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黒の黄昏  作者: GB(那識あきら)
第九話  求める者、求められる者
35/72

二 錯綜

 

 

 

 物心ついた時から、自分と「外」の間には昏い川が流れていた。

 

 サベイジ家のご子息。

 家の外ではそれが自分の名に等しかった。学友は勿論、教師までもが自分をその名で呼んでいた。たとえ彼らの唇は真の名を紡ごうとも、その音の裏に潜む響きをエセルは決して聞き逃さなかった。

 そして、家ではまた別の名前がエセルに与えられていた。

 サベイジ家の「三番目」。

 二歳ずつ歳の離れた、二人の兄。家人の視線はその二人に集まっていた。そう、嫡男と、その「予備」。彼らが齢を重ねるにつれ、「予備」が必要となるリスクは減り続けていく。戦争が終わる頃には「予備」の「予備」の存在価値などないに等しかった。

 

 人々の視線は、常に自分をすり抜けて背後の何かに向けられていた。誰も……親ですら、自分を取り巻く昏い流れに踏み込んでは来なかった。

 

 

 エセルが十七の年に戦争は終わり、生家は帝都からルドスに居を移した。

 身分制度と古い因習に囚われた都からの脱出。新しい土地ならば、自分はこの形のないくびきから逃れることができるかもしれない、エセルはそう期待した。

 だが、ルドスは既に名実ともに帝国領の街であった。結局ここでも自分は自分になりきることができなかった。

 ――家を出るんだ。いつか、きっと。

 父親が望んだ法律学校を蹴り、エセルは剣術の道を選んだ。まだ躊躇いがちだったその決心も、三男の行く末を案じるよりも、自分の命に従わなかったことにのみ怒る父親の態度によって、確固たるものと化した。

 独りでも生きていける力を求めて、彼はがむしゃらに鍛錬を続けた。三年も経つ頃には、エセルの腕前は万人の知るところとなっていた。皇帝陛下から任命状を下され、ルドス警備隊専任の隊員となったのが翌年。その更に翌年には隊長の任についた。

 だが、結局は「流石はサベイジ家のご子息」なのだ。その言葉には多分に棘が含まれている。兄弟子を打ち負かしても、師匠に認められても、帝国最年少で隊長に就任しても、それは全てエセルの力ではない、と。

 心の隙間は人肌で無理矢理埋めることにした。

 元々、エセル自身、情欲の強い性質だったのだろう。それも手伝って、彼のもう一つの武勇伝もほどなく人々の知るところとなる。

 肌を合わせ、官能に酔いしれるその瞬間だけは、相手は心からエセルの真の名を呼んでくれる。遂にエセルは他の誰でもない、エセル自身になることができた。

 本当に、その一瞬だけのことではあったが。

 

 

 

「どうして、こんな言いなりになっているんですか?」

 三階に足を踏み入れた途端、シキがインシャに問いかけてきた。

 先ほど、談話室でインシャに名前を呼ばれた時は、シキはもの言いたげな表情を浮かべただけで、何も聞こうとはしなかった。おそらく、人目を気にしてくれているのだろう。その心遣いが、インシャはとても嬉しかった。

「答えてくれるまで、私はここから動きません」

 真っ直ぐな視線が、インシャを射抜く。

 理不尽な呼び出しを無視することだってできたのに、シキはこうやって真正面からインシャに向き合ってくれている。こんな愚か者のことを、気にかけてくれている。申し訳なさで張り裂けそうな胸を押さえて、インシャは息をついた。唇を引き結び、大きく息を吸い、そうしてシキの目を見つめ返した。

「それは……、彼の命令、だから」

 シキが、目を見開く。

 インシャは、覚悟を決めた。

「彼が私を必要としている限り、私は彼の求めに応じるでしょう」

「え、まさか、でも……」

「そうね。女ならば誰だっていい、女と見れば見境なしの女ったらし。それでも、私は彼に惹かれている……。彼に見捨てられたくない。可笑しいでしょう」

 口にすればするほど、おのれの愚かさが身に突き刺さる。自嘲の笑みを浮かべるインシャに、シキが悲しそうに眉を寄せた。

「それでいいのですか? こんな、使い走りみたいなことさせられるのも、『必要にされている』ってことなんですか?」

 インシャが必死に目を背けていたものを、シキはいとも簡単に目の前に突きつけてくる。返す言葉もなく、ただ立ちすくむインシャの脳裏に、二日前の出来事が甦ってきた。

 

 二日前、宵闇に沈む資料室で、自分を呼ぶ鈴の音を聞いたインシャは、シキを残して三階のあの部屋を訪れた。

 皇帝陛下を襲った下手人がまだ見つかっていない状況で、エセルだけが帰所するとは、一体現場はどういう状況になっているのだろうか。しかも、執務室ではなくあの部屋の呼び鈴を鳴らすとは、一体どういうつもりなのだろうか。疑問に思いつつエセルの前に立ったインシャは、挨拶を口にする間もなく、エセルによって傍らの壁に押しつけられた。

 深い口づけに、条件反射のごとく応えてしまう自分が酷く情けなくなって、インシャは密かに拳を固めた。だがその一方で、胸の奥に熱いものがこみ上げてくる。ああ、今私は、求められているのだ、と。

「ふざけた話だ。何故、お前達が、あのぼんくらどもの責任まで背負わねばならぬのだ」

 口づけの合間に、エセルが吐き捨てた。こらえきれない鬱憤を晴らすかのように、彼の手つきが荒々しいものとなる。

 甘い痺れに全身を侵されそうになりながらも、インシャはなんとかおのれの職務を全うしようとした。

「どうされましたか、隊長」

「班別に仮眠を取らせようとしたら、却下された。使える人間が揃ってこその総員態勢だろう。消耗しきった兵に何の価値がある」

「では、何故、隊長は」

 ここにいるのですか、と続けるつもりが、嬌声を漏らしてしまい、インシャの体温がますます上がる。

 エセルが得意そうに笑う気配がした。

「少し仮眠を取りに、な。班別が駄目なのなら、代わりに騎士団組を叩き起こしてやる」

 また、深いキス。

 全身から力が抜けそうになるのを気力で耐えて、インシャは言葉を絞り出した。

「隊長、仮眠なさるのではなかったのですか?」

「構わん」

「でも、お身体を休めないと」

「このままでは、とても眠れそうにない」

「ですが、隊長」

 荒い息をおして反論を繰り返せば、ねっとりとした声が耳元にすり込まれた。

「……こういう時は名前で呼べと言っただろう」

 ぎり、とインシャは歯を食いしばった。これは、せめてもの抵抗なのだ。心のない情交に対する。そして――

「名前を呼んでくれ、インシャ」

 ――そして、私は、他の女達とは、違う、と……。

「……隊長、仮眠を」

 次の瞬間、舌打ちの音とともに、インシャは解放された。

 崩れ落ちそうな膝に力を込め、肩で息をしながら顔を上げたインシャを、ぎらつく瞳が出迎えた。

「……そうだ。シキをここへ連れてこい」

 思ってもいなかった言葉に、インシャは我が耳を疑った。

「隊長?」

「さっきは、途中で邪魔が入ったからな。続きといこう」

「馬鹿なことはおやめください!」

 語気を荒らげるインシャを見て、エセルが鼻で嗤った。

「妬いているのか?」

 選択肢のない答えを、インシャは静かに吐き出した。

「……いいえ」

「その割には、不満がありそうだな」

「彼女の意向にそぐわないかと思うからです」

 インシャの言葉を聞くや、エセルの頬に朱が入った。口元を歪ませ、尊大に言い放つ。

「命令だ、インシャ。シキをこの部屋へ連れてこい」

 

 あの時の記憶は、二日経ってもなお、インシャの胸をえぐり続けている。

「自分の価値をさげたくなくて、貴方を犠牲にしてしまった。私は本当にどうしようもない人間だわ」

 深く、深く息を吐き出して、インシャはシキを見つめた。

「ごめんなさい、シキ。談話室へ戻ってください。貴方がこれ以上つらい思いをする必要は、ありません」

「いえ、行かせてください」

 シキの言葉に、インシャは思わず息を詰める。

「隊長に話があるんです」

 強い光を宿した瞳が、真っ向からインシャを見返してきた。

 

 

「ご苦労だったな、インシャ」

 鷹揚な声が、インシャを出迎える。声の主は冷たい笑みを取り繕おうともせずに、ゆっくりと戸口のほうへ近づいてきた。

 無言で扉を閉めるインシャの横で、シキが大きく息を吸い込んだ。

「隊長がこんなに酷い人とは思わなかった! 副隊長の気持ちを利用して、こんな……」

 いきなりのシキの告発に、インシャは慌てふためいて彼女を振り返る。

 シキは、先刻見せたあの挑戦的な眼差しで、エセルにくってかかっていた。

「……インシャの気持ち?」

 エセルの顔からは、先ほどまでの皮肉ありげな表情がすっかり消えていた。しばし、真剣な眼差しでインシャを見つめ、それから静かに口を開く。

「どういうことだ?」

 インシャは、唇を噛みしめ横を向いた。

 エセルの瞳に、獰猛な獣のような光が宿る。彼の喉が大きく波打った。

「答えろ、インシャ・アラハン!」

「…………上司の命令に従うのが、部下の務めです」

 顔を背けたまま言葉を絞り出すインシャに、シキが驚きの表情もあらわに声を上げた。

「副隊長!」

「ふん」

 エセルの口元が、再び冷徹な笑いを刻んだ。先ほどまで熱を帯びていた彼の双眸はすっかり冷めて、まるで氷のようだった。

「流石は、優秀なる補佐役だ。命令一つで身体を開くかと思えば、可愛い後輩を人身御供にも差し出す、と」

「隊長!」

 シキが、憤怒の声とともにエセルに向かって、固めた拳を大きく振りかぶる。

 インシャは無我夢中でシキに追いすがった。

 

 意識を失ったシキを、インシャは壁際の長椅子に寝かせた。口の中で「ごめんなさい」と呟きながら、そっとシキの髪を手ですく。

 シキを止めなければ、と焦るあまり、インシャは反射的に呪文を唱えてしまったのだった。被術者を眠らせる「昏睡」の術を。

「このようなことは、私一人で充分でしょう」

 インシャは静かに立ち上がった。そうして、ゆっくりとエセルを振り返った。

「妬いているのか?」

 嘲るような表情を浮かべて、エセルが問う。

 一瞬、ほんの一瞬だけ、インシャは逡巡した。

 ――この人は、私に心など求めていないはずだ。でも……もしも……。もしかしたら……。

 

 いや、「はい」と答えたら……私は私の居場所を失ってしまう。その他大勢の女にだけは、使い捨ての愛人にだけは、なりたくない。

 

 インシャは、顔を上げると、一言「いいえ」と返答した。

「彼女が嫌がっているのに、強要するのはどうか、と申しているのです」

 嫉妬と罪悪感がない交ぜになった胸の内を悟られないように、インシャは抑揚を殺した声で続けた。

「エセル・サベイジは紳士ではなかったのですか?」

 眼差しに力を込めれば、エセルの唇が弧を描いた。捕り物において相手を捕縛した際に偶さか彼が見せる、支配者の笑み。

「紳士……か。つまり、合意の上でなら問題ない、と。そういうことなのだな、インシャ?」

 寝台に腰かけると、エセルは右手を前へ差し出した。手のひらを上へ向け、ゆっくりと獲物を招く。

「インシャ、来い」

「それは命令ですか?」

 半ば儀式のようにインシャが問いかける。

 エセルが口角を吊り上げた。

「そうだ、命令、だ」

 

 

 

 カツ、カツ、と規則正しい靴音が上階から降りてくる。やがて、その足音の主は、二階と三階の間の踊り場に姿を現した。

 袖のカフスをとめながら階段をくだってきたエセルは、二階の廊下に佇むガーランの姿を認めて立ち止まった。

「……いい加減にしろよ、隊長」

「何のことだ?」

 エセルは再び段を降り始める。進路を塞ぐように立つガーランを避けて、彼は二階の床に降り立った。

 平然と階下へ歩みを進めようとするエセルの前に、ガーランは再び立ち塞がる。上背のあるガーランに対して、エセルはその眼光で対抗した。

「俺達は、アンタのことを尊敬している。だから……頼むから、それを裏切らないでくれ」

「何のことか分からんな」

 静かにそう返すと、エセルは進路を変えた。靴音を響かせながら、二階の廊下を執務室のほうへと向かっていく。

「隊長!」

 ガーランの声が、ただ虚しく廊下に反響した……。

 

 

 


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