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黒の黄昏  作者: GB(那識あきら)
第十六話  昼を司り、命をもたらす者
66/72

三 終焉

 

 

 

 サンが、風のように走る。

 鞘を投げ捨て、流れるような動作で(やいば)をひらめかせ、駆けながら(つるぎ)を構える。

 

 それは僅かまばたきの間の出来事だった。

 古の秘術で造り上げられた大剣は、煌く陽光をその刀身に鈍く映し込んで、真っ直ぐ虚空を突き進む。

 アスラを――()の者を目指して。

 彫像がごとく立ちすくむ人々の後ろ、リーナは固く両目をつむった。左手首に人知れず絡ませた硝子の首飾りを、手袋の上から握り締めて、祈る。ただ、祈り続ける。

 ――ああ、どうか、どうか……彼にアシアスのご加護を……!

 

 

 この日のために幾度となく繰り返された調練。アスラが防御するよりも早く、サンの身体がその懐へと飛び込んでいく。

 ヒトの肉体に縛られた、ヒトならざる存在は、ただ為すすべもなく襲撃者をその身体で受け止めた。

 両手を大きく広げ、まるで自らその刃を迎え入れるかのように。

 渾身の力を込めた一撃が、真っ向からアスラの肉体を貫いた。

 

 

 おのれの為した行為が生んだのは、喜悦よりも畏怖に近い感情だった。震える両手でしっかりと剣の柄を握り締めたサンは、アスラの胸元に自らの身体を押しつけたまま、しばらくの間顔を上げることができなかった。

 確かな手応え。

 鉄錆の臭いに少し遅れて、ぬるりとした感触が剣をつたってくる。

 目線を床に落とせば、次第に大きくなる血だまりと、自分達の影が見えた。破魔の(つるぎ)に串刺しとなったアスラの影が。

 ――これで、終わりだ。

 人殺しだろうが、神殺しだろうが、その汚名は甘んじて受けよう。サンは意を決して、剣の柄を握り直す。血糊にぬめる両手に力を込めて……下方へ力をかけながら刃を引き抜いた。

 

 アスラの身体が、ぐらりと傾いた。そしてそのまま静かに崩れ落ちる。

 ゆうるりと、まるで天空から舞い落ちる一枚の羽のように、()の者は前のめりに床にぬかづいた。

 大理石の床面に緋色が広がっていく。

 

 禍々しいほどの赤がサンの足元に押し寄せてくる、と思いきや、その鮮烈な色彩は見る見るうちに失われ始めた。黄昏時の空のように、(あけ)が紺へ、紺が漆黒へと変色する。

 人々の列から、大きなどよめきが湧き起こった。

 言葉もなく立ち尽くすサンの目の前で、流れ出でた血潮ばかりかアスラの肉体にも、驚くべき変化が訪れていた。金糸をあしらわれた豪奢な頭髪も、白磁のような頬も、袖口から伸びる優雅な手も、全てが闇の色に置き換えられていく。

 やがて、がさり、と微かな音とともに、アスラの身体はマントの下でその(かさ)を減じた。

 

 静かに散り始める、黒い霧。

 辺りに飛び散った血も、床に流された血も、さらさらとした漆黒の砂と化し、そしてそのまま空気中に溶けるようにして霧散していく。

 かつて万人から敬意を以って兄帝と呼ばれた存在が、

 絶大なる力と智慧と、そしてその美貌で人々を魅了した存在が――

 

 ――塵に還っていく……。

 

 

 その様子を呆然と見つめていたサンの胸中に去来する、違和感。

 血塗れていたはずの、今は微塵の汚れすら付着しておらぬおのれの手を見つめながら、サンは、自分を内部から侵食する不吉な思いに苛まれていた。

「やったな! サン!」

 興奮から頬を紅潮させたレイが、サンの背中を叩いた。だが、サンは微動だにせず、じっと(おの)が手のひらを見つめ続ける。

「……どうした? サン?」

 思いつめた表情でサンは顔を上げた。視線の先ではレイが、これ以上はないというぐらいに上機嫌な笑みをこぼれさせている。

「……いや、なんでもない」

 

 あの一瞬、アスラは(やいば)に向かって、(おの)ずから大きく胸を開いたように思えた。

 そして……、微かに口角を上げたように見えた。

 

 ようやく自らを取り戻し始めた群衆がざわめき出す。驚愕や、混乱、不安を誤魔化そうとすべく、皆口々に傍らと言葉を交わし合っている。無数の囁き声がうねるようにして広間中を席巻するさまは、まるで木枯らしに鳴く森の木々のようであった。

「良くやったな、サン」

 背後からウルスの声が近づいてくる。

 サンは、言い知れぬ不安を無理矢理胸に仕舞い込んで、静かに赤毛の(あるじ)を振り返った。

 

 

 

「……どういうことだ?」

 搾り出すようなセイジュ帝の声に、再び人々は口を噤み始めた。

「これは一体、どういうことなのだ? 今のは何だ?」

 ふらり、とセイジュが玉座から立ち上がる。すかさず差し伸べられた騎士団長の手を振り払い、今や唯一無二の存在となったマクダレン帝国皇帝は、よろめきながらも歩みを進めた。人型をなしたまま床に重なる衣服――兄と呼んでいた者の残滓――に向かって。

「兄さんは……、兄さんではなかったのか? ならば、本物の兄さんは一体、どこへ……?」

 人々が息を呑んで見守る中、セイジュはくずおれるようにして、緋色のマントの傍らに膝をついた。おそるおそる伸ばした手が、布地越しに冷たい床に触れ、その中が紛れもなく空虚であることを彼に思い知らせる。

「どこへ、消えたのだ? 兄さん……、兄さん…………!」

「セイジュ様!」

 年老いた貴族が、人垣から一歩進み出た。声を上ずらせながら、酷く興奮した様子でセイジュに向かって言葉をかける。

「セイジュ陛下! わ、私は……憶えておりまする。いや、思い出しましたぞ……! (さき)の皇帝陛下は、たった一人の御子しかお授かりにならなかったのです…………」

 その声に、セイジュはまるで雷にでも打たれたかのように、びくり、と身体を震わせた。憔悴しきった(おもて)を静かに上げ、老貴族のほうを見上げる。

「ですから、我々は、なんとしても殿下が、無事に、元気にお育ちあそばすように……、日々お祈りをお捧げいたしたのです……!」

『一粒種のセイジュ皇子の健やかな成長を願って』

 三十五年前の当時、ナナラ山脈の向こうは他国の領土であった。「刃境湾」の航路も整備されていない中、細々と語り継がれてきたアシアスの神殿に木簡を奉納すべく、名も知らぬ「彼」は、天険を越えたのだろう。その祈りは、それほどまでに切実だったのだ。

「そうだ! 陛下の十年目の錫婚式には、殿下は一人でお二人の間にお座りになっておられた!」

 別な貴族が感嘆の声を上げる。それを皮切りに、年配の貴族達の、封印されていた記憶が次々と解き放たれていった。

「いつから……、一体いつから……!?」

「セイジュ様が六つの時は、まだお一人であった!」

「そのあとです! そのあとに、突然アスラ様が……」

「そう、突然にあの方……あの者が現れた……」

「何故、誰も疑問に思わなかったのであろうか! そもそも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ものを!」

「一体、我々はどうして……、なぜ……」

「なぜ、我々はそんな重要なことが解らなかったのか……!」

 口々に喚き立てては騒ぐ一同に、冷ややかな声が投げかけられた。

「地に堕ちたとはいえ、仮にも神だ。それぐらいの芸当などたやすかろう。貴様達は揃いも揃って、長い夢を見ていたのだ」

 一同は、軽く息を呑んで、ウルスを振り返った。

 

 

 三十年の長きに亘る茶番劇に幕を引いた立役者。

 征服され、滅ぼされた国の忘れ形見にして反逆者、という汚名は、僅か一時(いつとき)の間に百八十度逆転してしまっていた。自称「黒の導師」は、今や、邪神の企みを白日の下に晒し、帝国を未曾有の危機から救った英雄である。

 だが、ウルスの口調はあまりにも冷たかった。

 握手を交わし、感謝の意を表明すべきなのかもしれない。諸手を挙げて、褒め称えるべきなのかもしれない。しかし、未だ抜き身のような闘志を収めることもなく、鋭い瞳で周りをねめつけるウルスの様子は、とても「味方」と呼べるようなものではなかった。彼の本心がどこにあるのか見出すことができずに、人々はただ無言でウルスを遠巻きに見守るばかりであった。

「夢……。本当に、夢だったのでしょうか」

 ()の者と同じ顔で――いや、()の者こそが、その姿を模倣したのだが――セイジュが身を起こす。

「そうだ。夢だ。だが、そのお蔭で、俺は国を失った。多くの家臣も、民も。家族も、家族となるはずだった人も」

 ウルスの声を彩るのは、冷酷さよりも悲痛さであった。ほんの少しばかり、何かを懐かしむ色を瞳に浮かべ、それから彼はセイジュを正面から見下ろした。

「そして、貴様達もまた、多くの血を流した。繁栄と引き換えに神さえも失うところだった。……随分な悪夢ではないか」

「貴方は……、我々を救うために来られたわけではなかったのですか」

「そうだな。貴様達がどうなろうと俺の知ったことではないが、この国の此方(こなた)彼方に散らばったカラントの民と、彼らと交わった無辜(むこ)の民が、苦渋を強いられるのは、看過できなかったからな」

 ウルスの言葉を聞き、ゆっくりとセイジュが立ち上がった。そうして、真っ向からウルスの視線を受け止める。

「…………ありがとうございます」

 一呼吸のち、ぎこちないながらも頬を緩ませるセイジュに、ウルスは大きく両眉を跳ね上げた。

「どういうつもりだ」

「我が民を救おうということは、我が国を救おうということ。そして、それは、この私をも救おうとしてくださったということだからです」

 露骨に鼻白んだ様子を見せてから、ウルスは口元を歪ませた。

「なるほど、流石に矢面に兄君を立たせていただけのことはある。稀代の名君は、随分と腰が低くていらっしゃるようだ」

「無礼者!」

 騎士団長が、まさしく怒髪天を衝く形相で声を荒らげた。「セイジュ様がどのようなお気持ちで、どれだけ国のために尽くしてくださっているのか、貴様は……」

「兄と名乗る者の暴走を止めることもなく、な。自分の名を騙っての悪事に気がつくこともなく、な! 人当たりと愛想の良さは認めてやろうが、とんだ名君だ。違うか!」

 顔を真っ赤にさせてなおも反駁しようとする騎士団長を、セイジュが遮った。それから再びウルスのほうに向き直り、訥々と言葉を返す。

「兄が切り拓き、私が地ならしをする。そうやって我々は各々の役目を果たしてきました。政の全てをあの者に委ね、深慮することもなくあの者の言葉に従っていました。自分には為し得ない、そう諦めてあの者を頼りきっていたのは間違いありません。そう、いつだって私はあの者の陰で、直接嵐に晒されることもなく、ぬくぬくと過ごしていました。貴方の仰る通りに」

 その、強い眼差しに、ウルスは微かに目を細める。

「ですが、私にも矜持はあります。礼を言うべきを言わぬのは傲慢不遜、詫びるべきを詫びぬのは無礼尊大。ですから、何と言われようと、私は貴方に感謝の言葉を捧げるでしょう。それを素直に受け取れぬというのならば、貴方の器もたかが知れているというものです!」

 珍しくも語気荒く言い放ったセイジュに対して、ウルスはほんの刹那目元を緩ませた。それから、わざとらしいほどに胸を反らせて大笑いする。

「こいつはいい! 一国の元首とあろう者が、なんとも軽々しいことを言う!

 皇帝がそのような態度では、つけあがる者が出るぞ。感謝の意を形で示せ、と言われたらなんとする?」

「ならば、耳を傾けましょう。期待に沿えるとは限りませぬが」

「その決断が貴様にできるのか。守ってくれる者はもう居らぬのだぞ」

「だからこそ、です」

 今度こそ、セイジュは大きく胸を張った。「私は、マクダレン帝国の()()です。()()ではありません」

 セイジュの声が、張りつめた空気を切り裂いて、居並ぶ人々の胸を貫く。

 やがて、割れんばかりの拍手とともに、セイジュを讃えるシュプレヒコールが広間のあちこちから、湧き起こった。

 

 

「それで、貴方の望みは何でしょうか」

 周囲が興奮の坩堝と化していた間も、セイジュは片時もウルスから視線を外さずにいた。そうして、静かに問う。

 それに応えて、ウルスは悪戯っぽい笑みを微かに口元に浮かべた。

「我が領土を、返してもらおうか」

 今度は、セイジュが目を細める番だった。

「セルヴァント亡き今、新たな紛争の火種にしかなりえない土地だ。しかも、邪神の姦計で摂取した土地だろう? 我が手に返されてしかるべきだと思うがな」

「……貴方は、実に頭の良い方だ」

「それが解るのならば、貴公もなかなかのものだ」

 二人の君主が、意味ありげな視線を交わし合う。ややあって、セイジュは大きく息を吸うと、高らかに宣言した。

「宜しい。貴方にセルヴァント領を移譲、いや、旧カラント領を返還しよう。そして、今度こそ、真に我が盟邦となってはもらえないだろうか」

 ざわめきが一気に辺りに満ち溢れる。だが、声を上げて異議を差し挟む者は、一人としていなかった。

 ウルスは、満足そうに鼻を鳴らし、それからセイジュに右手を差し出す。

 十二年前、平和を願うセイジュの進言で、為されようとした和平。だがそれは、奸臣と邪神の手によって、あっけなく握りつぶされてしまった。

 あれから幾星霜。二つの国は、ようやく固い握手を交わすことができたのだった。

 

 

 ウルスとの会話を終えたセイジュは、次に優しい瞳をサンに向けた。

「貴方のことは、良く憶えています。確か、一昨年の秋の試合で優勝していましたね」

 まさか自分にまで声がかかるとは思っていなかったため、サンは酷く狼狽して、それから慌てて最敬礼をした。

「あの者の秘密を知って……城から逃れたのですね。さぞかしつらい思いをしたことでしょう」

 ねぎらいの言葉に、期せずしてサンの胸の奥が熱くなる。

「過去の遺恨を乗り越えるのは、お互いにつらいことかもしれませんが、私は貴方に城に戻ってきてほしいと思います。いかがでしょうか」

 言葉もなく立ち尽くすサンの肩が、ぐい、と後方に引かれる。驚いて顔を上げた先では、ウルスが不敵に笑っていた。

「こいつは、俺のだ」

 ほお、と感心するような、面白がるような表情を、セイジュが浮かべた。

「カラントに連れて帰る。だからこの城に戻ることはない」

「……そうなのですか」

「……あ、そ、そのよう……です……」

 サンは諦めの溜め息を呑み込んだ。当人をよそに、二人の巨頭が勝手にその処遇を決定していくということに対してもだが、何より、こんな状況を悪しからず感じてしまう自分を自覚してしまったからだ。

 ――これが、あいつの言う「下っ端体質」というヤツなのか……。

 深々と礼をしながら、ちら、と目線を巡らせば、にやにやと笑うレイと目が合い、サンはもう一度溜め息を押し殺した。

 

 

 次にセイジュが向き直ったのは、シキとレイの二人だった。

「貴方がたは……」

「彼らは、私の弟子……でした」

 そう答えたロイは、この僅かな刻の間に、すっかりその(おもて)をやつれさせてしまっていた。おそらくは気力と矜持だけで平静を保っているのだろう、()の者が与えた衝撃は、彼を未だに内部から苛みつづけているようだった。

「そうだったのですか。タヴァーネス殿の。名前を教えていただけますか」

 二人は同時に顔を見合わせ、それからかつての師匠を窺った。だが、ロイはそれ以上を語ろうともせずに、疲弊しきった表情で視線を床に落としている。

 シキに軽く頷いてみせて、レイが一歩進み出た。

「俺はレイといいます。彼女が、シキ。イの町で、タヴァーネス先生のお世話になっていました」

「そうですか。タヴァーネス殿は良い先生だったようですね」

 相好を崩すセイジュだったが、ややあって、少しだけ怪訝そうな眉をシキに向けた。

「それにしても、女性の魔術師とは。驚きました。才能か、努力か……、なんにせよ、大層な苦労があったのでしょうね」

「……いえ、そんなことはありません。単に運が良かっただけのことです」

 その一瞬悲痛な表情を浮かべ、シキはそう小さく返答した。「努力というのならば、彼のほうがずっと……」

「なんだよ、拗ねるなよ」

 御前であることを忘れて、レイが口を尖らせる。「血だとかそんなの関係ないだろ。いつもお前、すっごく頑張ってたじゃないか」

「レイ、それはどういう意味だ」

 聞きなれぬ語句に、憔悴した表情のままにロイが問う。レイは条件反射のごとく素直に返答した。

「……ルドスで解ったことなんだけど、どうやらシキの奴、古代ルドス王家の末裔らしいんだ。それで、こいつ、自分が魔術を使えるのは単に血筋のせいだ、俺のほうが努力家で凄い、つって拗ねてるんだよ」

 

 その時、大広間を覆いつくしたもの。それは、凄まじいまでの、力の気配だった。

 

 爆発的に膨れ上がった禍々しい気は、刹那ののちに再び収束する。

 だが、もはやその存在は隠しようがなかった。その場に居合わせた誰もが、おののき、目を見開いて、その痕跡を追う。

 エセルもまた同様だった。膝を屈さんばかりの圧迫感は、時を置かずに恐怖と化した。それでも、潮のように引いていく力の軌跡を求めて、傍らを振り返る。

 彼の視線の先には、真っ青な顔で身体を震わせるインシャの姿があった。

「…………インシャ?」

「あ……あ…………あ……」

「どうした!」

「……い……や…………」

 手袋に包まれた細い指が、震えながらエセルに向かって差し伸べられる。だが、彼女の瞳は何も映していない。

「た……すけ…………えせ……る……」

「インシャ! 大丈夫か!」

 何が起こっているのか解らないままに、エセルは咄嗟にインシャを正面から抱きしめる。ほぼ同時に、彼女の身体が雷撃を受けたかのように跳ね、大きく仰け反った。

「歓喜の余り爪が弛んだとはいえ、よもやここまで抵抗できようとは驚きだ。(もっと)も、この器は少々窮屈ではあるがな」

 エセルの腕の中で、伸びきったおとがいを震わせてインシャが男の声を発する。つい先刻まで、この広間に朗々と響き渡っていた美しい声を。

 エセルは無我夢中で、インシャを抱く腕に力を込めた。そして、ただひたすら救いを祈る。

 安息の時は、訪れた時と同様に突如として……崩壊した。

 

「おい、サン! お前、確かに……」

「くそっ、変だと思ったんだ。あいつ、最後の瞬間に笑っていやがった」

「だったら、早く言えよ!」

「まさか、って思うだろ、普通」

(われ)がお前達ごときに後れをとるはずがなかろう! 幻影相手にご苦労だったな!」

 一気に凍りついた周囲の空気を、アスラの声が粉々に打ち砕いた。

 そして高らかに笑う。インシャの顔で。エセルの抱擁を受けたまま、弓なりに身体を硬直させ、首を反らして。

「ロイ、君の妄執が消える時を、この女の中で待つつもりだったが……もう、その必要はないようだ。君には及ばないだろうが充二分に広く、そして君よりもずっと脆弱な器が現れたのだからな!」

 

 軽い靴音が(きびす)を返す。

 視界の端に動くものを捕らえて、視線を巡らせたルーファスが見たのは、手袋を脱ぎ捨て駆け出すリーナの後ろ姿だった。

 両手に巻いてあった包帯をほどきながら、リーナは人垣をぬって走る。血のついたガーゼを振り落とし、あらわになった手をひらめかせる。

 背後に立ったリーナに向かって、インシャが、アスラが絶叫した。

「黒の導師! 貴様、何故此処に!」

 手の甲に刻んだ古の文字から鮮血を滲ませ、リーナは「封神」を起動させた!

 

 

 

 滅することすら許されずに、移ろいゆく現世(うつしよ)を眺め続けていた。

 神を封じるなどと、許されぬ所業を為した罰だと思っていた。

 

 自分じゃない誰が、頭の中で囁いている。その、あまりに切ない様子に、リーナは思わず心で呟く。つらかったんだね、と。

 

 そう、無為に時を重ねるのは、例えようもないほどの苦痛であった。

 だから、この私の存在に意味があったと解って、本当に嬉しかったのだ。

 幾星霜もの時を経て、再び大仕事を成し遂げることができて、私はとても満足しているのだよ。

 

 こんな私でも役に立てたのなら嬉しいよ。リーナがそう応えると、声の主は酷く安心したようだった……。

 

 

 だが。

 耳障りな笑い声が、つかの間の安らぎをぶち破る。

 我に返ったリーナの眼前、未だエセルに拘束された状態で、インシャが狂ったように笑い続けていた。

「はははははははは! そうか、そうだな! 大昔、貴様に封印された神格はまだあの石の下なのだよ! なんという皮肉か。これは良い。貴様の術は今の私には効かぬわ!」

 

 あまりのことに、リーナが力無く膝をつく。

 絶望に支配された謁見の間、アスラの声が一際高く響き渡った。

「その身体、貰いうけるぞ! 我に(かしず)く一族の末裔よ!」

 そして、インシャから飛び出した何かが、シキの中へと吸い込まれていった。

 

 

 


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