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黒の黄昏  作者: GB(那識あきら)
第十五話  夜を司り、死をもたらす者
62/72

四 帝都

 

 

 

 大型の馬車が優に四台は並んで通れそうな大通りの両側に、見渡す限り、四階建ての建物が軒を並べている。見上げるばかりの高層建築は、まるで巨人の国にでも迷い込んでしまったかのようだった。

 西の空に微かに残った残照も次第に夜の色に拡散していき、辺りは宵闇に沈みつつある。だが、窓という窓から漏れる灯りに照らされて、通りはまだまだ活気に溢れていた。家路を急ぐ人の波を器用によけながら、幾台もの二輪馬車がけたたましく行き交っている。

 雑踏のざわめき。

 物売りの声。

 馬のいななき、御者の怒鳴る声。

 人ごみと喧騒の向こう、緩やかな上り坂の遥か先、建ち並ぶ家々の屋根を更に凌駕した影が天を衝いていた。幾つもの尖塔と櫓塔の上で旗がはためいている。

 幾重にも重なった城壁と堅牢そうな建造物が、街並みの隙間から垣間見えた。

 

 あれが、宮城だ。マクダレン帝国の最高権力者のおわす場所。

 そして、ここが帝都。一年中眠ることのない街。

 街の門を無事通り抜けたインシャとガーランは、しばしの間、声も無く立ち尽くしていた。

 

 

 インシャ達がルドスを発ったのは十一月の終わり。途中海が荒れたためにイシュトゥで足止めを食らってしまい、彼らが帝都の門をくぐったのは十二月も下旬、二十一日のことだった。

 ルドスの南にあるイシュトゥ港から、北へと(えぐ)れる「刃境湾」を西へ横切り、「蹴爪岬」を回り込んだ先に、帝国中心部への玄関口となるガシガルの港があった。

 険しいナナラ山脈は湾のすぐ傍まで迫り、場所によっては恐るべき断崖絶壁となって真っ逆さまに海に落ち込んでいる。それに、天険を避け湾に沿って大きく弧を(えが)く陸路よりも、海路は遥かに最短距離で、必然的に山脈の西側と東側を結ぶ交易は海上に頼らざるを得ない有様だった。

 天候さえ味方すれば、ルドスから帝都へは十日あれば事足りるはずだった。季節柄、風向きの関係から最短とはいかなくとも、それでも二週間で充分だと思っていた。こんなに日にちがかかると解っていたなら、無理矢理山越えを敢行したほうが良かったかもしれない。本日二本目の煙草を燻らせながら、ガーランは溜め息をついた。

 帝都の中枢、皇帝の城の門前広場。ガーランの座ったベンチの周りでは、鳩の群れがせわしなく餌をつついている。

 ――今日も、無駄足になるんだろうか。

 紫煙を大きく吐き出して、ガーランは広場の向こう側にそびえ立つ城の城壁を眺めた。

 帝都にて宿を確保し、身支度を整えてインシャが城に上がったのが、二十三日。こんなことなら、従者としてでも無理に彼女についていくんだった、とガーランは幾度となく後悔していた。そうして、まるで帰らぬ(あるじ)を待つ犬のように、彼はかれこれ三日もこの広場で無為な時間を過ごしている。

 皇帝陛下の城にいる限りは、インシャの身が危険に晒されることはないだろう。ガーランの懸念は他のところにあった。こうやって無駄に日数を浪費していると余計に、その「懸念」がすぐ背後に迫ってきているような気がする。

 ――何やってんだ。早く帰って来い、インシャ。

 ゆっくりとベンチの背にもたれて、ガーランは軽く両目を閉じた。

 

 

 

 三重の城壁と堀で守られた皇帝陛下の居城は、ルドス領主の屋敷とは比べようもないほど大きく、壮麗だった。

 異なっているのは、その器だけではない。門番、立ち番、警邏、そのどれもが見事なまでに訓練され、統制されていた。それに比べて、ルドス騎士団のなんと貧相なこと。

 これが首都と州都の違いなのだろう。そして、征服者と被征服者との立場の違いでもある。インシャはそう結論づけながらも、少しだけ負け惜しみめいた考えを浮かべていた。ルドス騎士団ではなく我々ルドス警備隊ならば、近衛兵の足元ぐらいには手が届くかもしれない、と。

 そこまで考えて、インシャはいつになく大きな溜め息をついた。

 ――ああ、そうだ、もう私は警備隊員ではなかったのだ。

 この胸の痛みは、仕事半ばで隊を離れたおのれの無責任さに由来するものだろう、と、インシャは無理矢理に決めつけた。そう、決してあの人との別離のせいでは、ない。

 

 第三城壁の北東の角、白い漆喰で飾られた塔の三階の部屋で、インシャはひたすら時間を持て余していた。

 城に上がったインシャは、門番の指示どおり「緑の塔」という建物に向かった。その控えの間とやらで待つこと一時(いつとき)半、やがて現れた使いの者にこの部屋に案内されて、以来三日。

「生憎と、陛下はただ今ご多忙につきまして、もうしばらくお待ちください」

 少し装飾の目立つ式服を着用した近衛兵は、丁寧な態度でインシャにそう言った。その瞳がどこか虚ろなのが気になったが、近衛兵は近衛兵でも、小間使い的な役割を担う立場なのだろう。華美な服装に中身が伴わないというのは、よくある話だ、とインシャは密かに納得した。

 インシャにあてがわれた部屋は、二間続きの客間だった。見たこともない豪華な調度品に囲まれて、彼女は酷く落ち着かない心地だった。三食欠かさず運ばれる食事も、どのような食材をどのように調理したものか想像できないほど繊細且つ複雑な味で、最低限のテーブルマナーしか知らないインシャは、同席者がいないことに心の底から安堵したものだった。

 ふと、おのれの手を見る。

 ここは自分のような人間がいる場所ではない。

 片田舎の、地図にさえ載っていないような寒村の貧しい家に生まれて、戦争で家族を亡くし、ルドスの親戚に引き取られた。初等学校こそ通わせてはもらえたものの、卒業と同時に援助は打ち切られ、それからは自らの手で人生を切り拓いてきた。

 犯罪や売春に手を染めなかったのは、単に運が良かっただけのことだ。癒やしの術がなければ、自分のような身寄りの無い小娘は、おそらくは社会の底辺に沈んだきりだっただろう。そして、ルドス警備隊に入ることも叶わなかったはず……。

 窓から差し込む陽光に、レースのカーテンが輝いている。このカーテンを作り上げるのに、一体何人の職人が何日を費やしたのだろうか。

 ――異世界、だ。

 そう、まさしく世界が違うのだ。インシャは大きく溜め息をついた。警備隊という特殊な環境の中で、うっかり失念しかけてしまっていた。彼女と彼とでは、属している世界が異なっているということに。

 彼の屋敷でも、きっとこんなカーテンが窓を飾っていることだろう。寝台も、長椅子も、雲のように柔らかで、家具の表は磨かれ、金具は黄金色に輝き……、そして、何人もの使用人が彼に(かしず)き……。

 インシャは一瞬だけ目を潤ませた。これで良かったのだ、と。自分には自分の道がある。決してあの人とは重ならない道が。

 ――そうだ、いつまでもガーランの好意に甘えているわけにもいかない。

 苦笑を頬に刻んで、インシャは独りごちた。こんな馬鹿な女を守るだなんて、そう言って黙ってついてくるなんて、……本当に馬鹿なんだから。

「でも……、馬鹿には馬鹿がお似合いかもね」

 声に出してみると、思いのほか気持ちがさっぱりとしたような気がした。

 ――皇帝陛下から新しい任地を承ったら、彼に訊いてみよう。本当に私でも良いのか、と。本当にこれからも一緒にいてくれるのか、と。

 インシャが決意新たに窓の外を見やった、その時、部屋の扉をノックの音が静かに震わせた。

 

 

「ようこそ、我が城へ。インシャ・アラハン殿」

 二ヶ月前に(まみ)えた(たっと)き御方、その彼と瓜二つの人物がそこに立っていた。

 だが、気配が違う。冴え渡る月の光のような双子の兄とは違って、目の前に立つ弟は、例えるならばうららかな春の光のような、そんな柔らかな雰囲気を身に纏っていた。

「いえ、インシャ、とお呼びしてもよろしいでしょうか」

 黄金もかくや、下ろされた前髪が煌びやかに彼の額を飾っている。桜色の唇がそっと綻んで、眩いばかりの笑顔を作り上げた。日の光を受けて彼の灰色の瞳が鏡のように輝いている。

 ――なんて……美しい。

 インシャはひれ伏すことも忘れて、ただその場に立ち尽くしていた。

 そんな無礼に頓着する様子もなく、セイジュはゆっくりと部屋の中へと入ってきた。そのまま真っ直ぐインシャの至近までやってくると、優雅な動きでインシャの右手をとり、その甲に口づけをした。

「お会いできて光栄です、インシャ」

 とろけるように甘い笑みが、インシャに注がれる。それはまるで純度の高いアルコールのように、彼女の身体中にあっという間に染み渡っていった。

 身体の奥底から熱気が溢れ出す。身動き一つできない。

 

 セイジュの瞳が、インシャの脳裏で切れ長の濃紺の瞳と重なった。

 褐色の前髪の下から覗く、妖しい光を湛えたあの瞳。

 

 ――いや、違う。あの人は、もっと直接的に私の心を煽り立てていた。

 じわじわと心を侵食していくこの感覚に、インシャは憶えがあった。あれは一体いつのことだったか。インシャは必死でおのれの記憶を探る……。

 大きく息を呑み、インシャは両手を思いっきり握り締めた。二年ほど前に、暴漢に魅了の魔術を施術されかけたことを思い出したのだ。だが、あの時彼女を助けてくれた仲間は、今ここにはいない。インシャは必死に手のひらに爪を立て、その痛みで意識を此岸へ引き戻そうとする。

 セイジュの目が、つい、と細められた。先刻までとは幾分低い囁き声が、彼の口から漏れる。

「流石は百戦錬磨の警備隊員。安穏たる教会勤めとは違うというわけか」

 セイジュが、長くしなやかな指をインシャの顎にかけた。

「我が『魅了』にここまで抗うことができようとは思っていなかった。技能の不足を凌ぐ充分な奥行きと、経験。素晴らしい」

 セイジュの左手が、インシャの腰にまわされる。同時に、顎に添えられた右手に力が込められ、インシャはやや上方を向かせられた。

「……なるほど。君になら収まりそうだ」

 ――何故、セイジュ帝が私にこんな術を。いや、そもそも……

「諦めることだ。全てを我に委ねるが良い」

 インシャの眼前に、美しい白磁の(おもて)がゆっくりと近づいてくる。

 そして、驚くほどに冷たい感触が、そっと唇に触れた。

 

 ――そもそも、魔術を使えるのは、弟帝ではなく…………

 

「お前はもう、私のものだ」

 インシャの意識は、昏い大きな波に飲み込まれてしまった。

 

 

 

「隣に座っても構いませんか?」

 広場のベンチに座ったまま、ついうっかりうたた寝をしていたガーランは、寝ぼけ眼を擦りながら、慌てて「どうぞ」と身を起こした。

 ぼやける視界の中、広場のあちこちにあるベンチは空席のままだ。

 ガーランは一瞬首をひねった。

 ややあって、思い当たる。丁寧で柔らかい口調に誤魔化されてしまっていたが、この声は……!

「た、たたた隊長!」

 自分の横に座ったのが、他でもない、エセル・サベイジその人であることに気がついて、ガーランは思わずベンチから三歩ほど飛びずさった。

「随分な反応だな」

「ま、ままままさか」

「落ち着け。なんだ、その態度は。追いかけてほしくて、あんなに私を焚きつけたのだろう?」

 エセルの浮かべた不敵な笑みに、ガーランはつい眉を寄せた。

 帝都到着以来ずっとガーランを苛んでいた懸念が、まさしく今現実となってしまった。彼は、エセルがインシャを取り戻すべく自分達を追いかけてくるのではないかと、気が気ではなかったのだ。

 ――だから、こんなところでいつまでもぐずぐずしたくなかったんだ。

 だが、湧き上がる悔しさとは別に、ガーランの胸には熱い塊が込み上げてきていた。誉あるルドス警備隊の隊長。彼はやはり、この俺が思ったとおりの男だった、と。

 相克する二つの感情に翻弄され無言で立ち尽くすガーランを、満足そうな顔でたっぷりと見物したのち、エセルが懐から一通の封書を取り出した。

「除隊届けだ。もう、隊長などとは呼ぶな。エセル、で良い。ここから先は、私がインシャと行く」

 ガーランは、その一瞬自分の顎が外れるんじゃないかと思った。

 一呼吸のちに慌てて口を閉じ、それからエセルに掴みかからんばかりに問いかける。

「ま、待ってくれ、隊長。いや、確かに焚きつけたのは確かだけれど、それにしても、イキナリそれはないだろう? 仮にも隊長の役にある者が、そんな簡単に無責任に、辞める、なんて……」

「無責任の(そし)りは甘んじて受けるさ。だが、一応代わりの者の推薦状も同封してある」

「代わり?」

「と、いうわけで、あとは頼んだぞ、ガーラン・リント。無爵位の隊長は帝国初なのじゃないかな」

 今度こそ、顎が外れたに違いない。ガーランは大きく口を開けたまま硬直してしまっていた。

「さて。書類を提出しに行ってくるかな。ところでガーラン、インシャはどこだ?」

「…………まてまてまて、隊長、」

「エセルだ。くれぐれも家名では呼ぶなよ。隊の序列から離れた以上は、我らは友人だろう?」

「……んじゃ、……エセル。なんか呼びづれぇな……。って、違ーう! そんなことが言いたいのじゃなくて、隊……エセル!」

「だから、何だ」

「インシャと行く、って、アンタ一応公爵家の一員だろ? その辺りの色々はどうすんだよ!」

 自嘲に似た笑みを浮かべて、エセルがガーランを見上げた。

「二度と屋敷の敷居を跨ぐな、ということだそうだ。要するに勘当だな」

「はぁ?」

「これまでの蓄えもあるから、当分は問題ない。その先についても、贅沢さえしなければ、用心棒なり剣の指南なり、食い扶持はなんとでもなるだろう。なに、張り込みの時の不自由さが年中続くと思えば良いわけだ。どうしてこんなことにすぐに気がつかなかったんだろうな。さっさとこうしておけば、インシャにつらい思いをさせることもなかったのに」

 ――なんて、極端な人なんだ。ここまで開き直りの激しい性格だとは思っていなかった。

 ガーランは呆れるのを通り越して、何も言えずにただ口をパクパクとさせるのみだ。

「帝都まで、サベイジの名を捨てての初めての一人旅、確かにこれまでに比べて随分と不自由ではあったが、苦痛というほどではなかったぞ。どうだ? これで及第点か?」

 そう言って、エセルも立ち上がった。清清しさすら感じさせる瞳で、ガーランの目を真っ向から覗き込んだ。

「インシャを返してもらうぞ」

 

 ごくり、と鳴ったのが自分の喉だと解ったのは、数秒のちだった。ガーランは必死で我を手繰り寄せ、息を呑んで姿勢を正す。

「待てよ、た……エセル」

「なんだ」

「……アンタは、俺の見込んだとおりの男だった。心底嬉しいと思うぜ。だがな、だからといって、はいそうですか、とインシャを渡す気にはなれねえな」

「何故だ」

 ガーランは視線を足元に落とした。

「……俺だって、アンタに負けないぐらい、インシャのことを想っている。入隊試験の時、彼女を初めて見た時から……アンタが彼女に酷い仕打ちをし続けている間も……ずっと……ずっと、想ってたさ。本当に、好きだったんだ……。

 俺とアンタと何が違ったのか、何度も考えた。出た結論は、こうだ。アンタが先に手を出したからに違いない、と。今でも俺はそう確信している。俺が先だったなら、彼女の心は俺に向いたはずだ、とな。

 アンタは無理矢理に彼女をモノにした。俺にはそれができなかった。だがな、この一ヶ月、一緒に旅をしていて、彼女の目は俺のほうを向いてくれるようになった。まんざらでもない様子だって、見せてくれるようになったんだ」

 エセルの眉が、微かにひそめられる。

「俺にだって、チャンスがまわってきたんだ。そうだろ?」

「だから、譲れ、とでも言うつもりなのか」

「そうじゃない。インシャのいないこんなところで、俺達二人で言い合っていても、何も意味がないって言いたいんだ」

 そう言って、ガーランは真摯な碧い瞳を、真っ直ぐにエセルに向けた。

「彼女に選んでもらおう。俺か、アンタか。彼女の言葉に、俺は従う」

 

 

 しばしの沈黙ののち、エセルが冷ややかな目で一言言い放った。

「馬鹿か」

「……ば……!?」

「今までも時々、馬鹿だな、と思う時があったが、これほどまでに馬鹿だとは思わなかった」

「な……っ!」

「考えてもみろ。あのインシャのことだ。私とお前とどちらを選ぶ、などと問われて、私を選ぶわけがなかろう。彼女を選ぶことで失うものの大きさの比は、私とお前とでは比べるべくもないからな。自己評価の厳しいインシャなら、『私はガーランと行きます。隊長は公爵家へお戻りください』とか何とか言うに決まっている。そんな選び方をされても、お前は平気なのか」

 終わり良ければ、という言葉がガーランの喉元まで出かかった。

「肝心なのは、彼女が本当に欲しているのは誰か、ということだ。ガーラン、お前は一ヶ月一緒にいたのだろう? 今現在の彼女について私よりも熟知しているはずだ。違うか?」

 そこで、エセルは一度大きく息を継いだ。

「だから、私はお前にこそ問いたい。インシャが私を望んでいるのなら、私に返してくれ。彼女がお前を望んでいるのならば……」懐から封筒を取り出すと、エセルは目の前にゆっくりと掲げた。「……これはここで破いてしまおう」

 

 ――なんて奴だ。

 計算ずくなのか、それとも本心から真面目にそう思っているのか、エセルの表情はあくまでも硬く、ガーランには窺い知ることができない。

 エセルの言葉はガーランにとって、あまりにも正論で、あまりにも残酷だった。

 何よりもインシャの幸せを想っている、と。

 そして、ガーランの判断を信用している、と。

 その言葉は、ただこの二つのことだけを伝えていた。

 ――ずるいぞ、隊長。

 こんなことを言われてしまったら……、逃げ場が無くなってしまうじゃないか。ガーランはきつく下唇を噛んで、目を閉じた。

 ――インシャを自分のものにしたい。

 あの柔らかそうな肌に触れたい。抱きしめたい。甘い声でこの自分の名前を呼ばせたい。この旅の間に、ガーランは何度この蠱惑的な誘惑に屈しそうになったことか。

 そもそも、エセルの影に隠されてはいたが、ガーランもそれなりの数の武勇伝を持っていた。それが、一ヶ月の完全なる禁欲生活だ。それも手の届くところに想い人が居りながら。

 かつて隊長がそうしたように、自分も力ずくで彼女をものにすれば良い、と、そう囁く声に彼が従わなかったのは、一体何故だったのか。

 

 彼女が(おの)ずから求めてくるまでは。

 それは、意地だったのか、矜持だったのか。

 いや、それだけが理由じゃない。心がここにない女を無理矢理に抱いても、虚しいだけだからだ。

 そして何より、……彼女を傷つけたくなかったからだ。

 

「……俺の負けだ」

 ガーランは歯軋りののちに、そう吐き捨てた。

「今もインシャはアンタを想っている。言葉には出していないが、間違いないさ。ちくしょう、これで満足か!」

 顔を背けるガーランの背後で、エセルが静かに呟いた。

「……ガーラン、すまなかった。そして……、感謝する。心から」

「だーーーっ、うるせえ! ごちゃごちゃ言うな、馬鹿野郎! 解ったならさっさと行きやがれ! インシャは三日前から宮城だ!」

「分かった」

 足音が石畳の上を足早に遠ざかっていく。

 ガーランはがっくりとうなだれて、それからゆっくりとベンチの上に崩れ落ちた。

 

 

 


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