて力任せに叩きつけてきた。瞬時、僕は反射的に抜く手も見せず、黒羽で受け止め、強烈な打撃とともにそのまま宙を浮いて吹っ飛んだ。僕は派手に地面に転がった。弾く石ころが何度も僕の後頭部を打つ。皮膚を切り、血が散布する。
瞬きもなく、避けることすら間に合わなかった。苦痛、激痛、吐き気が不意に襲い掛かる。
「ははははは、ふざけんなよ…………」
畏怖の念を抱きながら、かろうじて僕は立ち上がった。膝が笑う。この状況で鳥肌が立たないというのは無理があるだろう。
「………はは。なんだ、コレ? 意味不明だろ。死ぬ。死ぬ。いきなり、なんなんだよ。次元が違い過ぎるだろう。逃げなきゃ、逃げなきゃ」
声を痙攣させながら、広大な庭にどよめき渡る。僕は血の気が失せた。
広大な庭のなかには、池があり、石でつくった灯籠や社がある、僕は死に神が次の攻撃を仕掛ける前に奔逸できなくても、こけそうになりながら狂奔する。だが、死に神が見透かすことなく、卓越した技量で、追随する。その追いかけっぷりは、正しくゴーストだ。
「お、おおああっ」
僕が叫びを上げると、死に神がさらにスピードを上げた。
辛酸を嘗める僕は逃げ足を速める。進退これに谷まるなか、黒羽を強く握りしめる。
逃げ出して、初めてふと思った。
――なぜ? 僕は逃げている? だろう? 変わるって決めたじゃあないか。このヘタレ!
けど、あの死霊みたいな奴、僕を狙い続けているがその思惑がまったくわからない。だが、やはり――ひとつだけ言えることがある。奴を観察する限りでは、式神なんだろう。人間離れした身体能力に生命力というか、なんというか、そう言った人間の魂が感じられない。
だったら、もうひとりこれを操っている傀儡使いがいるはずだ。式神を使うときそれを使役するため霊力を送り続けなくてはならない。そこが式神を使うときのもっともポイントなところだったりする。だが、式神の類のなかでも、生を受け黄泉に帰るとき肉体から抜け落ちる霊体がそのまま式神にされるものは別だったりする。たとえば――動物や昆虫の精霊に術を掛けて主に仕えさせるとか。そのほかを考えると思いを力に変える生物の口寄せ。
でも、
「そんなことはどうだっていい。考えたって僕の力でどうこうできないことじゃないか………」
涙目になる僕は息をのむと同時に全身の血が沸騰するような憤りを覚える。
僕は決して争いを好む方ではない。
――けど。
そのとき、僕は地響きを伴う雄叫びとともに、口から眩い噴気を吐き散らして背中を翻しおざなりに突撃した。が、突如、死に神が砂のように消え去る。
「え?」
ラグが生じながら死に神が僕の体をすり抜けた。眼の前でなにが起きたのかさっぱり理解できないという表情をしながら、饕餮な瞳になる。
あまりの呆気ない消滅に――このよくわからない助かりに眼を疑うしかなかった。
はぁ、と溜息をつく。
命の危機から解放されると、途端に僕は体の筋肉が弛緩した。不意におっと、お尻が地面へ座り込む。恐いことが除かれ、安堵の胸を撫で下ろす。が、ひとつ気がかりなことが残される。
別に僕があの死霊の弱点――核とかそういうものを突いたわけでもない。
じゃあ、
「……誰が?」
創痍未だ癒えずみたいに喪家の狗になりながらつぶやく。一時的度胸があるかどうかを試された僕はこの問題を不満に思う。
僕は目を瞑って精神統一をしたがその応えはなかった。さっきまで二つの霊気を感じ取れていたものがいつの間にかプツンと切れていた。
――でも、あの霊気どこかで………………。
†
そこは廃墟した病院。
奇妙なことに窓ガラスが全て割られていた。
あの不気味な廃墟の塾もそうだが、ここ一帯がそのようになっている。昔はそうではなかったらしい。話せば遠い過去の話だ――雨たちがまだ生まれていない時代。
この姿川地区では昭和の終わりごろ、敵の里と抗戦した。普段なら、里周辺に強力な霊的防御結界を張り巡らせて敵国から侵入を許させないのだが、それでもいともたやすく崩されてしまったのだ。なぜ。どうやって壊したのか今現在でもわからず仕舞いのようだ。
なので。どうやら、この一帯廃墟だらけなのは、昔起きた名残だったりする。
外は見張りをしている人たちが多く――その全てがつばめの部下である。病棟にいるのは拷問を受けている織姫をはじめ、独立忍者官つばめと股肱の臣の女下士官がこの場で取り調べを行っている。
ひび割れた病棟には少し埃っぽさがある。
それでも関係なく、
「まだ、喋る気にならない? この泥棒猫!」
つばめが刺々しい声を出す。織姫の傍らでつばめが織姫の髪を上に引っ張りクナイを首に突き立てる。すると、一皮切れて少々血を流させられるが悲鳴を上げることも絶叫を上げたり、喚いたり、抵抗や逃げもしない。
「…………………………………」
視界も手も足も拘束されている織姫は口を噤んで真相を語らない。
椅子に座ったまま猫背状態で微動だにしない。
「ボクらには、上司から異国ものを排除せよ、という任務があるの。それにさぁ。キミ? 調べたら、やっぱりこの里の住民ではないわよね? でもこの際どうだっていいわ。ボクが気になることは――どうして、わたしの弟である雨と一緒にあの場所にいたってこと?」
金切り声を出すつばめは柳眉を逆立てて一気に捲し立てた。
「そのキズの手当? 雨がやったものよね?」
「……」
織姫は答えない。
「むぅー。ずるい。ずるい。ずるい。ずるい。ボクだって優しくされたり、そんなことされたことがないのにぃぃぃぃぃいいいい!」
「………」
それでも、織姫は目に見えない敵に悪寒を覚えながらも堪え黙ったまま――ある程度の感情を無理やり遮断させた。なぜなら、答える義理がないから。忍者なら、尚更だ。
「キミ、なんの目的で雨に近づいたのよ? フランス教団の手のものでしょ? 誘拐とかしようとか? 思ったりしたわけ?」つばめ悔しげに口を結ぶ、「……………、」
「……」
「なにか、答えたらどお? もし…そーだとしたら、許さないよ? ボクの雨はボクだけの者なのだから……雨は絶対に危ないところへは行かせないわ」
「………」
それでも、織姫は無反応。織姫はつばめたちに発露しなく口を割ることはない。たぶんこの調子だと、さまざまな肉体的苦痛を与えようが動じないことだろう。
「――非常識にも甚だしい……白状しろってば……………」
怒号を抑えてひそめて話す。
その態度が気にくわないと思うつばめは堪らなく舌打ちをして体を震わせると、反射的に両手の指を躍らせ、印を結ぶ――肉体に電気が帯びる。次の瞬間。それまでの静寂を叩き潰すかのように細かく鋭い稲妻が躍った。光が明滅し幾重の鞭と化して、轟音が耳に圧迫される。ドン! という辺りを叩く衝撃音とともに地震が起きるかのように空間が揺らし始める。
「……きゃっ…つばめちゃん…? ブラコンにもほどが、あるよう~?」
一瞬、女下士官の背筋がゾクリとした。女下士官の心情にぼんやり戦慄を覚えた。
蒼白顔になる女下士官の帽子下をのぞき見れば、きっと、焦りと困惑の面相に満ちているのは間違いないはずだろう。なのにも関わらず、
「…………」
織姫は動かない。だが、微かに霊圧を上げた。その証拠にピクリと眉が険しくなった。
瞬間、秋條つばめの回し蹴りが襲い掛かってきた。
その片足はまるで稲妻を纏った棍棒だ。振り回すようにつばめの頭上ギリギリの空気を切った。カラぶった。大振りと感じながらもつばめは当てるつもりだったが全身全霊で織姫が身を挺して間一髪に避けた。さすがにあれは冗談が通じない瞬間だ。でも、まぁ、身の危険を感じた織姫は感覚だけを頼りによくも、まぁ、回避したものだ。と、女下士官は不意に呟いた。
驚愕に凍る織姫のすぐ後ろには――壁が消滅していた。まるで凄まじいスピードで建物に突っ込むような破壊力。バリバリと瓦礫が崩れ落ちる。
凡人から観たら現実味が湧かない光景だ。あまりに異次元過ぎて理解が追い着こうとできない状況だ。
「…な、なかなかやるわね…」
外したことにしばしぴくぴくとつばめは柳眉を痙攣させた。ここで苛々したいところだが、あくまで仕事の一環なのでつばめはしばし冷静に目を閉じた。そして、スッと背筋を伸ばすと、おもむろに前に進み出る。
織姫は急速に息を速め、霊気が収斂していく、目隠しのなかはきっと困惑した表情を観せているに違いない。織姫が小さく唇を噛み締めると芋虫のように体を前進させた。
「…。逃げても無駄、無駄、無理、無理……大人しくしてよね!」
淡白なさまを視せるつばめが織姫の顔面に軽く足蹴りをかますと頬を赤くして唇を切った。
「………、お前――殺すわ、」
そのとき、不意に込み上げてきた憤りが織姫の口を初めて割った。まるで、この程度じゃあ動じないと言わんばかりの冷たい声だった。
「そう? できるものなら、やってみてよ。できるもの! ならね! うふふふふ。うふふ」
両目をわずかに細めて、寛大に嘲笑すると、つばめがそれまでより真剣な、鋭い眼差しを向けた。「夏乃さん。もっとやっていいよ」つばめが、よどみがなく喋ると、「…私こういう拷問染みた真似は苦手なんだけどなぁ……」下士官の夏乃がほんのり嫌そうに囁き、渋面させると、腑に落ちないような態度で嘆息をもらしてから仕方がなく背中越しの巻物を開きはじめ、
「貪・瞋・痴・痺・痺・絡・絡・染・結・垢・羂・索・縛――」
全身全霊に霊気を漲らせて、巻物に記されている文字を唱える。と、抑揚をつける呪文が、浮かび上がると同時に木霊する。ぶわっと嵐が巻き起こるみたいにその浮かび上がる言霊が織姫を中心に回転しはじめる。
それは金縛り術だ。特にこの忍術の詠唱系高等術だ。しかも不動明王の牽制。十三句の文字たちが互いを共鳴し合い人魂のように青く燃え上がると縄になって華奢な織姫の肉体をがんじがらめに縛りつけた。身動きができないように、厳重に縛りつける。
その効果は絶大で、
「きゃ……あああああ…ああ…あ………ああああああああ……ああ」
織姫がしどろもどろなさまで悲鳴を上げた。視る側にもそれは、それは残酷な光景。思わず、夏乃も痛みを精神的に共有してしまう。じわじわと、織姫の霊気が吸われていく。織姫の霊気が空気中に迸る。まるで霊気が暴走しているみたい。
生け簀の鯉状態になった織姫は、
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
金属を切るときに出る音のように、高く張り上げた鋭い声。織姫は悲痛の悲鳴をやめない。悲痛な声をやめられないのだ。必死に霊気をコントロールしているが、この青いリングのせいで霊気が不安定になっているらしい。身動きも抵抗も不可能。まさしく、金縛り。
だんだん、織姫の顔がやつれる。
「…こういうの、私はあまり、好きじゃないんだけど、里を護るためだから…ごめんね」
精神的にこの光景に耐えられない夏乃は顔を伏せながら顰蹙して、両目を涙目に瞑った。
倏忽して、
「………………」
つばめが、苦しそうになる夏乃を瞠ると、
「…夏乃さん。ごめんなさい。……もういいわよ……」
擯斥したつばめが静かに囁くと、遠慮がちに夏乃が暗黙の了解をする。続いて夏乃が暫時を使って一息で心を微かにほんわかさせる。眦を決する。それから眼光鋭くにらみつけると並行にのべつ幕無しに口を動かした「放て! 言霊たちよ! そして我が主の元に引き返せ!」と解呪法を唱える。と、バサバサと羽ばたく文字たちが元の住処へ引き寄せられる如く巻物へ帰った。
「…はぁ…はぁはぁ…はぁはぁ……」
織姫が肩で息をする。唐突に織姫の霊気が落ち着き、ぐっ……、と突発的に襲い掛かる眩暈を殺しつつ、卓越した自我で憔悴しながらも、気を保つ。視る限りそれは常人を遥かに超えている。その度胸を視せつけられた二人のくのいちは思わず困窮して――だんまりと両者顔を見合わせた。
「ぅ!」
織姫の傷口がまた開く。包帯が真っ赤に染め上がる。甘そうな桃色の唇の辺りが冷たい水に浸かった後みたいに真っ青に変色していく。織姫の瞳が濁ってピクリとも動かなくなり眠りにつく。その姿は眠りに就く白雪姫ようだ。
「…猫かぶりめ! 行くよ。夏乃さん」
つばめがにべもない喋りをした。それから、スカートを翻し――悠々と立ち去る。
「あっ。待ってよぉ。つばめちゃん」
夏乃が、そのほっそりとした脚を追随した。
夏乃はちょっとだけ、黙った。後に息をのむ。
「それにしても――解語の花の御姫様のように眠っちゃったね…」
夏乃が苦い想いをしながら、白い歯を見せる。その地面に流れる血だまりを背中越しに振り返って視て――目を細め――夏乃が琴線に触れる。
「………平気だわ。その子死んでいないもの。あの、少女の拷問はまだ終わっていないから、夏乃さん。手当てよろしくね」
つばめが己を虚しゅうすして夏乃へ詫び申し上げなくてはと思う顔つきになる。




