1 木犀の薫る朝⑧
集中が切れ、碧生は筆を置く。
四文字共に、現時点で納得できるものが書けた。
思いながら碧生は、ひとつ息をつき、肩や首を回す。
かなり集中して書いていたからか、凝り固まった首がごりッと鳴った。
「……ふーん」
後ろからそんな声が聞こえてきて、碧生はぎょっとする。
振り向くと、一体いつからなのかわからないが、ナンフウがぬぼっとつっ立っていた。
「お前……結構やるやんけ。銀雪先生が見込んだんは、マチガイとか身びいきとかでもなさそうやな」
口許が悔しそうに引きつってはいるものの、一応、この男なりに褒めている様子だ。
(……ははは)
相変わらず、滅茶苦茶失礼な奴ではあるが。
敵認定した相手を何が何でも否定してくるほど、愚か者ではなさそう、だ。
……鬱陶しいのは変わらないが。
「碧生くん。ナンフウくんが書いた作品、見せてもらったら?」
様子を見ていた銀雪先生の声が響いてきた。ナンフウは一瞬、ギクッと身体を揺らせたが、諦めたというか覚悟を決めたというか、そんな目になると
「おう、来いよ」
と、あごをしゃくった。
別にどっちでもエエねんけどな、と思いつつも、銀雪先生の指示でもある。
碧生は立ち上がり、ナンフウの席へ移動した。
ナンフウの机の上には、『明』『鏡』『止』『水』、それぞれを書いた半紙が乗っていた。
(……んん?)
不思議な話だが、『見たことがある字』と思わせられたのだ。
楷書ながら、紙を穿つような勢いを感じさせる筆致。
はっきり言って楷書らしい端正さはあまり感じない(印象として、暴れたがっている獣を無理に制して大人しくさせている、ような字だ)が、悪くない。
上手とか下手とかを超越して、なんだか心に残る……。
(……あ!)
不意に碧生の脳裏に一昨年の展覧会が浮かぶ。
その時の『特別枠』に出品された作品のひとつに、碧生は、心の底から打ちのめされたのだ。
半切に書かれた『天衣無縫』。
濃淡の差が激しい作品であり、特に最後の『縫』などはかすれようがどうしようがお構いなし、という雰囲気の、勢いのある筆致で書かれていた。
教科書的な意味で上手いかどうかといえば、必ずしも上手いとは言えないだろう。
だが……何故か。
目が離せない。
さながら小さな子供が、全力疾走で嬉しそうにこちらへ向かってくるような、明るい圧力もしくは吸引力。
碧生はしばらく息を忘れた。
正に天衣無縫、天人の衣に小賢しい糸目など不要だと、呵々大笑しているような作品だった。
(これが、書、なんや……)
自分と同じ小六の子供の作品だということを確認し、彼はさらに打ちのめされた。
自分がやってきたのは手習い、お習字。
学年以上の実力を身につけたつもりでいたが、今の自分は単に『綺麗な字を書けるように訓練した』だけ。
それが悪い訳ではなかろうが、綺麗な字が必要ならば究極の話、機械に任せればいい。
(オレ。書道、やりたい)
その時、彼は生まれて初めて、自分から何かを『やりたい』と思った……。
「おい。おい、結木。どないしてん、ナニ固まってんねん」
不審そうなナンフウの声に、碧生は我に返る。
さすがにやや心配そうにこちらを覗き込んでいる南国風のイケメン面を、碧生は改めて凝視する。
(……コイツ。あの時の『天衣無縫』の作者かよ!)
冷たい汗が背筋をつたう。
絶対そうとは言えない。が、ほぼ確定だ。
字から醸し出される、圧力もしくは吸引力。
言い換えるなら、個性とか魅力と表現されるものでもあろう。
それが、あの時の『天衣無縫』と同じ。
『形だけ綺麗』な自分にはない、天性のナニか。
「あー……」
碧生はなんとか声を押し出した。額に冷汗がにじんでいるのを自覚する。
「なんちゅーか。上手いとか下手とか、イチガイには言えんねんけど……」
「はあ?」
機嫌を悪くしかけたナンフウへ、碧生は真顔で告げる。
「お前が雅号持ちなんは、オレ、メッチャ納得できた。圧、ってゆうのんかな? 独特の、ナンか……、ある字ィやな」
ナンフウは絶句し、赤面して目をそらせた。
「……お前さ。学校で、天然って言われへんか?」
前後の脈絡なくそう言われ、碧生は軽く首を傾げつつも真面目に答えた。
「うーん? そう言われたら何回か言われたことあるかなァ。せやけど、それがどうしたんや?」
「いや、どうしたもこうしたも……」
小声でぶつぶつ言った後、ナンフウはへらっと笑う。
笑うと意外にかわいらしい顔だった。
不意にナンフウの身体から、とげとげしいまでの敵意というか戦闘オーラというかが、消えた。
「あー、ナンか、気ィ抜けたワ」
そんなことを言い、ナンフウは、自分の机の上の作品をまとめた。




