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黒の黄昏  作者: GB(那識あきら)
第三話  小さな秘密
13/72

四 裏切

 

 

 

 崩落から二日が経過した街道に、威勢の良いかけ声が何度もこだまする。町の男達が仕事の合間を見つけては、交代で復旧作業を行っているのだ。

 堆積する土砂や岩などのあまりの多さに作業が難航する中、今また大きな倒木が一つ、街道から一段下がった川べりへと落とされた。鈍い地響きに次いで、やや疲れたような歓声が早朝の空気を震わせる。

「なかなか片付かんなあ」

 道具を満載した引き車とともにエイモスが現場に現れた。右手に大きなツルハシを、左手にロープの束を掴んで、えっちらおっちら土の山を登る。

「よう、エイモスのダンナ、朝っぱらからえらく疲れてるみたいじゃねえか」

「昨晩、ちょっくら飲み過ぎてなぁ」

 そう言って、エイモスは土砂に突き刺さる倒木の根にロープをかけた。いざツルハシを手に構え、盛大に溜め息をつく。

「しっかし、こりゃ改めて見ると、とんでもねぇな。いっそ元通りにするのは諦めて、地ならしするほうがいいんじゃないか?」

「けどよ、これじゃ坂がキツいだろ? 馬車が通れないと意味がねぇぜ」

「いやいや、岩と木とをどかして、こっちとあっちの端っこを均せば、なんとかなるんじゃないか?」

「だけどよ……、ああ、先生!」

 馬具屋のドッジの視線を追ってエイモスが街道を見下ろせば、丁度馬から降り立ったロイ・タヴァーネスの姿があった。エイモスは申し訳なさそうに顔をしかめて、それから大声を張り上げる。

「先生、もう大丈夫なんですか?」

「面目ない。なんとか復活できたよ」

 ロイはそう涼しげに笑うと、エイモス達のいる所に悠然とやって来た。

「すまんかったです。シキちゃんに、先生は病気だって聞いていたのに、俺……」

「貴方が気に病むことではないですよ」

 ロイの言葉を聞いて、エイモスの顔がみるみる明るくなった。ロイが倒れたことに対して責任を感じていたのだろう、良かった良かった、と俄然張りきってツルハシをふるいだす。

「なあ、先生。こう、何か、ぱぱぱっと片付ける魔法って、ないもんですかね?」

 シャベルによりかかりながら溜め息をつくドッジの声に、ロイは苦笑を浮かべながら静かにかぶりを振った。

「申し訳ない。どちらかといえば、魔術師は壊すのが専門なんでね」

 そう言うと、彼は土砂の山を奥へと進んでいく。

「先生……?」

「少し探し物をね。気にしないでくれたまえ」

 崩落現場のほぼ中央に立つと、ロイは深呼吸をした。

 彼にとって、魔力を探知する術は決して難しいものではなかった。だが、その効果をこの谷全体に、更に地中にまで及ぼすためには、かなりの力を注がねばならないだろう。もう一度大きく息を吸って、ロイは両手をそっと身体の前に差し出した。

 すらりと長い指が魔術の印を空中に描き始める。呪文を詠唱する声が、まるで歌のように風に乗った。人々は皆作業の手を止め、固唾を呑んで、この微動だにしない大魔術師を見守った。一体今からここで何が起こるというのだろうか、と。

 

 ……何も、起こらなかった。

 ロイは掲げていた手を下ろすと、低く呟いた。

「……遮蔽箱が裏目に出たか」

 不測の事態を避けるべく、その「探し物」は魔力が外に漏れぬよう厳重に封されていたはずだった。それは他でもないロイ自身が要求したことであり、誰を恨むこともできない。

「……先生?」

 難しい顔で立ち尽くすロイに、エイモスがおずおずと声をかける。

「ああ、すまない。私の用は終わったよ、気にせず作業を続けてくれたまえ」

 怪訝そうに首をひねる一同に背を向けると、ロイはその場をあとにした。暗い瞳で。

 

 

 

 大きな欠伸とともに、レイはぼんやりする頭を振りながら板張りの床の上に起き上がった。寝起きの視界にむさ苦しい足の裏が飛び込んできて、思わず肩をがくりと落とす。

 母屋から短い渡り廊下を通った先にあるこの離れは、普段は体術や武術の稽古に使われる。家で一番広いこの部屋に、昨日、ご馳走を持参したご近所さん達が集まったのだった。

 賑やかな食事会は、いそいそと酒瓶を取り出す男衆のお蔭で、ほどなく騒がしい酒盛りと化し、女子供が苦笑とともに退席する頃には、どこから聞きつけたのか学校時代の友人連中も合流、それから最後の一人が沈没する明け方近くまで、夜通しの酒宴となったのだった。

 辺りを見まわせば、五人の男が酒瓶と一緒に寝息も高らかに転がっている。記憶を探っても、何人で飲んでいたのか、誰が途中で帰っていったのか良く解らない。硬い床のお陰ですっかりこわばった肩を回しながら、レイはやれやれと再度溜め息をついた。

 ――二人だけの甘い夜を過ごすはずだったのに。

 こいつらを追い出してから……と考えかけて、レイはすぐに諦めの表情で首を横に振った。治療院嫌いの師のことだ、多少の無理があろうと彼は午前中には帰ってくるだろう。この間のような窮地に立たされることだけは、レイは絶対に避けたかった。

 それに、自分にはどうしてもしなければならないことがある。目元に力を込めて、レイは一人頷いた。

 

 寝こける客達を部屋に残し、レイは厩へと向かった。ふと母屋を振り返れば、煙突から煙が青空を背景に細く立ちのぼっている。パンの焼ける香ばしい匂いにレイの腹が派手に鳴り響いた。おそらくシキは、律儀に六人の酔っ払いどもの分も朝食の用意をしているに違いない。

 再び恨めしそうに鳴く腹の虫を聞かなかったことにして、レイは静かに「疾走」を牽き出した。少し借りるぜ、と小さく厨房に向かって呟いて、軽やかに馬に跨る。そうしてそのまま、すぐ裏手の森へと分け入った。

 

 森は、ところどころその密度を変えながら、町の北側に広がっている。レイは、木々の合間の獣道を器用に辿りながら、真っ直ぐに東へと向かった。

 町を通り過ぎタジ川を越えた先は、昔から子供達の遊び場だ。丘の斜面を転がったり、森のほんの入り口を探険家気取りでうろついたり、レイ達も日が暮れるまで泥だらけになって辺りを走り回ったものだった。今も何人かの子供が丘で遊んでいるのを、木々の隙間から眺めつつ、レイは潅木の中を更に東へと進んだ。丘の向こう側を覆う、暗くて深い森のほうへと。

 町の人間が「東の森」と呼ぶそこは、子供達にとっては近寄ってはならない場所の一つだった。

 森そのものの大きさは大した規模ではない。街道沿いに歩けば、二時(ふたとき)もかからずに迂回することができる、その程度の森なのだ。だが、昼なお暗く生い茂った木々は、人々の侵入を拒まんばかりに幾重にも枝を絡ませている。下草も人の背丈を越える勢いで道を塞ぎ、猟師でさえこの森に踏み入るのを敬遠しているという。

 レイはその禁断の森の入り口に馬を結わえると、静かに緑の壁の中に入り込んでいった。

 

 初めてこの森に足を踏み入れたのは何時のことだったか。

 子供にありがちな冒険心と功名心から、レイは「東の森」に挑んだのだった。背負い袋にパンと水筒とナイフを入れて。なにしろ、相手は大人だって入らない闇の森、そこを探検したとなれば、自分も一躍「英雄」の仲間入りだ。

 ところが、そうは簡単にはいかなかった。ちょっとだけ中を探検して、適当な木の枝を戦利品にして、そしてすぐに帰るつもりだったのに、道に迷ってしまったレイは、出口を探して必死に森の中を彷徨い続けた。

 覆いかぶさる木々の葉の隙間、頭上に僅かに見える空が茜色に染まっている。レイの瞼の裏に、麦畑に沈む真っ赤な夕日がよぎった。宝石のようにきらきらと光り輝く空は、無情にもやがて静かに色褪せていくのだ。金色から朱へ、そうして藍色へ……。暗黒が町を呑み込む頃には、この森も完全なる闇に閉ざされることだろう。すぐ近くに山犬の遠吠えを聞き、レイの目に絶望の色が入った。

 もう、帰れないんだ。そう考えたレイの胸が、張り裂けそうに熱くなる。言いつけを破って禁忌の森に立ち入ったばかりに、おれはここで死んでしまうのだ。母さんや、父さんにも会えないままに……。

 その刹那、すぐ脇の草むらが、がさり、と揺れて、レイはもう少しで絶叫するところだった。

「見ぃつけた! あれ? レイ、泣いてるの?」

 シキが、目をしばたたかせながら葉の陰から顔を覗かせていた。しばし言葉もなく立ち尽くしていたレイは、はっと我に返ると大慌てで目元を袖口で拭った。

「な、なんだよ、目にごみが入っただけだぞ! それよりなんでおまえがここにいるんだよ、シキ!」

「レイを探しに来たんだよ。早く帰らないと、東の森に入ったのがレイのお母さんにばれちゃうよ」

 悪戯っぽい表情でシキはそう言って、レイの手をしっかりと掴んだ。

「こっちだよ」

 まるで町角を歩くかのように、軽やかな足取りでシキがレイを先導する。薄暗さを増した森の中、シキの周りだけが何故か光り輝いているように、レイには見えた。

 

 ――で、結局、あのあと母さんに大目玉とげんこつを喰らって、一週間外出禁止を言い渡されたんだよなー。

 遠くを見つめる眼差しで、レイは森の中を見渡した。口止めしておいたはずの悪友達は、なかなか戻らないレイに不安を感じるや、まずシキに、それからレイの母に、ペラペラと彼の探検について喋ってしまったのだった。母に怒られるのは自業自得とはいえ、探検のことを母に告げ口されないように内緒にしていたシキに助けられたというのは、少し……いや、かなり情けなさ過ぎる。

 過ぎし日々に、ふぅ、と溜め息をついて、レイは再び前へと進み始めた。

 あの時、お前はどうして迷わないんだ、と問うたレイに、シキは「木が教えてくれたから」と笑って言った。

「なんとなく、だけどね。うれしいなーとか、いやだなーとか、そんな声みたいなのが聞こえてくるんだよ」

 そう言ってシキは木の幹に耳をつけた。「うるさいなーって困っている木をね、たどって歩いたら、レイがみつかったんだ」

 シキの母親は植物の精霊使いだった。その能力(ちから)で彼女は季節を読み、農作業に一番良い時期を皆に教えてくれたものだった。庭はいつも色とりどりの花が満開で、夏になると、びっくりするぐらいに大きな向日葵が、誇らしげに背筋を伸ばして風にそよいでいたのを覚えている。シキは、そんな母の才能を受け継いでいたのだろう。

 以来、東の森は二人の秘密の遊び場になった。シキの道案内で、レイも少しずつ森の様子を把握していった。もともと方向感覚には自信があっただけに、彼は少しずつ慎重に行動範囲を広げ、遂には自分一人でも森の奥まで入り込むことができるようになっていた。

 やがて時は流れ、戦争を経て、二人を取り巻く環境は大きく変化していった。歳を重ねるごとに日々の諸々に追われ、シキの口からこの森の話が出ることもなくなった。

 だが、レイにとって、ここは過ぎ去りし場所ではない。

 張り出した木の根を跨ぎ深い草むらをかき分けながら、レイは森の中心へと向かっていった。その脳裏には、三日前のサランでの出来事が浮かび上がっていた。

 

 

「月の剣」と名乗る男に続いて、レイは簡素な木の扉をくぐった。ランプの頼りなげな光に照らされた室内には、寝台の他にテーブルと二脚の椅子が備えられていた。洋服掛けには年季の入った外套、寝台の脇の窓の下には子供の背丈ほどもありそうな大きな背嚢。他には彼の私物は見あたらない。

 男はランプをテーブルの上に置くと、その大きな荷物を実に軽々と持ち上げて寝台の上に乗せた。鞄の口をとめているベルトを外しながら、棒のようにつっ立つレイに一瞥を投げる。

「座ったらどうだ」

「いや、このままでいい」

 固辞するレイに、男は低い声で言い放った。

「そこに立たれるのは落ち着かない。座れ」

「……あ、ああ、分かったよ」

 凄みのある眼差しに射抜かれて、レイはどぎまぎしながら頷いた。言われたとおりに木の椅子に腰かけ、外套のフードを脱いだ。

 その間も男は、皮製の背嚢から取り出した荷物を、黙々と寝台の上に並べていく。衣料や食料などの小包から窺える、見事な荷造りの技からも、男が旅慣れているということがまざまざと見てとれた。

「もしかして、もうすっかり荷造りしてしまっていたとか」

「ああ。もう来ないとばかり思っていた」

 容赦なく投げられる言葉に、ついレイの口から溜め息が漏れた。

「随分とお急ぎのようで」

「ややこしい条件を幾つも呑んでやったんだ。これ以上ずるずると付き合わされるのはごめんだからな」

 そう言うと、男は鞄の奥底から掘り出した一つの箱を手に振り向いた。

「心配しなくとも、一度約束した品を他へ回すことはしない。二月後に俺が店に帰った時に、改めて取引すれば良い。お前の師匠にもそう言っておいたはずなのだが」

「……勘弁してくれよ、先生……」

 がっくりと頭を抱えるレイに片眉を上げてみせて、男もテーブルについた。装飾一つ無い灰色の箱を机の上に置き、ややあって両眉を大きく跳ね上げた。

「漆黒の髪……」

「なんだよ、俺の髪の色に何か文句あんのか?」

 男はしばし身動きもせずに目を見開いていたが、やがて大きく肩を落とすと、再び悠然と椅子に背もたれた。

「なるほど。そういうことか」

「何が『そういうこと』なんだよ」

 レイは精一杯の気迫を込めて男を睨みつけた。だが、男は微塵も怯んだ様子もなく、何事も無かったかのように、手元の箱をレイのほうにゆっくりと押し出してきた。

「……これが君達の師匠から頼まれた品物だ」

 しばらくの間、二人はその箱を挟んで無言で対峙した。燃えるような眼差しを投げつけるレイに対して、男はあくまでも静かに、まるで淵のような深い瞳で、全てを呑み込んでいく……。

 最初に根負けしたのは、レイのほうだった。小さく舌打ちしてから、彼は不貞腐れた表情で灰色の箱に手を伸ばした。これ見よがしな嘆息とともにそれを手元に引き寄せる。

「これで取引は完了だ」

 有無を言わせぬ口調で話を打ち切る男を、恨めしそうにねめつけてから、レイはそっと箱を持ち上げた。

「……重いな。本……、かな?」

「守秘も条件の一つなんでな」

 そっけない男の態度に、もはやレイは肩をすくめることしかできなかった。流石はあの師匠の知り合いだ、と。類は友を呼ぶと言うべきか、傍若無人に我が道を突き進む変人がこの世に複数存在するという事実に、レイは頭痛すら覚えていた。

「……じゃあ、もう俺は帰ってもいいんだな」

「ああ」

 客を見送るどころか立ち上がる素振りさえ見せない男に、諦観の眼差しを投げかけて、レイは扉へと向かった。受け取った品物を小脇に抱え、ドアノブに手をかけたところで、ふとレイは動きを止めた。

「あれも売り物?」

 レイの視線を辿って、男が寝台を振り返る。そこには一振りの大きな剣が、背嚢の陰に隠れるようにして置かれていた。

「違う」

「だろうね」

 どう見てもこの男には、商人よりも剣士という肩書きのほうが遥かにしっくり来る。レイは黙ってこの謎の男を見つめた。そもそも、この取引に関わる師の態度からして、不可思議なことだらけなのだ。

 何故、イを取引の場に使わなかったのか。

 何故、こんなにも急がなければならなかったのか。

 そして、こいつは一体何者なのか……。

「度を過ぎた好奇心は、身を滅ぼすぞ」

 まるでレイの心を読んだかのように、男は凄みのある笑いを口元に浮かべた。そうして、椅子から立ち上がると、寝台へと向かった。

 何が行われようとしているのか、レイの胸中に不吉な予感が押し寄せてくる。だが、彼は身動き一つとることができなかった。

「月の剣」の通り名を持つ男は、空の背嚢を乱暴に払いのけると、片手でいとも軽々とその大剣を持ち上げた。そのままレイを振り向いて、ゆっくりと鞘から刀身を抜いた。

 その瞬間、稲妻が辺りに閃いた、ようにレイは感じた。手首をついと返すだけの僅かな動きにもかかわらず、男の手元から閃光がほとばしるようだった。その光はレイの眼底に深々と突き刺さり、更には頭の奥深くまでを焼き尽くしていくように思えた。

 レイの額に、汗の玉が生まれた。悲鳴を上げてこの場から逃げ出したい衝動に駆られながら、レイは必死で男を見つめ続けた。視線を外してしまったら最後だと、おのれに言い聞かせて。

「だが、好奇心がなければ、世界は閉じたままだ」

 横目でレイを見て、男は口元だけで笑った。それから彼は剣を握った右手を真っ直ぐにレイに向かって突き出した。

「ふん。肝が据わっているな」

 鼻先一尺に静止する切っ先を直視し続けることができず、とうとうレイは視線を逸らせた。悔しさで胸の奥がずしりと重くなった。

「これは、俺がかつて東の砂漠の遺跡で見つけたものだ。見ろ、この見事なまでに鍛え上げられた刃を。何度も俺の命を守ってくれた、最高の相棒だ」

 そう言って、男は剣を手元に引いた。慎重な手つきでそっと刃をランプの光にかざし、満足そうに目を細める。

 男を守り、幾たびも血路を切り開いてきたという大剣。だが、その刀身が放つ輝きは、禍々しいと言うよりもむしろ神々しいと言うべきものであった。そこに微かな魔術の気配を感じて、レイは思わず息を呑んだ。

 剣に魔術の力を与えることで、その威力を増さらせたり、刃こぼれを減らしたり、「盾」の呪文に対抗させたりすることができるのは、レイも知っている。だが、この剣が纏う術は、術師がそうやってあとから刃に付与したようなものではなかった。どのような業を使ったのかは解らないが、それは間違いなくこの剣自身にねり込められた未知なる「力」だった。

「我々の知らない、先人の智慧と技。そういったものを見つけ出すのが俺の仕事だ」

 ひらりと白銀を閃かせて、彼は剣を鞘に収めた。

 消耗しきった表情でレイが大きく息を吐くのを見て、男は少しだけ目元を緩ませる。そして、元あったように背嚢に剣を仕舞い込んだ。

「強大な力は、時に災厄を引き寄せる。人里では、これで充分だ」

 そう懐の短剣を示してから、男はあの深い眼差しをレイに向けた。

「役目を果たせ、若き魔術師よ。また会うこともあるだろう」

 咄嗟に言葉を返すこともできず、レイはぎくしゃくと男に向かってただ頭を下げた。

 

 階下の酒場に閂のかけられる音が、雨の音をぬって微かに響いてくる。

 しんしんとふけゆく夜の中、レイは自分にあてがわれた部屋でまんじりともせずに、寝台に腰かけていた。腕を組み、難しい表情で見つめるのは、目の前に置かれた例の箱である。

「月の剣」から預かったその箱は、魔術によってしっかりと封が成されていた。だが、封印以外に魔術の気配は微塵も感じられない。魔力を探知する術も無駄に終わり、レイは拍子抜けした表情で寝台の上に仰向けに倒れ込んだ。

 ――てっきり、魔術関係の何かだと思っていたんだけどな。

 剣士と見まがう古物商の正体は、いにしえの宝を求めてさすらう探索者だった。対する依頼主が帝国一の大魔術師とくれば、箱の中身は生半可なものではないはずだった。

 そこまで考えたところで、レイはふとある事を思い出した。世の中には、魔力を通さない金属(かね)が稀少ながら存在するらしいということを。この箱は、その金属で作られたものではないだろうか。

 それで全ての辻褄が合う、レイはそう思った。とにかくこの件についてはおかしなことが多過ぎる。師匠の執着ぶりも、厳重に隠された使いの内容も。

 大きな溜め息とともに、レイは寝台の上に起き上がった。険しい眼差しで、灰色の箱を見つめる。

 ――魔術による封印を、物理的にこじ開けることは不可能だろう。だが……。

 レイは、生唾を飲み込みながら、静かに印を結んだ。空中に描くのは、「封印解除」の呪文。彼がまだ習得していないはずの、第七位の術である。

 レイはしばらく前から、位や系統を無視して自分の好みを優先に呪文を自習していた。例えば、「探知」よりも「幻覚」を、「解読」よりも「封印解除」を。独学ゆえ、変則的ゆえに、習得には多大な努力を必要としたが、レイはとても充実していた。あのシキも知らない呪文を、この自分が使うことができるのだ。そして、そのことはシキは勿論、先生だって知らない……。

 レイが呪文の詠唱を終えると同時に、箱の蓋が軽く浮き上がった。

 

 

「東の森」のほぼ中央に、レイだけが知っている小さな洞がある。

 洞の入り口は、這わなければならないほど狭いが、すぐ中は大人が二人並んで立てるぐらいの広さがあった。一丈ほど奥で行き止まりになっている、この小さな「部屋」は、レイの秘密基地だった。

「灯明」の呪文とともに、洞内がほの明るく浮かび上がった。机代わりの大きな石の上には、あの灰色の箱が置いてある。レイは神妙な顔でその蓋を開けた。

 

 

 あの時、サランの宿で蓋を開けた時も、魔力の気配がレイの顔面を打った。唾を嚥下しながら箱を覗き込めば、一冊の古ぼけた本がすっぽりと中に収まっていた。

 呪文書だ。立ちのぼる「気」からそう直感してレイは息を呑んだ。

 そっと手に取れば、古書独特の埃っぽい臭いがレイの鼻腔をくすぐった。相当年代ものの本にもかかわらず、しっかりした装丁に綻びは見あたらなかった。レイはおそるおそるページを開いた。

 そもそも呪文書というものは、記述が非常に難解である。術を構成する要素とその組成式、力の配分、起動のための手順、それらが古代ルドス語で書かれているのが普通だ。かつてこの世界を統べたと謂われるルドス王国の、今は失われし秘技を現代に伝えるもの――それら書物に残された魔術は、綴られている言語の名前をとって、古代ルドス魔術と総称されている。

 ページを読み進めていたレイの眉が、ふと、ひそめられた。

 訥々と単語を追う限り、確かにこの本は呪文書のようだった。だが、どうにも少し勝手が違う。彼がよく知っている古代ルドス魔術の呪文書とは異なって、信仰、という言葉があちこちに見られた。何より、そこには、シキが最近紐解き始めた「癒やしの術」の呪文書と同じ気配があった。

 癒やしの術とは、正確には「アシアス神神聖魔術」のことである。アシアス神の加護を受け、その力を発動させる神の言葉……。

 レイは、弾かれたように本を閉じると、表紙をもう一度ねめまわした。表がささくれだった皮紙に、微かに残る色褪せた筆致。ランプの光に目を凝らし、一文字一文字を解読していく。

『フォール神神聖魔術 III』

 フォール神、と、レイは口の中で繰り返した。

 ――異教。

 再びレイはページを繰り始めた。その手の動きが、どんどん早くなる。

 ――異教の呪文書。まさかそんなものが存在するとは。

 読み進めていくにつれ、不思議なことに文言が自然とレイの頭の中に流れ込んできた。フォール神……上位魔術……より複雑な大きな呪文……その特別な方法……。額の汗を拭いながらページをめくり続けるレイの手が、ふと、止まった。

『女……絆……保護……支配下に……』

 ぎり、と奥歯を噛み締めて、レイは拳を握り締めた。

「ロイ、てめえ、まさか……」

 

 レイは夜明け前にサランの町を出た。

 途中で街道を逸れ、彼は裏手から「東の森」へと入る。雨露に濡れる草をかき分けながら真っ直ぐこの洞を目指すと、中に呪文書を隠した。

 雨は依然として冷たく降りしきっていたが、彼の心は怒りのあまりに燃え立つようだった。身体の疲れさえ感じられないぐらいに。

 レイには、呪文書を盗むことに対する躊躇いも良心の呵責もなかった。この雨だ、足を滑らせてタジ川に落ちるということは、充分にありうる話だろう、そう彼は自分に言い聞かせた。荷物は流されてしまったとでも言えばいい。師匠の信頼? 信用? そんなもの、くそくらえだ。

「シキは俺のものだ。誰にも渡すものか」

 歯ぎしりをするように、レイが決意の言葉を漏らす。「誰にも……、ロイなんかに渡すものか」

 

 

 そして、あれから二日が経った。

 今、「東の森」の洞の中で、レイは再び呪文書を読んでいる。時の経過とともに、彼の頭も少しずつ冷静さを取り戻し始めていた。

 ――もしかしたら、早合点だったかもしれない。

 レイはきつく口を引き結び、心の中で呟いた。あんな短時間での拾い読み、流し読みで、正確な文意が読み取れるわけがない。きっと最初からよく読めば、全てがおのれの勘違いだったと分かるはずだ、と。そうなれば、すぐにこの本をロイに返すんだ。土砂の中から見つけたとでも言って……。

 ――とにかく、確かめることだ。はっきりさせるんだ。

 魔術の灯りの下で、レイは静かに呪文書のページを繰った。

 

 

 


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