波乱
ションジが飲っていそうな人目につかない地下のトイレや、ビルとビルの間隙などは既に探しつくしていた。二時間以上も歩き回り、安定剤の酔いも手伝い、疲れはてていた。ションジが店で飲っている可能性は低かった。金の問題と、それ以上にションジという男はどこの店でも入店を拒否される程、見るからに病んでいたのである。
冷たい滴が頬を伝い、雪が降りはじめていたことに気づく。
上空からの雪はビル群に近づくにつれて現実味を帯び、斜めに吹かれ、乾いたアスファルトに打たれて消えた。アスファルトは徐々に湿り気を増しながら、ネオンやヘッドライトを映し出すぼんやりとした黒い鏡となる。
どこか喫茶店で熱いコーヒーでも、と思いたち、雑踏をかき分け、ブルゾンの襟を立てた。
頭の芯が朦朧として足取りがおぼつかない。今日一日で医師から割り当てられた三日分もの安定剤を飲んでしまっている。意識の覚醒を促すように上空を見上げ目をつぶる。刺すような雪が顔面をいたぶる。水滴が首に流れても淀んだ思考は目覚めてくれない。諦めて目をあけると――。
ぼうっと霞んだ遠方の低いビルの屋上に、まめ粒ほどの人影が見える。鉄柵に凭れかかった後ろ姿が、隣の高いビルね屋上の電飾板にてらされ、おぼろげに判別できた。瞼の水滴に滲んで消えて、また現れた。ションジかもしれなかった。
歩を速め交差点を斜めに渡ってビルに近づいた。ビルの横側に据え付けられた非常階段。南京錠のかけてある入り口を乗り越え、五、六階のビルを駆け登った。
息を殺し、足音を盗んで人影に近づいていく。
鉄柵を背もたれとし、両足を投げ出して焼酎の一升瓶をかかえる真っ赤な顔の男。働いてもいない癖にドカジャンと作業ズボンで暮らす男。やせているのにむくんだ身体。のび放題の縮れ毛と肩が白く染まっていた。
「ションジ」
小さく声をかけた。
なるべく刺激せぬよう「ずいぶん粋な所で飲ってるじゃあねぇか。仲間に入れろよ」
ティッと歯と歯の間から唾を吐き捨て、
「マチオのボンズがやっときた」
あらかじめ来るのを知っていたような口調である。
唇の左端を歪めて笑い、凶暴に濁った視線を私に送り、「てめェの薬にはうんざりしているんだ」
話しながら、ひきつり歪む唇の周辺はシラフの時この男の極端な卑屈さを象徴し、酔えば人を怖気だたせる凄味に変わる。
「おれも飲んでいた。シアナマイド」
「てめェに何が分かる。大学出のボンボンが! テメェが大学で遊んでる年頃にゃあ、若い職人十人もかかえ所帯もってたんだ。娘もいたべしよォ!」
「そんな立派な大将が、なァして今はアル中なのよ?」
「ひでえ酒飲みのオジキがいてな、へっ、そいつが川で溺れて死んじまった。オジキに憑いていた大酒飲みのヘビが、替わりにおれに憑いたのよ」
街を見おろし、
「近頃ポリがうるさくて、こんな所でしか飲めねェ……」
ティッとまた唾を吐き出した。
「馬鹿どもが歩いてやがる」
吹雪きはじめた大気を透かし、さっきまであれほど現実味を帯びていた人々の群れが、墓場にむかう亡霊のように薄らいで進んでいく。この世ならぬ幻の世界に向かう無限の光に彩られた通路。どこまでも遠く、北の方向にのびていく。人々を乗せて……。
ションジの横で鉄柵に手をかけ、
「手紙、読んだぞ。娘からのやつ」
言ってしまってから後悔した。
「なにッ!」
ドカジャンの腹をたくしあげ、ズボンの中から出刃包丁を取り出した。
口許は笑っていない。頬だけ引きつる。
二、三歩あとずさりし、立ちあがったションジに向かって両手をあげた。
「おれが悪かった。包丁はどこで手にいれた?」
「へへ、ヒトシと道で会ってな。財布ごとカツアゲよ。こいつでてめェもぶっ殺す!」
更に両手をあげつつ、
「おれは丸腰だぜ。丸腰の男を刺すのかお前は。そんな根性なしか」
包丁が落ちる金属音とともに、顔面が熱くなった。安定剤で感覚まで麻痺し、ああ殴られたんだなあ、としか思えない。
触れると鼻血が吹き出し、前歯が一本おれているのが分かる。平然と指を入れ、口腔から赤いかけらをションジの足元に放る。
「これでいいだろう」
逆に怯えたションジは再び包丁を拾い上げた。ポケットから鎮痛剤の空き箱がころがり落ちる。酒と鎮痛剤を併用していたことに気づく。
出刃包丁の先端をドカジャンの上からプスプスと自分の身体に何度も刺して、
「馬鹿野郎! これくらいなんだってんだよォ! おれはもっともっと痛えんだよォ!」
ションジの手から包丁を叩き落とした。はずみでこちらの手の甲も切れた。その隙にションジは胸の高さの鉄柵によじ登り、両手を広げおぼつかぬ歩調で歩きはじめた。
「馬鹿よせ。死ぬぞ」
「ヨッちゃん死のう、てかァ? 父ちゃんも死ぬかァ」
言った途端、柵から外側に滑り落ちた。
「あああああ!」鉄柵の根元につかまり甲高く悲鳴をあげてぶらさがる。
吹雪がいっそう激しくなる。
鉄柵を乗り越え枠と縁のわずかな隙間にしゃがんで、左手で枠をつかみ右手でションジの手首を握りしめた。
ネオンに青白く染まった吹雪の下に人だかりができつつある。渾身の力で引きあげる自分と、自力で這いあがろうとするションジ。足をバタバタさせながら何とか助かった身体を柵の内側に放り投げ、後に続いた。
呆然と尻餅をついている彼に、
「警察が来る。いくぞ」
ションジの手をとり非常階段を踏み外しながら駆けおりた。心配顔の人だかりを無視してしばらく走った。街の光がグルグル回った。風俗店の並んだ通りでションジが転んだ。ネオンを反射する水飴色のぬかるみに両手をついて、全身から絞りあげるような呻き声を発した。死にてえよォ。死ぬ根性もねえ癖にガタガタ言うな。死ねねえけど死にてえよォ。だったら死ぬこのアル中!
きつい言葉と裏腹に、無意識に後ろからションジを強く抱きしめている自分に驚いた。実体のない本来の自分が先に抱きしめ、肉体が後に続いたふうだった。正面のガラスに映ったションジの顔がシラフに戻り真剣だった。
客引きや呼び込みがぞろぞろと集まってきた。
「泥まみれだよ」
と日本手拭いを差し出され、我に帰った。
吹雪はやんでいた。