1 木犀の薫る朝⑦
書きたい題材、と言われても、まったく思い浮かばなかった碧生は、素直に銀雪先生へそう言った。
「……小学校の卒業文集で、好きな言葉を書けって言われた時も困りました。色々考えて『努力』にしたんですけど、本音は、別にその言葉が好きでも嫌いでもないといいますか。ボクは天才やないねんから結局『努力』せんとアカンやろな~みたいな感じに、消去法っていうか、しゃーないっていうか、ショボい決め方したんです」
あっはっは、と、突然銀雪先生は大笑いした。別にそんなに可笑しいことを言ったつもりはないので、碧生は目をぱちくりさせて銀雪先生の顔を見た。
「ああ、ごめん。悪気があって笑った訳やないねん」
笑いをこらえた顔で、先生はちょっと済まなさそうに言い訳した。
「碧生くんらしいなっていうのんか。仮にも『先生』と名の付く相手に、そんな本音丸出しっていうか気合の入ってへん答えを大真面目にするところが、ある意味大物やな~って」
「……はあ」
首を傾げている碧生へ、銀雪先生は表情を改める。
「とりあえず。そこで膠着しててもしゃーないし。大人のヒト向けの手本の中から、今回の題材に合いそうなものをいくつか用意しました。ちょっと見て、気に入ったのがあったら今日はそれを軽くさらってみましょか?」
半切の画仙紙に、朱墨で書かれたものが広げられた。
漢詩や古典などの一節が多い印象だ。
しかし、篆書の『国破山河在 城春草木深』だの『ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ』だのの万葉仮名まじりの手本を見ても、正直な話、ピンと来ない。
いや、決してその手本で書くのが嫌なのではない。やってみたら面白そうだと思う(特に篆書)が、『ぜひ書きたい!』とまでのパッションは湧かない。
一枚、また一枚と、ゆっくりと手本を見ているうち、ふと彼の手が止まる。
『明鏡止水』
端正な楷書で書かれた四文字。
半切の中、絶妙のバランスで書かれたその四文字に、碧生の心は奪われた。
(めいきょう、しすい)
その四字熟語自体は、どこかで見聞きしたようなぼんやりとした記憶がある。が、ちゃんとした意味は知らない。
字から考え、漣ひとつない池なり湖の水面が鏡のように澄んでいる……とでもいう状態かと思う。
(明鏡、止水)
何故だろう、心惹かれる。
「……それにする?」
静かに問う銀雪先生へ、碧生は、はいとうなずいた。
今日のところは半紙に、『明』『鏡』『止』『水』それぞれを、一文字ずつ書くという形の稽古になった。
手本を見やすく折りたたんで一文字ずつ、ゆっくり丁寧に書くように指示を受けたところで、
「センセイ」
という、若干固い声が上から落ちてきた。
いつの間にかナンフウが、碧生の後ろにぬっと立っていたのだ。
ほとんど気配もしなかったので、碧生は冗談抜きでビックリした。
「ボク、今月の課題は家で書いてきたのんもありますし、まあある程度は仕上がってるかなと自分では思います。余裕なくもないですから、今日はソイツ(と、あごで碧生を指しながら)の書く手本で、ボクも書いてみたいんですけど、かまいませんか?」
(な、なんやねんコイツ。バチバチに煽ってきよるやん)
……よくわからないが。
どうやらナンフウは、一方的に碧生に対して敵意を燃やし、一方的に戦闘モードに入っているっぽい様子だ。
面倒くさいヤツやな、と、碧生はうんざりしてナンフウの顔を見上げた。
浅黒い肌の輪郭の中、かっきりとした大きめの目鼻が絶妙のバランスで収まっている。
よく見ると、そこそこ以上のイケメン、だ。
イケメンのお坊ちゃまが、モブ顔のオレにマジでバトル仕掛けてくんなや、うっとうしい。
思い、碧生はわざと大きく、ため息をついてやった。
ムッとした顔でナンフウはこちらを見たが、特に何も言わなかった。
銀雪先生は少しばかり意地の悪い笑みを口許に含み、言った。
「ええよ。『明鏡止水』の手本は複数あるし、ナンフウくんも書いてみたら? ナンフウくんが苦手にしてる楷書やけど、せやからこそ勉強になるやろうし、ねえ」
あっさり、そういうことになってしまった。
ムカムカするが、碧生は今日ここへ、『字を書くため、練習をするために来た』のだ。
中学生時代最後、あるいは人生で最後かもしれない、本気の大作を書くつもりでいるのだ。
初対面でいきなりバトルをかましてくる鬱陶しいバカの相手など、していられない。
強いて心を落ち着かせ、彼は、おろしたばかりの新しい筆に墨汁を含ませる。
ただ、書く。
『明』『鏡』『止』『水』。
白の中に墨の黒で、文字という存在を浮き上がらせる。
妥協のない、端正な線で。
いつしか、碧生の中から雑念が消えていた。




