晩秋の夜に
11月に入って、急に寒くなった。
今年は例年にない残暑が続き、季節が進んで涼しくなっても、思い出したように最高気温25度を超える日があった。そのためいつになってもダラダラと夏が続いている感覚で、秋が来たという気がしなかった。
だいたい、秋という季節が私にはよく分からなかった。夏は強烈な陽射しとまといつく湿度で、冬は潔い冷え込みと乾いた大気で、はっきりそれと分かる。また春は、卒業式があったり入学式があったり、社会人になってからは新年度の昇給や人事異動があるので、気分的に区切りがつく。
しかし秋は、気温も陽射しも不安定で、これといった行事もなく、毎年意識しない間に通り過ぎているようだった。
学生が体育祭や文化祭をやっている時期はまだ暑いし、街路樹が色づく季節はもう寒かったりするし――秋と呼ばれるのは正確にはどの期間なのだろうか。
私はもやもやと曖昧なのは嫌いなのだった。
それでもここ数日で肌で分かるほど空気が冷たくなって、街を歩く人々も厚手のジャケットやコートに身を包み始めたようだ。
私もその日、会社帰りに冬用の肌着を何枚か買い込んだ。空気を取り込むことによって繊維が発熱するという、機能性肌着だ。明日からこれを着て出勤するとしよう。
買い物したぶん、いつもより遅めの電車に乗る。乗車口はいつも同じ所に決めていた。
下りの電車は混んでいて、私はドア付近の吊革に掴まって立った。肩に掛けたトートバッグを身体に引き寄せる。
ドアが閉まりかけたその時、その隙間に肩を滑り込ませてきた人がいた。
その人はいったんドアに挟まれ、強引に抜け出したものだから、勢い余って車内に飛び込むような形になった。近くに立っていた私はその人とぶつかり、さっき買った肌着の袋がバッグから落ちた。
「あ、すいません」
サラリーマン風の若い男だ。大学を出て2、3年、私と同年代くらいか。
私は無言で袋を拾って、男から目を逸らした。周囲の乗客も迷惑そうに眉をひそめるものの、文句を言う者はいない。
挟まれを感知したドアは開閉を繰り返し、ようやくきちんと閉まって、電車が動き出した。
駆け込み乗車はおやめください、という車内アナウンスが流れたが、男は気にしたふうもなく、私の後ろで携帯をいじり始めた。
私も吊革に掴まったまま窓を眺めた。外はすでに真っ暗で、ガラスには疲れた表情の乗客たちが映っていた。
そんな中、背後の男が時折顔を上げて私のうなじ辺りを見ているのに、私は気づいていた。
自宅の最寄り駅でいつものように電車を降りて、自動改札を出る。
ここから独り暮らしのアパートまで、徒歩で15分ほど。今日は高めのハイヒールを履いていたので、もう少しかかってしまうかもしれない。
私は薄手のコートの襟元を合わせて、冷えた空気の中を歩き出した。
結構な人数が同じ駅で降りたが、駅前のちょっとした繁華街を抜けて住宅地に入る頃には、人影はすっかりまばらになっていた。戸建てと賃貸アパートの混在するごちゃごちゃした地域で、街灯は少ない。だから夜は遠回りをして広い道路を歩く人が多いのだった。
2ヶ月前、あんな事件があってからは特に――。
「…この辺って街灯少なくて暗いですよね」
ふいに話しかけられ、私は振り返った。
スーツ姿の若い男が笑みを浮かべている。電車の中で私にぶつかった男だ。
同じ駅で降り、同じ方向に歩いていたのは知っていた。斜め後ろに足音と気配がしていたので、そうじゃないかとは思っていた。
だがまさか声をかけてくるとは予想しておらず、私は反射的に身を引いて距離を取った。
彼は私の様子を窺うように首を傾けて、
「さっき、すいませんでいた。怪我しませんでした?」
と訊く。私は無意識にバッグを押さえて肯いた。
「大丈夫です。気にしないで下さい」
それだけ答えて、再び歩き出した。
彼も私に並んで歩く。ひょろりと背が高く、私とは20センチくらいの身長差があった。
「毎日この道帰ってるの? 危ないんじゃない?」
「慣れてますから」
馴れ馴れしい口調になってきた彼に、私は固い声を崩さなかった。電車でちょっとぶつかっただけの女に声をかけるなんて、下心か、もっとよからぬ企みがあるに違いない。もしかしてつけて来たのかも…。
彼は私の横にぴったり寄り添いながら、会話を続けようとした。初対面の私の警戒を解こうとしているみたいだ。
「でも危険だよ。俺もここいらに住んでるんだけどさ、前にほら、事件があったでしょ。駅の近くの路地で、女の人が殺されて」
「知ってます。9月と、それから6月にも似たような事件が」
私はサイレンのうるさかった夜を思い出して言った。
約2ヶ月前の9月初旬、駅前の繁華街の路地で、若い女性が殺されるという事件が起きていた。
被害者は26歳のOLで、鋭利な刃物で首筋を斬りつけられていた。彼女の住所は2駅隣だったらしいのだが、その夜はたまたま会社帰りに恋人に会うためこの駅で降りて、その自宅に行く途中に襲われたのだ。
いつまで待っても彼女が訪れず、電話にも出ないことをいぶかしんだ恋人が駅まで探しに出て、大通りから1本奥に入った路地裏で変わり果てた姿を発見した。辺りは血の海だったという。
それより3ヶ月ほど前の6月にも、同一犯と思われる殺人事件が、やはり駅の周辺で起こっていた。
19歳の専門学校生の女性が、人気のないコインパーキングの片隅で殺されているのが見つかったのだ。駅の改札を出て、パーキングにとめた自分の車に乗り込もうとしたところを襲われたらしい。発見は翌朝になってからだったが、犯行は深夜に行われていた。
ナイフか包丁で、おそらく背後から首を刺されており、雨上がりの濡れたアスファルトに大量の血痕が飛び散っていた――そう新聞で読んだ。
2件とも同じような手口、凶器が使われていることから、警察では同一犯と睨んでいるのだろう。しかし被害者2人には何の接点もなく、通り魔的な犯行ではないかとされている。
駅前には情報を求める立看板が設置され、監視カメラも増えたが、最初の事件から5ヶ月経過した現在もまだ犯人は逮捕されていない。住人たち、特に若い女性は警戒心を強め、暗くなってからジョギングや犬の散歩をする人はいなくなった。
みんな、遠回りをしても明るい道を通ろうとするのもそのためだ。
私は足早に歩きながら、男と距離を取ろうとした。
人懐っこそうな笑顔、肩から斜めかけにしたビジネスバッグは、一見まだ学生のように世慣れていない感じもするが、同時に手先の動きが神経質だ。さっきからせわしなくスーツの袖ボタンをいじっている。
ひんやりとした空気が、首筋を通ってゆく。
「ええと、何か私に用ですか?」
私はついてくる男に思い切ってそう訊いた。
すると彼は一瞬笑顔を強張らせて、
「い、いや、俺んちもこっちだから、ぶつかったお詫びに、せめて近くまで送ろうかと」
「ほんとに大丈夫ですから」
ナンパか、とも思う。だとすれば最悪のタイミングで声をかけたものだ。このシチュエーションで、喜んで応じる女がいたら顔を見てみたい。
彼は耳を掻いて、ジャケットの内側に右手を突っ込んだ。
「でも方向同じだからさ…あっ、べ、べつに変なこと考えてるわけじゃなくって、女の人のひとり歩きは危ないと思ったんだ」
「心配してくれるのはありがたいけど、普通こんな場所で声かけませんよ。逆に疑われますよ」
私は彼の右手を気にした。何やら内ポケットの中を探っているようだ。
「…通り魔なんじゃないかって」
口に出してから、胃の腑のあたりが冷たくなる。
周囲の家々から明かりは漏れているが、屋外に人影はなかった。
遠い街灯の光で、男の顔から笑みが消えるのが見て取れた。薄闇の中、細めに開いた両眼が宙を泳いでいる。
乾燥しているはずの晩秋の夜気が、じっとりと湿り気を帯びた気がした。
「お、俺がとっ、通り魔…?」
彼は妙に甲高い声でどもって、内ポケットの中で何かを握り締めた。
私は立ち止まって、1歩後退した。
今日は高いヒールを履いている。全力で走るのは難しい。
「な、なんでそういうこと言うかなあ…人がせっかく親切でさあ…」
彼は私に近寄ろうとはせず、ひどく動揺して呟いた。頬がみるみる紅潮していき、鼻の頭が汗で光るのが見えた。
嫌だもう、何なのこいつ! 私はうっかり会話してしまった自分を呪いながら、目の前の男に白い視線を送った。
私の嫌悪が伝わったのか、彼は右手をポケットから出した。
「じゃあいいよ、1人で帰れよ。思い上がんなよ、このブス!」
そうヒステリックに怒鳴って、足早にその場を去っていった。
右手に握ったハンカチで、顔中を拭いながら。
――私は全身の力が抜けて、地面にへたり込みそうになった。
極度の緊張がいっきに解けて、心臓が早鐘のように打っている。
何だったの、あれ…ただの小心者のナンパ男?
遠ざかっていくひょろりとした後ろ姿を眺めて、ようやく可笑しくなってきて、私は小さく笑った。
やっぱり相手にするんじゃなかった。言葉を交わすんじゃなかった。
私はしっかりと小脇に抱えていたトートバッグを探って、買った肌着の袋の下の、あるモノに手を伸ばした。
私はもやもやと曖昧なのは嫌いだ。
明瞭に線引きできないものは嫌いだ。
何となく暑かったり寒かったり、実態の知れない秋という季節が嫌いだ。
それと同じく、電車を遅らせ他の乗客に迷惑をかけて、飛び込んでくる駆け込み乗車の客が嫌いだ。
恋人に会いに行くからという理由で、混んだ電車の中で化粧をし、平気で他人の領域を侵す女が嫌いだ。
雨上がりに畳んだ傘を大きく振って歩き、他人にぶつかるかもという想像のできない学生が嫌いだ。
それらは全部ルールで規制されている罪ではない。マナーという恐ろしく自由度の高い社会契約に組み込まれているだけだ。
その曖昧さが私は最も嫌いだった。
結局、明瞭な線引きは自分でやるしかない。
狙っていたのは、私の方だった。
私は周囲に人がいないのを確かめて、大きく深呼吸した。
今日は高いヒールを履いている。全力で走るのは難しい。
――だから、あいつがあまり遠ざからないうちに済ませないと。
再び足早に歩き出した私の手で、ナイフの白刃が街灯の光を鈍く跳ね返した。
殺人の動機なんて他人には理解不能でも、本人の中じゃ筋が通ってるんでしょうね。
今時、どっかの監視カメラに映ってそうなものですが…。