第1話 私から出す結婚の条件
「工房へは、結婚までにご挨拶に行きましょうね」
母が差し出した紙には、リディアの仕事を辞める日まで書き込まれていた。
向かいには縁談の相手がいる。王都騎士団長、エドガー・ヴァルク伯爵。まだ三度目の対面で、彼自身の希望も聞いていない。
それでも母は、娘が家の仕事と跡継ぎのために時間を使うものとして、話を進めようとしていた。
リディアは紙を押し戻した。
「辞めるとは、お約束していません」
母の指が止まる。
「結婚するのよ。今までどおりというわけにはいかないでしょう」
「ですから、私からもお話ししたいことがあります」
膝の上の封筒を握り直した。昨夜、書いては捨てた紙の最後の一枚が入っている。
母はエドガーを見た。彼はテーブルに置いていた手を引き、リディアへ向き直った。
「伺います」
無愛想というほどではない。ただ、返事は短かった。
この先を言えば、縁談はなくなるかもしれない。
工房の近くには下宿がある。師匠のマルタが教えてくれた部屋なら、祖母から相続した資産の収入と、自分の仕事の報酬で暮らせる。贅沢はできなくなるが、困っているわけではない。
そう確かめてから、リディアは顔を上げた。
「私は、白い結婚を望んでいます」
茶匙が受け皿に触れ、小さく鳴った。
「寝室を分けて、夫婦として夜を共にすることは、初めはなしにしていただきたいのです。それから、工房の仕事を続けたい。相続した財産と、仕事で得たお金も、自分で管理したいと思っています」
「リディア」
母の声を聞くと、いつものように説明を足したくなった。週に三日しか通わないこと。できるだけ婚家の予定を優先すること。残りの日は何でもするつもりだと。
けれど、その言葉を全部足したら、昨夜の紙を書いた意味がなくなる。
リディアは封筒から紙を出した。
「伯爵様と、直接お話ししてもよろしいでしょうか」
しばらくして、母は椅子を引いた。
「廊下におります。お話が済んだら呼んでちょうだい」
扉は細く開けて残された。
エドガーは差し出された紙を読み、途中で一度だけ、リディアの指先を見た。
爪の脇に、取りきれなかった青い染みがある。
彼と初めて話した日にも、同じ指を隠した。古い本を直す仕事をしていると答えたら、何冊直したかではなく、一番難しかった本を尋ねられたのだった。
今日も、彼は染みには触れなかった。
「仕事を続けることと、ご自分の財産を管理することに、異存はありません。寝室についても」
「……よろしいのですか」
「はい。ただ、確かめたいことがあります」
リディアは膝の上で手を重ねた。
「私との結婚を断るために、この条件を出されたのでしょうか」
「いいえ」
そこだけは、すぐに言えた。
「結婚は、したいのです。家に帰って、その日あったことを話せる人がいたらと思います。けれど、話す相手ができる代わりに、話すことを全部なくしてしまうのは……嫌です」
言いながら、ひどく子どもじみた望みに聞こえた。
工房では、ようやく一人で任される仕事が増えてきたところだ。夫が帰ってくる時刻ばかり気にして、自分には何もない一日を終える。その繰り返しを望んでいるわけではなかった。
エドガーは紙をテーブルに戻した。
「私は家でも、仕事の話をされることが多い」
「騎士団の?」
「それもあります。親族が来れば、今度は伯爵家の話です。私が食事を終えるまでに、次の代の話まで済みます」
淡々とした声だったので、笑ってよいのか迷った。
彼は少しだけ眉を下げた。
「笑っていただいて構いません。まだ生まれてもいない息子の教育方針を聞かされた時は、私も困りました」
リディアの口元が緩んだ。
「息子と決まっているのですね」
「そこも含めて、私には相談がありませんでした」
わずかな笑いが収まってから、彼は続けた。
「結婚すれば、親族が何も言わなくなるとは思いません。その点で、あなたに楽を約束することはできない。ただ、私も自分で家庭を選びたい。帰ってまで団長や当主の席に座らなくてよい家を」
「先日の書庫で、あなたは本を直す前に、持ち主へ何を残したいか尋ねていましたね」
「書き込みを消されたくないと、おっしゃっていたので」
「見た目を整えるより、その方の使い方を先に聞いておられた。あなたとなら、暮らしの相談ができそうだと思いました」
リディアは、隠しかけていた指を膝の上でほどいた。
彼は自分の紙を取り出した。書かれていたのは財産の一覧ではなく、公務で帰りが遅くなりやすい日と、留守にする可能性のある期間だった。
「これを守れない日もあります。連絡はします。毎晩待っていただく必要はありません」
「夕食を別々にしても?」
「その方がよい日もあるでしょう」
リディアは紙に目を落とした。工房へ通う予定と重ねてみる。時間の合う日も、合わない日もあった。
「家のことは、私に何をお望みですか」
「今の使用人たちが、それぞれ担当を持っています。あなたに全て引き継いでいただくつもりはありません。新しくお願いしたいことができれば、相談します」
「それでは、私は」
何をすれば、ここまで聞いてもらった分を返せるのだろう。
続く言葉を探すリディアに、エドガーは紙の端を指した。
「こちらは、まだ読めていません」
条件の最後に、リディアは一行だけ書いていた。
半年後に、二人の意思を確かめ直すこと。
「一緒に暮らしてみなければ、分からないこともあると思うのです。もし続けられなければ、お互いの財産はそのままで、離縁の話をしたいと」
「半年を待たず、困った時にも話せますか」
思いがけない問いだった。
「はい。もちろん」
「では、続けたいと思った時は?」
リディアは彼を見た。
「その時は……続けたいと、申し上げます」
「私も、そうします」
エドガーは少し考えてから、紙の余白を見た。
「双方が同じ答えなら、もう一度、結婚を申し込むのはいかがでしょう。最初は知らなかったことも、その頃には知っているでしょうから」
「伯爵様から?」
「そのつもりですが」
「私からも、してよろしいですか」
今度は、彼が返事をするまでに一拍あった。
「……それは、嬉しいと思います」
濃い青の目が、初めて紙ではなく、リディアをじっと見た。
彼女は先に目を伏せ、余白に書き足した。二人とも続けたいと思ったなら、半年後に互いに求婚する。
ペン先が止まると、彼は立ち上がった。テーブルを挟んだまま、頭を下げる。
「リディア嬢。私は、あなたと暮らしてみたい。私と結婚していただけますか」
大きな花束も、熱い愛の言葉もなかった。
代わりにテーブルには、彼の暮らし方と、自分の望みが並んでいる。
リディアも立った。
「はい。私も、あなたとの結婚を望みます」
登録を予定するのは七日後。それまでに条件を書き直し、費用の分担も確かめる。一度持ち帰って気が変わったら、そう伝えてよいと決めた。
廊下で待つ母を呼ぶ前に、リディアは自分の紙を取り上げた。
「もう一部、書いてお渡しします」
「お願いします。私は、今日いただいたこちらを」
エドガーが手を伸ばしたのは、母の整った筆跡の紙ではなかった。
余白に何度も書き足した、リディアの条件だった。




