第30話 散盟
翌朝、目が覚めた。
体が、軽かった。
葵はしばらく天井を見つめた。毎朝感じる重さが——ない。サナティオ・ルクスを唱える前から、どこにも違和感がなかった。
夢を見た気がする。でも内容は覚えていない。
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実習室に着くと、カヴィヤがすでにいた。
窓際の台の上に、道具が並んでいた。回復魔法に使う触媒の石、包帯、小さな瓶がいくつか。手際よく整頓されていた。
葵はその台を見た。
昨日葵が「明日も来てもらえますか」と言ったのは、夕方だった。それなのに今朝、こんなに整っている。
——いつ準備したのだろう。
カヴィヤが葵の視線に気づいた。
「念のため」と静かに言った。「使わないのが一番だけど」
悪意はなかった。心配している目だった。
葵は「ありがとうございます」と言って、椅子に腰を下ろした。その考えを、飲み込んだ。
少し遅れてリースが入ってきた。端末を見ながら歩いてきて、扉を閉めた。葵の方を一度だけ見た。
「魔法陣、完成してるか」
「はい」
葵は端末を開いた。昨夜、進捗バーが百パーセントになったのを確認していた。
「じゃあ、やってみよう」
リースはそれだけ言った。準備するでも、手順を確認するでもなく——当たり前のことを当たり前に言う、という口調だった。
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葵は端末の画面を開いた。
散盟契約魔法陣——ピクシー。
魔法陣を展開する、というボタンがある。それを押せば、魔力を消費して魔法陣が実体化し、召喚が始まる。
葵は画面を見つめた。
——僕は、死ぬのだろうか。
複数の神魔と契約を試みた人間は、例外なく死んでいる。カヴィヤがそう言っていた。だから来てくれた。台の上に道具を並べた。
怖くない、と葵は思った。
怖くない——それがおかしいのかもしれない。でも怖くない。あるべきところに、何もない感じがした。
ライラが胸元で、わずかに揺れた。葵はその温かさを確かめた。
「行くよ」
葵は画面のボタンを押した。
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魔法陣が、床に展開された。
淡い光の輪が広がって——止まった。
何も起きなかった。一秒。二秒。
三秒目に、光が揺れた。
輪の中心から、小さな何かが現れた。光の粒のような存在。翼が二枚。
ピクシーだった。
演習のときと——同じ個体だった。同じ目の色。同じ翼の形。葵を見て、少し首を傾けた。
カヴィヤが静かに息を吐いた。安堵の音だった。
リースは端末に何かを打ち込んでいた。顔を上げなかった。
「また呼んでくれたの」
ピクシーが言った。軽い声だった。
「まあ、ありがとね」
悪い感じはしなかった。明るくて、気さくで——普通に、いい相手だと思った。
でも葵は、胸元のライラの温かさを確かめた。
違う。
何が違うのかは、うまく言えない。ライラと話すとき、葵は言葉を探さなくていい。光の揺れ方だけで、もう伝わっている。でもこのピクシーとは——言葉を使って、それでも何か、届いていない感じがした。
「……よろしく」と葵は言った。
「こちらこそ」とピクシーは答えた。
それは普通の、正しいやりとりだった。
胸元でライラが、ほんのわずかに揺れた。嫉妬でも警戒でもない。ただ——「私とは違う」という静かな確認のような揺れ方だった。
葵はそっと手を当てた。
わかってる、と思った。言葉にはしなかった。でも伝わっていると思った。
光が、温かく揺れた。
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散盟は、魔力を払い切った時点で終わる。
ピクシーが消えた後、カヴィヤが葵のそばに来た。
「傷はない?」
「ないです」
「気分は」
「普通です」
カヴィヤは葵の顔を見て、もう一度息を吐いた。「よかった」と小さく言った。本当に、そう思っている声だった。
「リース先生」
葵はリースの方を見た。
「最初から、成功すると思っていましたか」
リースは端末から顔を上げた。少し間を置いた。
「思ってたよ」
「なぜ」
「君のデータを見れば、わかる」
それだけだった。どのデータか、何がわかるのか——リースは言わなかった。端末に視線を戻した。
葵はその横顔を見た。
目だけが、少し笑っていた。
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実習室を出ると、廊下はもう昼前の光だった。
葵は一人で歩いた。
リオを助けたいと思った。散盟の魔法陣を作った。召喚を試みた。成功した。
でも——なぜ死ななかったのか、葵には説明できなかった。
リースは「データを見ればわかる」と言った。カヴィヤは「よかった」と言った。
どちらも、「なぜ成功したのか」を教えてくれなかった。
——僕は、誰かに助けてもらったのだろうか。
それとも——最初からこうなると、決まっていたのだろうか。
どちらの方が、怖いのか。
答えは出なかった。
「ライラ」
「うん」
「僕が死ななかったのは——なんで?」
ライラは少し間を置いた。
「……わからない」
葵はその「わからない」を、黙って受け取った。
「葵」
ライラが胸元から顔を出した。
「リオ、助けられるといいね」
「うん」
葵は歩きながら答えた。廊下の先に、昼の光が伸びていた。




