第27話 金のネクタイ
月曜の朝。
アーデルの部屋に、五時半の気配が満ちた。
アーデルが起き上がる気配。水を使う音。書類をめくる音。葵はベッドの上で目を開けたまま、しばらくそれを聞いていた。
体が重かった。夢を見た気がする。内容は覚えていない。
「光よ、満ちよ。サナティオ・ルクス」
温かさが体の奥に広がった。夜の重さが、少しずつ薄れていく。ブレスレットをつけた手首が、ほんのり光った。
ライラが胸元から顔を出した。
「おはよう」
「おはよう、ライラ」
「……よく眠れた?」
「まあまあ」
葵はそのままベッドに横になって、天井を見ていた。
なんとなく、手が動いた。上着のポケットに入れていたあの端末を、取り出した。
リースにもらった端末。擦れた縁。消えた記録。そういえばまだ、ちゃんと中を見ていなかった。
起動した。
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画面が立ち上がった。
シンプルなインターフェース。いくつかのアイコンが並んでいる。その中に「神魔解析録」という名前があった。
魔方陣のようなロード画面が表示された後、リストに切り替わった。
どうやら端末によって解析されたことがある神魔のリストらしい。
一番上に、ピクシー。
ピクシー 解析度:100%
完全解析だった。外見の欄に記述がある。
髪が青白く発光している。緑の目。小さな透明の翼。体長12センチ前後。
悪意などの感情的な気配を敏感に感じ取れる。闇魔法が弱点。
葵はその記述をしばらく見ていた。
ライラの姿が、そのまま書いてあった。
「……ライラ」
「なに」
「ここに、ライラのことが書いてある」
ライラは少し間を置いた。胸元で、じっと静かにした。
「……どんなこと」
「外見とか、弱点とか。全部」
「そう、いつも一緒にいるもんね」
ライラは何も言わなかった。葵もそれ以上聞かなかった。
次を見た。
ファントム 解析度:62%
50パーセントを超えると外見記録が入るらしかった。記述があった。
人の形をしているが、人ではない。全身が黒いもやに包まれ、目だけが赤く光っている。光魔法が弱点。群れで行動する傾向がある。
説明を読んだ瞬間、体が何かを思い出しかけた。
次へ。
餓鬼 解析度:42%
ウィルオウィスプ 解析度:30%
ピシャーチャ 解析度:21%
他にも知らない名前ばかりだった。でもなぜかデータがある。
そして、一番下に。
バラキエル 解析度:1%
葵は手を止めた。
バラキエル。この神魔のランクは、上のどの神魔よりも遥かに高い。
解析度が1パーセントしかないのに登録されているということは。一度だけ、遠くから存在を感知した程度のデータしかない、ということだろうか。
前の持ち主の端末に残っていたデータが、こちらに引き継がれたのかもしれない。
葵は端末の検索機能を開いた。「バラキエル」と入力した。
結果が出た。
バラキエル。ヘブライ語で「神の祝福」という名前を持つ大天使。希望・夢・祝福を司る天使とされる。契約神魔としては、人間の夢の中に干渉する力を持つとの記述が一部の文献に見られる。詳細な記録は少ない。
葵はその記述を、二度読んだ。
夢の中に干渉する力。なぜかその一文が気になった。
葵は端末を上着のポケットにしまった。
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Sクラスの校舎棟は北棟の奥にある。廊下が広く、天井が高い。仮クラスのときとは違う空気が流れていた。静かで、どこか引き締まっている。
葵は廊下を歩きながら、金のネクタイを一度だけ触った。
ライラが胸元で「大丈夫?」と聞いた。
「大丈夫」と葵は答えた。
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Sクラスの教室は北棟の突き当たりにあった。
扉を開けると、すでに何人かがいた。窓際の席にエリックが座って、端末を見ていた。他の数人は話していたり、教科書を広げていたりしていた。
葵が入ってきた瞬間、室内の視線が一度だけ葵に向いた。
エリックだけが、小さく顎を引いた。挨拶の代わりらしかった。葵も同じようにした。
それ以外は、何もなかった。
葵は空いている席に荷物を置いた。
しばらくして、扉が開いた。
「おはよう、みんな」
入ってきたのは、葵の知らない教師だった。
三十代後半くらいだろうか。薄茶色の髪をきれいに整えていて、仕立ての良いスーツを着ている。愛想のいい笑顔だった。清潔感があり、第一印象は悪くない。
「あ、新入りが来たね、僕がSクラスの担任のモロー。ファビアン・モロー。今年からよろしくね」
軽い口調だった。担任にしては、妙に軽かった。
モローは葵の方を見た。にこやかな顔のまま、葵を見た。
「小春葵くん? 仮クラスからのSクラス配属は初めてのケースだから、僕も驚いてるよ。まあ、学園長の特例だしね。うまくやっていこう」
うまくやっていこう。その言葉が、葵には何も言っていないのと同じに聞こえた。
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少し遅れて、明るいブラウンの髪を横に流した男子が入ってきた。その後ろにもう一人、似た雰囲気の男子。
演習で口元に薄い笑みを浮かべていた、あの二人だった。
二人は教室に入った瞬間に葵を見た。一瞬だけ。それから表情を消して、自分の席へ向かった。
「ルシアン、遅い遅い」とモローが笑った。「まあ、今日は初日だから大目に見るよ」
ルシアンは返事をしなかった。席に着いた。
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一限が始まった。
Sクラスの授業は速かった。前提とされている知識の量が違う。葵は必死でノートを取りながら、ついていくことに集中した。
授業の途中、モローがペアを組むよう指示した。
生徒たちが動いた。葵は立ち上がった。
誰も葵に声をかけなかった。
近くの席の生徒に視線を向けると、すでに別の相手と組んでいた。別の方向を見ると、目が合った瞬間に逸らされた。
モローが教室を見渡していた。葵が一人取り残されているのは、見えているはずだった。
でもモローは何も言わなかった。「じゃあ適当に組んで」と言って、自分の端末に目を落とした。
椅子を引く音がした。
エリックが立ち上がって、葵の方へ来た。
「組む」
それだけだった。説明も、気遣いの言葉もなかった。ただ、当然のように葵の前に立った。
葵はモローの方を一度だけ見た。モローはまだ端末を見ていた。
「……ありがとうございます」
エリックは「礼はいい」とだけ言った。
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昼休み。
葵は一人で食堂に向かった。颯も茜も、今はAクラスとBクラスの棟にいる。ここには来られない。
トレイを持って端の席に座ると、隣にエリックが来た。トレイを置いて、当然のように座った。
「ここが空いていた」
「……そうですか」
それ以上の会話はなかった。でも、悪い沈黙ではなかった。
食事が半分ほど進んだとき、食堂の入口の方からルシアンの声が聞こえた。
「Sクラスに馴染もうとしているのか、仮クラスのやつは」
声は葵に向けていた。食堂の他の生徒の視線が、葵に集まった。
「コネも実力もないやつが金のネクタイをしているのは、滑稽だと思わないか」
エリックがトレイから顔を上げた。ルシアンを見た。
「ルシアン」
「何だ、エリック」
「食事中だ」
ルシアンは少し間を置いた。それから、何も言わずに自分の席に向かった。
食堂の視線が、少しずつ散っていった。
葵はトレイを見たまま、食事を続けた。
エリックも何も言わなかった。ただ食事を再開した。
ライラが胸元で、小さく光を揺らした。
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ルシアンが昼休みに話しかけてきてから、数日が経った。
放課後、廊下を歩いていると、後ろから声がした。
「おい、仮クラス出身」
振り返ると、ルシアンが一人で立っていた。
「一つだけ聞く」
「何か」
「あの演習、お前は正当に勝ったと思っているか」
葵は少し間を置いた。
「……わかりません」
「わからない」
「二体目が出てきた理由が、僕自身にわからないので」
ルシアンは少し黙った。
「……それを聞いて、少し驚いた。もっと言い訳をすると思った」
「言い訳のしようがないので」
「そうか」
ルシアンはそれ以上は言わなかった。廊下を歩いていった。
ライラが胸元で「悪意は、消えていない」と小さく言った。
「うん、知ってる」
「でも……なんか、複雑な感じがした」
「そうだね」
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数日が経った。
木曜の朝、廊下でアーデルが葵を呼び止めた。生徒が周りにいないタイミングだった。
「小春。少し時間はあるか」
「はい」
「一つだけ聞く」
アーデルは葵を見た。いつもの切れ長の目だった。
「Aクラスに戻ることを、考えているか」
葵は少し驚いた。
「……先生は、どう思いますか」
「私の意見ではない。選択肢として、お前に聞いている」
「……戻りません」
「理由は」
「説明できない力で、ここにいる。それは本当のことです。でも、逃げる理由には、ならないと思うので」
アーデルは少し間を置いた。
「そうか」
それだけだった。アーデルは前を向いて歩いていった。
葵はその背中を見送った。
ライラが胸元で、温かく光った。
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その日の昼、廊下でルシアンとすれ違った。
ルシアンは葵を見た。立ち止まった。
「Aクラスに戻らないと聞いた」
噂は早かった。
「はい」
「なぜ」
「逃げる理由がないので」
ルシアンは少し間を置いた。それから言った。
「逃げる理由がない、か」
声のトーンが変わった。静かだったが、どこか鋭くなった。
「Sクラスから逃げるのが嫌なのか。意地だけは一人前だな」
葵は返さなかった。
「説明もできない不正な力で高い地位に居座るのは、卑怯者のすることだ」
ルシアンは歩いていった。
卑怯者。
返す言葉は、なかった。言い返せないのではなく、何が正しい返し方なのか、わからなかった。
ライラが胸元で、じっと静かにしていた。
「……ライラ」
「うん」
「僕、卑怯者かな」
ライラは少し間を置いた。
「違う」
「なんで」
「逃げてないから」
葵はその言葉を聞いて、少し黙った。
「……そうだね」
「うん」
廊下の先に、朝と同じ光が差し込んでいた。葵は歩き出した。
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翌日の放課後、学園長から呼び出しがあった。
北棟の小さな会議室。アーデルがいた。リースが壁際に立っていた。学園長が上座に座っていた。
「小春葵、お前に対するクラス分け演習中の不正を調査せよという嘆願が、Sクラスの生徒を中心に多く届いておる」
学園長が静かに言った。
「私はこれを退けてもよかった。先日、私が特例として認めた件だ。私が押し通せば、それで終わる話だ」
葵は少し驚いて顔を上げた。
「だが、退けない」
学園長の声は変わらなかった。
「お前の立場を、これから盤石にするためだ。私の特例で押し通したままでは、お前は『学園長の温情で残った仮クラス出身』のままで終わる。それは、お前のためにならない」
葵は黙って聞いていた。
「来週の月曜日、生徒会で審査の場を設ける。お前には出席し、申し立てに対して返答する機会が与えられる」
「……わかりました」
「怖いか」
葵は正直に答えた。
「怖いとは思わないです。でも、自分でも、うまく説明できない部分があるので。それが、少し」
「説明できないことを、恥だと思うか」
葵は少し間を置いた。
「恥だとは思わないです。でも……説明できないまま誰かの前に立つのは、しんどいとは思います」
学園長は静かに頷いた。
「説明できないことを、無理に説明する必要はない」
葵は学園長を見た。
「お前にできるのは、お前が見たもの、お前が感じたものを、そのまま言葉にすることだ。それで足りる」
「……足りますか」
「足りる。お前の言葉は、お前が思っているより遠くまで届く」
それだけ言って、学園長は視線を窓の方へ向けた。
「それと、もう一つ」
「はい」
「審査の場で、お前が説明できない自分を恥じる必要はない。説明できる人間ばかりが正しいとは限らん。説明できないまま、それでもそこに立っている、ということ自体に意味がある」
葵は学園長の顔を見た。皺の刻まれた顔。深い疲労と、深みのある目。何かを長く見てきた目だった。
「……わかりました」
リースが壁際から一度だけ葵を見た。静かな、何かを測る目だった。何も言わなかった。
葵は会議室を出た。
廊下に出ると、夕方の光が差し込んでいた。
ライラが胸元から顔を出した。
「葵」
「うん」
「しんどい、って言えたね」
葵は少し考えた。
「……そうだね」
「えらい」
「そんなことで」
「えらい」
ライラは繰り返した。葵はそれ以上言わなかった。
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廊下を歩きながら、来週のことを考えた。
説明できないまま、誰かの前に立つ。
学園長の言葉が、頭の中にまだ残っていた。
——お前の言葉は、お前が思っているより遠くまで届く。
葵にはまだ、その意味は分からなかった。
ただ、頭の中で、それが温かかった。
葵は北棟の廊下を曲がった。




