第48話 運命を正す力
伝票が来た。
葵は数字を見た。
約13万クレド。
一人あたり2万クレド——葵の頭の中で計算が走った瞬間、顔から血の気が引いた。
500クレドしか持っていない。
「あの……先輩」
葵は蒼玲の袖を引いた。
「お金を、貸していただけますか」
蒼玲が葵を見た。一秒間だけ。
「何言ってるの。私が払うわよ」
「蒼玲ちゃんありがとー、ごちそうさまー」
イレムが早速手を合わせた。
カヴィヤが「ありがとう蒼玲さん、今度は私がご馳走するわね」と微笑んだ。
白羽が静かに端末を操作した。
「いつものことだが、私は自分の分は自分で払う」
蒼玲の口座に、振込の通知が届いた。蒼玲は特に何も言わなかった。慣れているのだろう。
「じゃあ、帰るわよ」
葵はもう一度伝票の数字を見た。13万クレド。あの寿司の値段が、13万クレド。
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帰りの飛行機の中、蒼玲が葵の隣に座った。
「そういえば」
窓の外を見たまま、蒼玲が言った。
「あなたが言っていた黒夢病の患者と思われる人たちの受け入れ手配をしたわ。明日の朝、保健室に来なさい」
「世界中から年齢も性別も無作為に選んだ。20名よ」
葵は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
蒼玲はそれには答えなかった。目を閉じた。
葵はしばらく窓の外を見ていた。夜の雲が、機体の下を流れていた。
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翌朝、保健室に向かった。
扉を開けると、ベッドが並んでいた。20名。年齢も性別もばらばらだった。老人も、子供も、いた。全員が苦しそうな顔で眠っていた。
カヴィヤが患者たちの間を静かに歩き、一人一人の状態を確認していた。
葵はその場に立って、患者たちを見渡した。
ルシファーの言葉が、頭の中で蘇った。
——神が定めし運命の証。
この人たちの運命は、このように苦しむことなのだろうか。
葵は端末を開いた。神魔解析録を起動した。バクの項目。散盟契約の魔法陣——生成完了。
患者の一人に近づいた。年配の女性だった。眉間に深い皺が刻まれていた。眠っているのに、苦しそうだった。
葵は魔法陣を展開した。
バクが現れた。丸い体。短い象の鼻。青白く光る大きな目。葵を見て、少し首を傾けた。
「お願い」
バクの鼻が、葵の手のひらに触れた。
意識が、沈んでいった。
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暗い廊下だった。
石の壁。天井が低い。出口のない空間。
——知っている。
リオの夢の中と、同じ造りだった。同じ息苦しさ。同じ閉塞感。間違いない。
葵は手のひらに意識を向けた。光の剣が現れた。迷いなく、速く。
足音が聞こえた。金属の音が混じっている。
——来る。やっぱり、来る。
怪物が現れた。長い髪が重力に逆らって広がっていた。四つの目が葵を捉えた瞬間——口が開いた。
催眠魔法が飛んできた。
葵は横に半歩ずれた。それだけだった。
怪物が続けて撃ってきた。左、右、正面から三発。
葵は走りながら全部かわした。体に当たらなかった。一発も。
——リオの夢の中にいた怪物と同じ戦闘パターンだ。
あのときは食らった。今は——手の内が知れている相手に、負ける道理はない。
魔力を、一気に込めた。
剣が変わった。伸びた。広がった。大剣の形。
正面から、真っ向に振り下ろした。
金属が裂ける音と、何かが霧散する音が、同時に鳴った。
怪物が、消えた。
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目が開いた。
保健室の天井だった。カヴィヤが葵を見ていた。
葵は上体を起こした。手のひらが熱かった。でも、前より楽だった。
患者の女性を見た。眉間の皺が、少し薄れていた。
この人たちの運命は、きっとこのように苦しむことではない。
誰かが歪めているんだ。
そして——それを正すためにこの力を使う。
葵は立ち上がった。保健室を出る前に、カヴィヤを振り返った。
「カヴィヤ先輩」
「なに?」
「この人たち、全員助けます」
カヴィヤはしばらく葵の顔を見ていた。穏やかな目だったが、どこか確かめるような色があった。
やがて、静かに微笑んだ。
「……そうね」
それだけだった。否定もしなかった。励ましもしなかった。ただ、受け取った。




