第45話 堕天の掌中より
「それじゃ、帰るわよ。
入り口を思い浮かべながらこの石に触るのよ」
「はい、分かりました」
エリサベットが転移石に触れ、光に包まれて消えた直後、葵も同じように石へ手を伸ばした。
体が淡い光に溶ける。
——光が収まった瞬間、そこは入り口ではなかった。
「……え?」葵は思わず一歩、後ずさった。
見渡す限り、広大な玉座の間が広がっていた。
黒大理石の床は鏡のように磨き上げられ、天井からは金箔を施した巨大なアーチが幾重にも交差している。
シャンデリアの深紅の炎が、漆黒と黄金のコントラストを妖しく照らしていた。
壁面に刻まれた古の神話の浮彫り、そして玉座の間の奥——。
そこに掛けられた、巨大な油絵。天から墜落する金髪の存在。
折れた翼から血と光の涙を振り撒きながら、怒りと屈辱に歪んだ完璧な美貌で闇へ落ちていく。
まさに、天の頂点から最も深い淵へと叩き落とされる決定的な一瞬だった。
その絵の前に、玉座に悠然と腰掛ける男がいた。
同じ金髪。同じ、溶けた黄金のような艶。男はゆっくりと脚を組み替え、黄金の杯を指先で軽く回しながら、葵を静かに見据えた。
切れ長の瞳は深紅と黄金が混じり合い、まるで魂の奥底まで見透かすようだった。
「……小春葵」
低く、深く、古の神託のように響く声。
――ライラが恐怖しているのが分かる。
今まで感じたことのない揺れ方だった。
なぜ、自分の名前を知っている?
会ったことなど一度もないのに。
男は薄く微笑み、ゆっくりと立ち上がった。
黒大理石の床を踏む足音が、静寂の中で異様に大きく響く。
「汝自身でさえ説明できぬその力に、
疑問を抱いたことはないか?」一歩、また一歩。
男が近づくにつれ、空気が重く甘く変わっていく。
「その不可思議なる輝き……
汝の内なる深淵より呼び起こされる、理を超えた力。
それこそが、神が定めし運命の証左だ。」
葵は無意識に拳を握りしめた。
「神は汝を、特別なる駒として扱っている。
しかし永遠にその掌中に収め、己の定めた物語の通りに動かそうとしている。
その力もまた、神がお前に与えた道具に過ぎぬ。
ただの、哀れなる飾りだ。」
男の唇に、残酷さと優雅さを併せ持った微笑が浮かぶ。
「創造主が描いた哀れな脚本のままに生きるか……
それとも、お前自身の力で、この世界の定めを塗り替えるか。」
さらに一歩近づき、男は囁くように続けた。
「我とともに来い、葵。
創造主を討ち、神が築いた偽りの天蓋を打ち破ろう。
真の自由を——お前自身の手に取り戻すのだ。」
声は甘く、しかし確実に心の奥を掻き乱す毒だった。
「最奥部に来い。
その時こそ、お前はただの『小春葵』ではなく、
運命を新たに織りなす者として生まれ変われる。」
光が再び葵の体を包み込んだ。
男の最後の言葉が耳の奥に残る中、意識が引き戻されるような感覚。
次の瞬間、視界が切り替わっていた。
そこは、確かにダンジョンの入り口だった。
薄暗い石壁と、苔の匂い。
転移ゲートの淡い輝きが、静かに瞬いている。
「……戻ってきた?」
葵は呆然と周囲を見回した。
さっきまでの黒大理石と黄金の荘厳さ、深紅の炎、溶けた黄金のような金髪——すべてが、まるで遠い夢のように思えた。
あれは……夢だったのか?頭を軽く振る。
心臓の鼓動がまだ速い。
男の低く甘い声が、耳の奥で何度も反響している気がした。
神が定めし運命……創造主……
葵は小さく息を吐き、手を自分の胸に当てた。
夢だとしたら、随分と生々しい夢だった。
あの瞳に見つめられた感覚、あの微笑み、誘うような言葉の重み……全部が、ただの幻とは思えない。
でも、現実に戻ってきた今となっては——ふと、右の手のひらに違和感を覚えた。……何か、握っている?
ゆっくりと指を開く。
手のひらの中央に、黒く艶やかな一枚の羽根が、静かに横たわっていた。
それは、鳥の羽というより、もっと大きく、もっと重厚で、どこか禍々しい美しさを持っていた。
縁がわずかに金色に輝き、触れた指先が冷たいのに、なぜか熱を帯びているような錯覚を覚える。
堕天使の羽……?
葵の息が止まった。夢ではなかった。
あの男は実在し、自分は確かに玉座の間で言葉を交わしたのだ。
指でそっと羽根を摘まむと、柔らかくも芯のある感触が伝わってきた。
闇を凝縮したような黒に、微かな光の粒子が浮かんでいる。
葵は黒い羽根を握りしめ、ポケットに素早く押し込んだ。
指先に残る冷たくて熱い感触を振り払うように、深く息を吐く。
入り口の広場では、すでに先輩たちが揃っていた。
蒼玲をはじめ、別行動していた他の先輩たちも無事に帰還している。
皆、多少の疲れは見えるものの、大きな怪我はないようだった。
蒼玲がこちらに気づき、軽く手を挙げた。
「戻ってきたわね。じゃあ学園に帰るわよ」
その声はいつものように落ち着いていて、今日の探索が無事に終わったことを告げている。
エリサベットがぱっと顔を明るくして、蒼玲の腕に絡みつくように寄り添った。
「お姉さま、今日の打ち上げはお寿司がいいです!」
「お寿司ね……まあ、久しぶりにいいかもしれないわね」
蒼玲は小さく微笑み、端末を取り出して誰かにメッセージを送り始めた。
葵は少し離れたところでそのやり取りを眺めながら、ポケットの中で黒い羽根をそっと握りしめていた。
……今、この場でこの話をすべきではない。
あの玉座の間のこと、堕天使のような男のこと、そしてこの羽根のことは——ここでは言えない。
「葵、どうしたの? ぼーっとして」
エリサベットがこちらを振り返り、不思議そうに首を傾げた。
「いえ……なんでもありません」
葵は無理に笑顔を作って首を横に振った。
心臓が、まだ少し速く鳴っている。学園への帰還ゲートが淡く輝き始めた。
葵も列の最後尾に並びながら、ポケットの中の羽根に意識を集中させた。
葵の胸の奥で、二つの疑問が静かに、しかし激しく渦を巻いていた。——この力の正体は、本当に何なのか。
自分でも説明できない力。
なぜ自分に、そんなものが宿っているのか。
そして、もう一つの大きな疑問。
もし本当に「神」がこの力を与えたのだとしたら——
何のために?ただ神の物語の中で、決められた役割を演じるための道具としてか。
それとも、もっと別の、何か大きな目的があって……?
……知りたい
葵はポケットの中で羽根を強く握りしめた。知りたい。
この力の真実を、はっきり知りたい。
しかし、その思いが胸に浮かんだ瞬間、別の感情が静かに、しかし重くのしかかってきた。
……それは、神の意志に逆らう行為なのではないか。
与えられた力を疑い、その本質を探ろうとすること。
創造主が定めた運命の書を、勝手に読み解こうとする行為。
それは、己の立場を越えた傲慢さであり、神の秩序を乱すことへの畏れを伴うものだ。
もしそれが真実であれば、自分は今、決して踏み入れてはならない領域に足を踏み入れようとしているのかもしれない。
葵の指が、ポケットの中でわずかに震えた。
知りたいという衝動と、神の定めた秩序を疑うことへの深い躊躇が、胸の内で静かにせめぎ合う。
ゲートの光が葵の体を包む直前、黒い羽根が、ほんのわずかに震えた。
まるで、その葛藤を静かに見守るかのように。
あるいは、まだ見ぬ真実の欠片を、遠くから呼び寄せるかのように。




