第47話 戦う理由
葵は思わず一歩後ずさったまま、言葉が出なかった。
純白の翼。銀の装甲。手に持つ長い杖から溢れる、厳かな光。
その隣に、制服姿の茜が立っていた。
「……茜、それって」
「葵のことを一生懸命お祈りしてたら、来てくれたの」
茜の声は変わらず柔らかかった。
「きっと私の思いが、神様に通じたんだと思う」
天使は静かにそこにあった。茜の言葉を聞くように、微動だにせず。
「葵、神様に逆らうなんて危ないよ。私、葵が傷つくところを見たくないの」
そのとき、学園長の言葉が葵の胸をよぎった。
——抱え込むな。
「茜、ありがとう。気持ちは嬉しいよ」
葵はゆっくりと息を吸った。
「大丈夫、神様を倒そうなんてそんなこと考えていないよ。ただ……僕のこの力が、何なのか気になっていたんだ」
「……そうなの?」
「それに、ルシファーのいる迷宮はおそらくとても深くて、たどり着けるかどうかもわからない」
茜はすこし目を瞬かせた。
「じゃあなんで迷宮に行くの?」
「お世話になった先輩に頼まれたんだ。せめてその分はお返ししないと」
茜はしばらく黙っていた。唇をきゅっと結んで、何かを考えるように視線を落として。
「……そうなのね」
やがて顔を上げ、まっすぐに葵を見た。
「私も迷宮、一緒に行くわ。天使様が一緒にいてくれたら、あなたを助けられると思うの」
葵は何も言えなかった。ただ、小さく頷いた。
端末を取り出し、白羽にメッセージを送る。
「部活、やっぱり休みます。すみません」
すぐに既読がついた。
「無理はするなよ」
それだけだった。白羽らしかった。
端末をしまうと、茜が「少し話しましょう」と言った。
二人でしばらく、そこに立っていた。他愛のない話をして、笑って、それから別れた。
天使の姿は、もうどこにもなかった。
「……葵、無理しないでね」
茜はそれだけ言って、踵を返した。その背中が廊下の角に消えるまで、葵はなんとなく見送っていた。
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生徒会室に着くと、蒼玲が腕を組んで待ち構えていた。
「遅い。行くわよ」
「どこにですか」
「寿司屋」
葵はアルカディア島の中心部のどこかを漠然と想像した。500クレドある、高級寿司でも問題ないだろう。
だが蒼玲が向かったのは、学園の屋上だった。
そこには、見覚えのある機体が待っていた。
「……先輩の飛行機ですか」
「寿司が食べたいなら本場に行くのは当然でしょう」
葵は絶句した。
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飛行機を降りると、そこは日本だった。
夜の空気が違った。湿度も、街の匂いも、道行く人の声も。葵は立ち止まって、しばらくそれを吸い込んだ。
日本人の血は引いている。でも来たことは、一度もなかった。
路地の奥に暖簾があった。蒼玲が迷わず潜る。葵は慌てて続いた。
店に入ると、長いカウンターが一枚板で伸びていた。木目が深く、鈍い光沢を持っていた。その奥に、板前が立っていた。年配で、表情がなく、ただそこにいるだけで場の空気が締まるような人だった。
席に着こうとした葵の腕を、エリサベットがそっと掴んだ。
「葵、ブレスレットを外しなさい。カウンターを傷つけてしまうわ」
葵は思わず自分の手首を見た。
——日本人なのに、寿司屋のルールをエリサ先輩に教わってしまった。
外そうと手をかけたが、なぜか体から離したくなかった。理由はわからなかった。とっさに、足首に付け直す。手首よりここの方が、カウンターに触れる心配もない。
「どうぞ」と板前が静かに言った。
蒼玲は慣れた様子で告げた。
「先付けはいらないわ。お任せで」
板前が動き始めた。
まな板の上を、薄い冷気が流れていた。素材の温度を、最適に保つように。白身魚が引かれていく。刃の動きに迷いがなく、切り口が光を受けて透き通った。
酢飯が成形されていく。不思議なことに、板前の手は米に触れていなかった。魔力が酢飯を包み、空気を含ませながら、温度を一定に保っていた。手の熱で酢飯が崩れることが、そもそもない。
早業で白身魚と、いつの間にか添えられていたわさびが酢飯と合わさり、寿司が出来上がる。しかも全員分、同時に。
「お楽しみください」
葵は醤油に手を伸ばしかけて、止めた。おそるおそる、そのまま口に入れた。
——おいしい。
今まで食べたどの寿司とも、違った。酢飯が口の中でほぐれる瞬間、魚の旨みがそれに重なって、じわりと広がっていく。こんな味が、あったのか。
目の奥が、熱くなった。
気づいたら、泣いていた。
胸の奥で、ライラがふわりと揺れた。葵の感情に引き寄せられるように、静かに、温かく。
「ああー、葵くんたら」
イレムがにっこりと言った。
「おいしすぎて泣いてるー。かわいいー」
葵は袖で目を拭いながら、それでも箸を置けなかった。先輩たちは普通に食べていた。この味が当たり前の顔をして。
葵は黙って、次の寿司を口に入れた。
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最後にお茶が出た。温かく、香ばしかった。
葵はカップを両手で持ったまま、ふと口を開いた。
「先輩たちは……なんで迷宮に行くんですか」
蒼玲が涼しい顔で答えた。
「ルシファーを倒して伝説になるためよ。ルシファーを倒すことは十字教やサラーム教の聖職者たちの悲願でもあるの——私の名前を聖書に書き加えるのよ」
最後の一言に、わずかに笑みが混じっていた。
白羽が湯呑みを置きながら静かに続けた。
「私は強くなるためだ。迷宮は深く潜るほど敵が強くなる。これ以上の鍛錬の場はない」
それだけだった。余計な言葉を足さない。白羽という人はいつもそうだった。
アリアが腕を組んだ。
「迷宮に出る神魔の素材で、最強の武器を作る。私の武器でルシファーを倒せたなら——それ以上の証明はない」
「お金になるからー」
イレムが屈託なく手を挙げた。
「レアな神魔の素材って色々使い道があるんだよね。換金もできるし、加工もできるし。現実的でしょ?」
カヴィヤは微笑んだ。
「私は、みんなが無理しないようについていくの」
それだけで十分だという顔をしていた。
葵はお茶を一口飲んだ。
——僕の力は、どのように使えばいいんだろう。
胸の奥で、ライラがもう一度静かに揺れた。答えを持っているわけではない。ただ、そこにいた。
答えは出なかった。お茶の香りだけが、静かに漂っていた。




