第31話 竹林と夢の底
リオの様子は、変わらなかった。
食堂で一人でいることが多かった。トレーに手をつけないまま座っていることもあった。
——問題は、どの神魔に頼むか。
夜、ソファベッドに横になりながら、葵は端末を開いた。神魔解析録の検索機能を起動した。
「人の夢に入る」
いくつかの候補が出た。その中に——バクがあった。
説明文を読んだ。中国に古くから伝わる妖魔。夢の気配を好み、他者の夢の中に入る力を持つとされる。
——これだ。
でも——一人でどこへ行けばいいのか、葵にはわからなかった。
「先生」
机に向かっていたアーデルが、顔を上げた。
「少し、相談があります」
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アーデルは話を聞き終えてから、少し間を置いた。
「バクを探したい、ということか」
「はい。リオの夢に入れる神魔が必要で、バクなら力を借りられると思って」
「バクは妖界の存在だ」
「妖界、というのは」
アーデルは少し考えてから、静かに話し始めた。
「この世界は、人間が暮らす人界だけではない。人界に隣接するように、いくつかの層が存在する。悪魔や魔獣が棲む魔界。妖や霊獣が棲む妖界。そういった層への入口——ゲートが、世界各地にある」
「バクは妖界に」
「そうだ。そしてバクは中国に古くから伝わる存在だ。中国には妖界への安定したゲートがある」
葵は端末を膝に置いた。
「でも、どうやって行けば」
「一つ、教えておく」アーデルは葵を見た。「生徒会のメンバーには、スタディホールの時間を使って異界への遠征を行う制度がある。学校が公式に認めた手続きで、許可さえ下りれば正規の遠征として扱われる」
「……知りませんでした」
「中国の安定したゲートは、天龍集団の管理区域にある。蒼玲の父親が統括している企業だ。蒼玲に頼め」
葵はその言葉を、頭の中で繰り返した。
「……先生は、なぜそれを」
「知っておいて損はない情報だから、教えた」
アーデルはそれだけ言って、また書類に目を向けた。止めなかった。
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蒼玲にメッセージを送ったのは、その後だった。
「蒼玲先輩、夜分遅くすいません」
「なに」
「友達が毎夜悪夢を見ているようで、追い詰められています。」
「続けて」
「夢の中に入れる神魔と契約して、助けたいと思っています。」
しばらく間があった。
「バクを探すつもり?」
葵は少し驚いた。それからメッセージを返した。
「はい。中国の山奥に安定したゲートがあると聞きました。天龍集団の管理区域に」
また間があった。
「……明日、特別に手配してあげる。感謝しなさい」
一度、間があった。
「観光は禁止。用が済んだらすぐ戻ること。それと——私に大きな借りができたわね、小春葵」
葵は「ありがとうございます」とだけ返した。
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翌日の昼休み、颯が食堂に飛び込んできた。
葵を見つけると、まっすぐに来た。
「葵」
「どうしたの?」
「リオが——倒れた」
葵は手を止めた。
「さっき。授業中に急に崩れて、そのまま起き上がってこない。今は保健室だ。カヴィヤ先輩が診てくれているが、意識がない」
颯の声が、少し震えていた。
「悪夢が続いてたんだろ。それが——限界になったのか」
葵は何も言わなかった。
颯はしばらく葵を見ていた。それから、少し声を落として言った。
「お前、最近リオのこと気にかけてたよな。何か、考えがあるんじゃないのか」
葵は少し間を置いてから、話した。
リオの夢に入れる神魔を探していたこと。
バクという妖魔のこと。中国の妖界ゲートから入れる妖界で会えること。
生徒会の遠征制度を使う予定であること。
颯は黙って聞いていた。話が終わると、一度だけ頷いた。
「俺も行く」
「危険かもしれない——」
「リオが今、保健室で眠り続けてるんだろ、このまま死んじまったら後悔してもしきれねえよ」
颯はそれだけ言った。葵の顔を、まっすぐに見ていた。
ライラが胸元で、温かく揺れた。
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中国への移動は、蒼玲が手配した機体で行った。
小型の飛行機だった。魔法で推進する設計で、速かった。島を出てから二時間もかからなかった。
颯は窓の外をずっと見ていた。
葵はライラの気配を確かめながら、端末を開いた。神魔解析録のバクの項目を確認した。解析度——0%。まずここから始めるしかない。
山奥の着陸地点は、木々の間の小さな空き地だった。天龍集団の管理区域。人の気配はなかった。空気が冷たかった。
少し歩くと、石造りの門があった。古びていたが、崩れていない。手入れされている。門の横に小さな標識が立っていた。漢字で何か書いてある。葵には読めなかったが、ここだとわかった。
「これか」と颯が言った。
門をくぐった。その先に、石畳の通路があった。通路の両端に低い石灯籠が並んでいる。灯籠の中に光はなかったが、どこからか薄い光が漏れていた。通路の奥が、わずかに揺らいで見えた。
「手を貸して」と葵は言った。
颯が手を差し出した。葵がその手を取った。
ライラが光を強めた。通路の奥の揺らぎが大きくなって——空気が裂けた。光の向こうに、別の場所があった。
颯の手が、わずかに震えた。
葵はそれを感じた。でも何も言わなかった。
二人で、踏み込んだ。
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霧の中だった。
足元が見えない。白い霧が、どこまでも続いていた。音がなかった。
「なんも見えない」と颯が言った。低い声だった。
ライラが光を強めた。霧が少し、薄れた。
奥に——竹林があった。
巨大な竹が、どこまでも続いている。見上げても上が見えない。竹は青白く発光していた。光があるのに、周囲は明るくならない。光だけがあって、明るさがない——そういう場所だった。石畳の道が一本、竹林の奥へ続いていた。風のない風の音がした。竹が揺れていた。
颯がしばらく黙っていた。
「……なんか、綺麗だな」
葵は颯の横顔を見た。怖がっているのに、そう言った。
葵は竹林を見た。体が、何も知らなかった。どこへ向かえばいいかもわからない。それだけは、確かだった。
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石畳を歩いた。
竹林の中に、気配があった。枝の陰に何かがいる。形がはっきりしない——光の粒のような、影のような。こちらを見ていたが、動かなかった。
「あれ、何」と颯が小声で言った。
ライラが「悪意はない。珍しいものを見てる感じ」と言った。
颯は少し固まった。「喋るの」と言った。
「喋るよ」とライラが言った。
「……初めて聞いた」
「葵にしか聞こえないようにしてたから」
颯はそれを聞いて、少し間を置いた。「そうか」とだけ言った。何かをちゃんと受け取ったときの颯の顔だった。
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石畳の先に、小さな池があった。
水面が鏡のように静かだった。水の中に何かが映っていた——現実の空ではない。暗い場所の景色が、ゆらゆらと揺れていた。
池のほとりに、小さな生き物がいた。
丸い体。短い象の鼻。大きな目が、青白く光っている。石の上に座って、池の水面を眺めていた。ライラより少し大きかった。
「バク」とライラが小さく言った。
葵は端末を開いた。神魔解析録を起動した。バクの項目が出た。解析度——0%。
バクは葵たちに気づいていた。逃げなかった。ただ、大きな目でじっとこちらを見た。
葵はゆっくりと近づいた。
バクが動いた。
素早かった。石の上から飛び降りて、竹林の中へ逃げようとした。葵は体ごと飛び込んで、両手でその丸い体を捕まえた。
「——っ」
暴れた。短い足をばたつかせ、象の鼻を振り回した。葵の腕を鼻でぺちぺち叩いた。思ったより力があった。それでも、葵は離さなかった。
颯が「大丈夫か」と言った。
「大丈夫」
葵は捕まえたまま、片手でゆっくりと背中を撫でた。丸い背中だった。温かかった。毛並みが柔らかかった。
バクは暴れ続けた。鼻がぺちぺち当たった。
でも、少しずつ——暴れ方が弱くなった。
十秒、二十秒。
ある瞬間、ふっと力が抜けた。
あきらめたらしかった。丸い体が、葵の腕の中でおとなしくなった。大きな目が、上目遣いに葵を見た。
颯が「なんか可愛いな」と言った。
ライラが「そうだね」と言った。
葵は撫で続けた。解析録のカウンターが、ゆっくりと上がっていった。
10%。
30%。
外見の記述が出始めた。体長25センチ前後。象の鼻。丸い体。青白く発光する大きな目。
50%。
弱点が見え始めた。水属性。光に弱い。
颯が「それ、何やってるの」と聞いた。
「データを集めてる。撫でながら」
「……なんか独特なやり方だな」
70%。
バクの行動傾向が記録された。夢の気配を好む。現実の光を嫌う。単独行動。臆病だが一度慣れると人に懐く傾向がある。
90%。
バクが短く鼻を鳴らした。もう暴れなかった。葵の腕の中で、少し丸まった。
100%。
完全解析。
葵はしばらく、そのまま撫で続けた。バクの丸い背中が、手のひらに温かかった。
「ありがとう」と葵は言った。
バクは大きな目で葵を見た。それから短く鼻を鳴らして、葵の腕から静かに降りた。池のほとりの石の上に戻って、また水面を眺め始めた。
「……撫でられてたの、嫌じゃなかったのかな」とライラが言った。
「嫌そうではなかった」と葵は言った。
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今日は、ここまでのつもりだった。
葵は石畳の上に座った。バクの方を見た。バクは池の水面を眺めたまま、動かなかった。
葵は目を閉じた。
やることは一つだった。今日助けたい人間の顔を、できるだけ鮮明に、思い浮かべる。それだけだ。
葵は頭の中に、リオの顔を思い浮かべた。
食堂の端の席。トレーに手をつけないまま座っていたあの横顔。「死ぬのが当たり前みたいな気がしてきた」と言った、あの声。今日の昼、授業中に崩れ落ちたと颯が言っていた。今もまだ、保健室で眠り続けているはずだ。
バクの鼻が、葵の手のひらにそっと触れた。
葵は目を開けなかった。
バクの鼻は、離れなかった。
そのまま——意識が、沈んでいった。
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暗い場所だった。
石の廊下。出口がない。どこまでも続いている。壁に窓がない。天井が低い。遠くから足音が聞こえた。一定のリズムで、近づいてくる。
——リオの夢だ。
葵はしばらく廊下に立ったまま、動かなかった。体がどこへ向かえばいいかわからなかった。
怪物が来た。
光の魔法で照らした瞬間——見えた。
上半身は人の形をしていた。でも皮膚がなく、肉と骨だけが露出していた。頭部は歪んでいて、目が四つあった。人間の顔の比率をひどく引き伸ばしたような、でもどこか女の顔に似た形。ヤギのような角が生えた頭から、長い髪が重力に逆らって広がっていた。
だが——下半身が、おかしかった。
馬の後脚に似た形をしていた。ただし、機械だった。継ぎ目に油が滲んでいた。関節部分にネジとボルトが見えた。踏み込むたびに、金属の音がした。
——何かが、おかしい。
その違和感を頭の隅に置いたまま、葵は動いた。
光の魔法を放った。怪物が怯んだ。後退した。でも——消えなかった。次は倒す。
追撃の光の魔法を放ちかけた——その瞬間。
意識が、引き戻される感覚があった。
――――――――――――――――――――――――
目が開いた。
石畳。池。竹林の青白い光。
颯が「大丈夫か」と言った。
葵は少し間を置いてから立ち上がった。
「入れた」
颯が「え」と言った。
「夢の中に。バクが——連れて行ってくれた」
颯は葵とバクを交互に見た。バクはすでに池のほとりの石に戻って、また水面を眺めていた。
「契約もしてないのに?」
「……サービスだったのかもしれない」
颯はしばらく黙った。それから「お前、なんか動物に好かれるよな」と言った。
「リオの夢に、異常な怪物が入り込んでいる」と葵は言った。
「上半身は人に似た形をしていたけど、下半身が機械でできていた。ネジとボルトが見えた」
颯が「機械?」と繰り返した。
葵は頷いた。
「神魔は神話上の存在でしょ、神話の時代に金属の機械はないはずだから、そんな神魔なんてあり得ないと思うんだ」
颯はしばらく黙った。「つまり」と言った。
「誰かが、そいつを作ったということなのか」
「もしかしたらそうなのかもしれない」
颯の顔が、少し変わった。怖い、というのとは違う。何かの輪郭が見えてきたときの、緊張した顔だった。
「帰ろう」と颯が言った。「長居できないんだろ」
「うん」
二人で石畳を戻り始めた。竹林がまた、風のない風の音を立てていた。枝の陰から、あの気配がまた見ていた。
しばらく歩いて、颯が静かに言った。
「葵、お前の見てる世界——俺には全然見えないんだな」
葵は何も言わなかった。
颯が続けた。
「でも——来てよかった」
それだけだった。
ライラが胸元で、温かく揺れた。
――――――――――――――――――――――――
霧の中を抜けて、ゲートを出た。
山奥の空気が、体に戻ってきた。木々の匂い。遠くで鳥の声がした。
葵は端末を見た。神魔解析録。バク——解析度100%。
散盟の魔法陣は、まだ生成中だった。
「学園に帰ろう」と葵は言った。
颯が頷いた。
二人で、機体へ向かって歩き出した。




