群青
春になった。
ションジを連れて、小樽の食品工事に通い続けてきた。今日もとうとう前妻と会うことすら許されなかった。世の中には取り返しのつかぬことがある。その事実を胸に受けとめざるを得なかった。
食品工事の建物の裏を流れる小川の土手に、今日もションジは、うずくまっていた。彼を車に乗せ、札幌へと向かった。
「また来よう」
「したら、会ってくれるべなァ……」
「どうだべなァ……」
家族の前途がどうなるか、私にはこたえようがない問題だった。できることをするしかない。できることを……。
関根が死んだ報せを受けたのは、その午後のことである。帰宅して休んでいると、居候の一人が電話をかけてきた。
――ゆうべ、みんなでテレビ観てたら、突然苦しみだしてな。ニトロも効かなかった。遺体は自宅だ。他の奴も集まってている――。
ションジを連れて関根の家に車を走らせた。
途中、関根が最後に語った言葉を考え続けていた。
なさざるゆえの絶望と、なしたがゆえの絶望。誰もが関根のいう空間を今も漂っている。世の中に無駄な人間は一人もおらず、出会うべくして出会っている。ションジを天使と思え……。訳がわからなくなる。ギアーを切り換えアクセルを踏み込めだ。
快晴であった。
遠くが霞むほどの大量の植物の種子が、一本道を横切り、森から森へとゆるやかに流れていく。フロントガラスに迫ってきては、ふわりと舞いあがり、けっして車体と触れ合わない。
「今頃めずらしいな。いったい何の種だべ」
ションジが不思議がっている。
関根の家は駆けつけてきた人々で、ごったがえしていた。
和室にあがり周囲に礼をした後、正座して死に顔から白い布をそっと下ろした。絶望とは裏腹の安らぎに満ちた顔であった。
絶望したいと言っていたのに、関根は内心不本意だったのではないだろうか。
そんなふうに考えながら、泣きすがるションジを冷然と眺めていた。
仏壇はなかった。その代わりのように、枕側の壁に百号はあろうかと思われる油彩画が飾られていた。すぐ下に『群青』と書かれた画用紙が貼られている。
私の目は釘付けになった。
見つめたまま立ちあがり、見つめたまま死人の足側に移動した。つまずきそうになったが、「危ねえだろ」と言う男の視線すら、既に気にならなくなっていた。
空と水平線が渾然一体となった夜の海である。白に縁取られた暗黒が画面右上から左下に移るにつれ、しだいに濃い青へ、そして薄ら青い色へと変化していく。
人間の頭ほどの大きさの光の渦が、画面なかばの部分にジグザグに並んでいる。黄や緑、灰色や赤……。
様々な渦から発せられた光は煙のように漂い交錯しつつ流れ、狂ったような光線となり海に降り注ぐ。白く波打つ海面は左下の崖に近づくほど大きくうねり、怒涛となって打ち寄せる。
崖の縁ぎりぎりの所で、全体に比べあまりにも卑小な二本の松が、青く突き刺さる吹雪から互いを守るように身をよじらせ、幹や枝をからみちかせながらも、確かに根をはり、佇立していた。
『おれたちの色は青よ。青色が群れになって燃えている。だから群青』
青く燃えているのは人間だけではなかったのか。関根の言う空間も燃えているなら、例え死後があったとしても、我々に安息の時はないことになる。それなのに、あえて再び絶望したいと言った関根という男はいったい……。
私は息を呑んだ。
泣きすがるションジに揺られて、関根の表情が徐々に変わってきたのである。
僅かな笑みをたたえた口許や目尻があがり、顔全体がぎゅうっと絞りあげられ、かすかに眉間の皺が濃くなった。たった一、二分の間に関根の死顔は絶望へと豹変した。
ションジが驚き後ろにのけぞった。
和室の異変が伝わり、居間から男達が入ってきた。
私は瞑目した。
人々の声が消え、絵の中に迷い込み、私も空間を漂っていた。
光と音だけになる。
終