非現実感
物心ついてから、不思議な非現実感にさいなまれてきた。
街は時折、眼底の暗闇に感応し、黒い垂れ幕にくるくると映し出される。映し出された風景は回転するのに現実の街並は確実にそこで固定し流動している。
全てはあまりにもリアルであるゆえに、とても現実の出来事とは感ぜられなかった。
垂れ幕の隙間がちらちら揺れている。その奥にあるものは時折すがたを見せる。わずかに捉えがたく……。
対向車がヘッドライトをバッシングした。農道に左折した所でライトをつけた。周囲に広がる純白の田圃から、ここではまだ冬が終わっていないことを知る。
農道が山道に変わった。
冬枯れた木々の間に北キツネの目が光る。金色の眼光を持つケダモノは凍りついた姿勢でしばらくこちらを観察し、闇の中に反転して消えた。
ルームミラーに遠方の住宅街の光がポツリポツリと映りはじめ、山道も中腹にさしかかっていることを知る。
札幌市の西区から中央区への分岐点。山の頂上よりやや手前に、お化けトンネルと称される古いトンネルがある。乗用車一台がやっと通り抜けできる程の幅だが、前方の出口は遥かに遠い。そこは近づくにつれ、市内中心部の全景を映し出す丸いスクリーンとなる。
百年と少し前、石狩の原野に出現したこの札幌という都市。
巨大な原始林が消えるにつれ都市は大きくなり、光を発しはじめた。百年後の今、街はあらゆる種類の光につつまれ、冷たい大気の底で青白く燃えている。
いつか関根が言った言葉を思い出す。
『おれたちの色は青よ。青色が群れになって燃えている。だから群青。そういう絵を描く』
自分はなぜあんな傲慢な男のために働くのだろう。命令されるままに。
結論が出ないまま、、とりどりの灯りが交錯する光の坩堝へと入っていく……。
ススキノにほど近い新通り市場のアパート街に自分とションジのクラス木造二階建はあった。『コーポ・やわらぎ』。何がやわらぎか。自分には和らいだ覚えがなかった。
「ションジ、帰ってるようだべか」
「見かけてないねェ……」
裸電球の真下に立つ八百屋のオッカサンが私を確認でもするように、明かりに手をかざして目を細めた。
バラリ、商品の上を太い影が何本かかすめた。
「またこれかい?」飲む仕草で笑う。
「あの馬鹿、シラフなら大人しい癖しやがってよォ、飲んじまうと怖いもんなしだからな。参ってんだァ……」
八百屋と揚げ物屋の通路に歩み入る。揚げ物屋の裏のアパートが『やわらぎ』だ。高層アパートに囲まれ、ひっそりと和らいでいる。
一階の手前に私の仕事場兼用の住まいがある。事務代行と看板をあげたすぐ上の六畳一間にションジは住んでいた。鉄の階段を駆け登る。電気はついていない。合い鍵を差し込む。鍵はかかっていなかった。
ドアが開いた。電気をつける。小便くさいにおいが鼻をつき、反吐が出そうになる。飲む度に布団の中で寝小便をする。けして自分から洗おうとしない。
スーパーの弁当やカップラーメンのいくつかにはタバコの吸い殻がペドロのように盛りあがって浸っている。それらがつまらない雑誌類や茶碗などとひとつになり、床があったく見えない。
テレビの上に立てかけてある別れた妻子との写真。十年以上前のものだろう。今のションジより肉づきが良く、精悍で生活力のある男に見受けられる。四歳位の女の子が長身の若者に抱かれて笑っている。
写真の横に封の切られた手紙があった。便箋を抜き取る。
――お手紙拝見させて頂きました。もう自分の娘とは思わないで下さい。あの夜のことを覚えていますか。あなたは朝からずっと酔っ払っていました。お母さんを正座させ、出刃包丁の先でお母さんの身体中つつきました。動いたら殺すぞ、と面白がって。セーターから抜かれる度に、包丁の先端に血液がポツリと見えました。それから二人を雪の中に放り出したのです。
「ヨッちゃん死のう」
ぐうっという呻き声が喉から鳴ってお母さんは気絶しました。私達は隣のおじさんに助けられ、あなたはアルコール中毒で精神病院に入れられました。今は二人して、小樽の食品工場で働いています。夜間高校で勉強中です。二度と再び姿を見せないで下さい。お酒、もう飲まないでネ……。芳江――。
四日前の日付になっている。届いたのは行方をくらます前日だろうか。
半開きになったままの窓から冷気が流れ込んでくる。窓を閉め、ブルゾンのチャックをあげた。窓外の電柱に飛び移り、ションジは逃げたのである。
昨日の朝、窓を見あげて呟いたのと同じ言葉が口をついて出た。
「人間わざじゃねえなァ」と。
ゴミを蹴り上げ自分が靴を履いたままだったと気づく。茶碗の割れる男がした。
『面倒みてやってくれや』
関根の言葉が回想された。
「ジジイ、いい勘してやがる」
ションジの性格と手紙の内容を思い合わせ、関根の『嫌な予感』が当たりそうな気配に当惑した。一度、自宅に戻ることにした。
入室するなり留守番電話のボタンを押した。関根の声でメッセージが録音されていた。
――ションジらしい男をススキノで見かけたっていう会員がいる。ヒトシ……中村仁史だ。やつ、会合に遅れてきやがって「居酒屋で飲んできました」だってよ。まあ誰も責めないがな。ションジ、駅前通りの南七条あたりを北にむかって歩いていたそうだ。そうとう赤い顔してうろついていたらしい。ヒトシ、怯えてた。裏があるかもしれん。ひとつ、頼むわ――。
『午後六時二十一分』と機械音。
部屋の時計は六時三十分を回っている。
夕食後と記入された精神安定剤を三袋破り、水道の蛇口に直接口をつけ、喉に無理やり流し込んだ。
怒りが込みあげる。両目の裏が痛みはじめ、腹の中から胸の内側にかけて、軽い痙攣がおこる。息がどうにも苦しくなり、心臓がばくつく。
八百屋の角で立ち止まる。胸に手を当てて呼吸を整える。
手作りまんじゅう、と書かれた幟が前方で風にはためいている。同じ場所から大量の水蒸気が路外に溢れ、風にかき消される。近づいていくと、蒸籠の積み重ねられた隙間から蒸気は噴き出していた。
爆音が虚をついて耳に響く。
振り返り上空に目をやれば、ビルの裏側から現れたヘリコプターが様々な光を点滅させて低空をゆっくりとこちらに移動してくる。ヘリコプターの視点になってみる。乱立するビルに囲まれ、忘れ去られた商店街は光の中で一本の暗い溝となってちらついている。
肉屋や魚屋は軒を連ね、ラーメン屋のガラス戸のむこうでは老婆が顎を突き出し、両手でドンブリをかかえ、唇をとがらせ最後の汁を飲み込もうとしている。
一切の生活は暗い一本の溝の中の出来事でしかなく、自分も溝の中を漂っている一人の男にすぎない。そう思うと多少楽になる。
ふと、風の流れと逆方向に黒い袋が吹かれて走った。路地に消えた袋が実は黒猫だったことで、精神安定剤が急速に効きはじめていることが分かる。
ススキノへと歩を踏み出した。