アル中の天使
翌日。
「歯欠けコンビだな」
と関根は笑った。
「これでマチオも一人前だ」なあおい、と奥の和室で談笑する男達を見やる。
「ションジにやられたんだべ」
そう一人が言えば、
「オヤジには負ける」
別の男が舌を出して首を竦めた。
円山から盤渓に抜ける一本道の道路ぞいに関根の仕事場兼用の自宅はあった。看板屋の彼は常時居候を数人かかえ、仕事を手伝わせたり出面取りの現場などに送り迎えしていた。
「それで、傷の方はどうだった」
「なあんも。ドカジャンとセーターのおかげで助かった。消毒して絆創膏はっといた。おれも病院いくほどでなかった」
包帯の手を叩いてみせた。
壁一面の書棚を背にしてひげを撫でる関根に以前から気になっていることを尋ねた。
「ところであんた、ほんとうのとこ、何歳なんだ?」
「おれかい?」
と気軽に笑い「いくつに見える?」
「そうだな。六十……」
「四十七よ」
やはりそうだった。何本か折れているなりに前歯の根元は生え揃っていた。関根のこれまでの来し方を思い、やりきれない心持ちとなり俯いた。
「なあマチオ」茶を勧めつつ、「実は医者からそろそろやばいって言われてる」胸に手を当て、「こいつとは騙し騙しつきあってきたんだが」
「……」
「気にすんな。死ぬことなんか怖かねえんだ。あれから十年、これでも他人のため、一生懸命に生きてきたつもりだ。あの絶望はもう来ねえ」
私は控え目に、
「今度は幸福に死ねる訳だ」
「それがな」額を中指でつつき、「今度もまた絶望してえんだ」指をひげに戻す。
「というと?」
「前は何もできなかった自分に絶望した。今度はこの十年以上、他人のために生きてきたがゆえに絶望したい。マチオ……この二つには大きな違いがあるんだぞォ」
目をつぶり腕を組んだ。
「今でもな。こうして目をつぶるとあの時の空間がうかんで来るんだ。こうやって生活している自分は実は仮のもんで、本当は生まれる前から、あそこを漂い続けて来たような来がする。今だっておれはここにゃ生きていねえ。ずっとあそこを流れてる」
「あんた熱でもあるのか」
関根は手を振り、
「マチオ、本当はお前やションジだって、ずっと流れてきたんだぞォ……」
死を間近に控えた男の錯乱。私はそのようにしか受け取れなかった。相手の一見冷静な瞳の中に狂気の色を発見しようと試みた。それは徒労に終わった。
「狂ってると思ってるんだべ」
と言った後、
「流れの中で、お前とションジも出会うべくして出会ったんだ。世の中に無駄な奴など一人もいねえ。あれだけダメな男でも、逆にお前を目覚めさせた。ションジはお前を助けるためにマチオの前に姿を現した天使よ。そう思え」
「思えねえなァ……」
アル中の天使!
ションジのドカジャン姿の背中から翼が生えている姿を想像し、苦笑した。