↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚を望んだのは私です  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/16

第1話 私から出す結婚の条件

「工房へは、結婚までにご挨拶に行きましょうね」


 母が差し出した紙には、リディアの仕事を辞める日まで書き込まれていた。


 向かいには縁談の相手がいる。王都騎士団長、エドガー・ヴァルク伯爵。まだ三度目の対面で、彼自身の希望も聞いていない。


 それでも母は、娘が家の仕事と跡継ぎのために時間を使うものとして、話を進めようとしていた。


 リディアは紙を押し戻した。


「辞めるとは、お約束していません」


 母の指が止まる。


「結婚するのよ。今までどおりというわけにはいかないでしょう」


「ですから、私からもお話ししたいことがあります」


 膝の上の封筒を握り直した。昨夜、書いては捨てた紙の最後の一枚が入っている。


 母はエドガーを見た。彼はテーブルに置いていた手を引き、リディアへ向き直った。


「伺います」


 無愛想というほどではない。ただ、返事は短かった。


 この先を言えば、縁談はなくなるかもしれない。


 工房の近くには下宿がある。師匠のマルタが教えてくれた部屋なら、祖母から相続した資産の収入と、自分の仕事の報酬で暮らせる。贅沢はできなくなるが、困っているわけではない。


 そう確かめてから、リディアは顔を上げた。


「私は、白い結婚を望んでいます」


 茶匙が受け皿に触れ、小さく鳴った。


「寝室を分けて、夫婦として夜を共にすることは、初めはなしにしていただきたいのです。それから、工房の仕事を続けたい。相続した財産と、仕事で得たお金も、自分で管理したいと思っています」


「リディア」


 母の声を聞くと、いつものように説明を足したくなった。週に三日しか通わないこと。できるだけ婚家の予定を優先すること。残りの日は何でもするつもりだと。


 けれど、その言葉を全部足したら、昨夜の紙を書いた意味がなくなる。


 リディアは封筒から紙を出した。


「伯爵様と、直接お話ししてもよろしいでしょうか」


 しばらくして、母は椅子を引いた。


「廊下におります。お話が済んだら呼んでちょうだい」


 扉は細く開けて残された。


 エドガーは差し出された紙を読み、途中で一度だけ、リディアの指先を見た。


 爪の脇に、取りきれなかった青い染みがある。


 彼と初めて話した日にも、同じ指を隠した。古い本を直す仕事をしていると答えたら、何冊直したかではなく、一番難しかった本を尋ねられたのだった。


 今日も、彼は染みには触れなかった。


「仕事を続けることと、ご自分の財産を管理することに、異存はありません。寝室についても」


「……よろしいのですか」


「はい。ただ、確かめたいことがあります」


 リディアは膝の上で手を重ねた。


「私との結婚を断るために、この条件を出されたのでしょうか」


「いいえ」


 そこだけは、すぐに言えた。


「結婚は、したいのです。家に帰って、その日あったことを話せる人がいたらと思います。けれど、話す相手ができる代わりに、話すことを全部なくしてしまうのは……嫌です」


 言いながら、ひどく子どもじみた望みに聞こえた。


 工房では、ようやく一人で任される仕事が増えてきたところだ。夫が帰ってくる時刻ばかり気にして、自分には何もない一日を終える。その繰り返しを望んでいるわけではなかった。


 エドガーは紙をテーブルに戻した。


「私は家でも、仕事の話をされることが多い」


「騎士団の?」


「それもあります。親族が来れば、今度は伯爵家の話です。私が食事を終えるまでに、次の代の話まで済みます」


 淡々とした声だったので、笑ってよいのか迷った。


 彼は少しだけ眉を下げた。


「笑っていただいて構いません。まだ生まれてもいない息子の教育方針を聞かされた時は、私も困りました」


 リディアの口元が緩んだ。


「息子と決まっているのですね」


「そこも含めて、私には相談がありませんでした」


 わずかな笑いが収まってから、彼は続けた。


「結婚すれば、親族が何も言わなくなるとは思いません。その点で、あなたに楽を約束することはできない。ただ、私も自分で家庭を選びたい。帰ってまで団長や当主の席に座らなくてよい家を」


「先日の書庫で、あなたは本を直す前に、持ち主へ何を残したいか尋ねていましたね」


「書き込みを消されたくないと、おっしゃっていたので」


「見た目を整えるより、その方の使い方を先に聞いておられた。あなたとなら、暮らしの相談ができそうだと思いました」


 リディアは、隠しかけていた指を膝の上でほどいた。


 彼は自分の紙を取り出した。書かれていたのは財産の一覧ではなく、公務で帰りが遅くなりやすい日と、留守にする可能性のある期間だった。


「これを守れない日もあります。連絡はします。毎晩待っていただく必要はありません」


「夕食を別々にしても?」


「その方がよい日もあるでしょう」


 リディアは紙に目を落とした。工房へ通う予定と重ねてみる。時間の合う日も、合わない日もあった。


「家のことは、私に何をお望みですか」


「今の使用人たちが、それぞれ担当を持っています。あなたに全て引き継いでいただくつもりはありません。新しくお願いしたいことができれば、相談します」


「それでは、私は」


 何をすれば、ここまで聞いてもらった分を返せるのだろう。


 続く言葉を探すリディアに、エドガーは紙の端を指した。


「こちらは、まだ読めていません」


 条件の最後に、リディアは一行だけ書いていた。


 半年後に、二人の意思を確かめ直すこと。


「一緒に暮らしてみなければ、分からないこともあると思うのです。もし続けられなければ、お互いの財産はそのままで、離縁の話をしたいと」


「半年を待たず、困った時にも話せますか」


 思いがけない問いだった。


「はい。もちろん」


「では、続けたいと思った時は?」


 リディアは彼を見た。


「その時は……続けたいと、申し上げます」


「私も、そうします」


 エドガーは少し考えてから、紙の余白を見た。


「双方が同じ答えなら、もう一度、結婚を申し込むのはいかがでしょう。最初は知らなかったことも、その頃には知っているでしょうから」


「伯爵様から?」


「そのつもりですが」


「私からも、してよろしいですか」


 今度は、彼が返事をするまでに一拍あった。


「……それは、嬉しいと思います」


 濃い青の目が、初めて紙ではなく、リディアをじっと見た。


 彼女は先に目を伏せ、余白に書き足した。二人とも続けたいと思ったなら、半年後に互いに求婚する。


 ペン先が止まると、彼は立ち上がった。テーブルを挟んだまま、頭を下げる。


「リディア嬢。私は、あなたと暮らしてみたい。私と結婚していただけますか」


 大きな花束も、熱い愛の言葉もなかった。


 代わりにテーブルには、彼の暮らし方と、自分の望みが並んでいる。


 リディアも立った。


「はい。私も、あなたとの結婚を望みます」


 登録を予定するのは七日後。それまでに条件を書き直し、費用の分担も確かめる。一度持ち帰って気が変わったら、そう伝えてよいと決めた。


 廊下で待つ母を呼ぶ前に、リディアは自分の紙を取り上げた。


「もう一部、書いてお渡しします」


「お願いします。私は、今日いただいたこちらを」


 エドガーが手を伸ばしたのは、母の整った筆跡の紙ではなかった。


 余白に何度も書き足した、リディアの条件だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。