1 木犀の薫る朝⑤
穏やかな風が吹く、あたたかな昼下がりだ。
いつもより若干かさばる荷物を手に、碧生は、ゆっくり歩いて書道教室への道を行く。
木犀は今、花盛りらしい。
花の濃い香りが町中に満ちている。
今日、作品にする題材を選ぶ予定だ。
多分、銀雪先生の方でも幾つか候補を用意してくれているだろうが、もし自分で書きたいと思う題材があればそれを書きましょう、とも言われている。
今まで碧生は(子供だから当然かもしれないが)、決められた課題をきっちり書くことしかしてこなかったので、『書きたい題材』と言われてもピンとこず、戸惑った。
「とりあえず、好きな言葉とか座右の銘とか。その辺のイメージでエエねんけど」
銀雪先生の言葉へ、
「あ、はあ……」
と、心細そうな顔で頼りない返事をする碧生。銀雪先生はほほ笑ましそうな可笑しそうな、そんな笑みを浮かべる。
「まあ、今度の日曜日までにちょっと考えといて。別に、絶対そうせんとアカンとまでは言わんけど、碧生くんの初めての『作品』やねんから。碧生くんの内側から湧いて出てくるものを書いた方がエエと、私は思いますよ」
「えっと、う、ウチガワ、です、か?」
思わず片言っぽくなりながら碧生は答える。
『作品』という言葉にも、なんだか改めてドキドキする。
そうか、これから書くのはオレの『作品』、お手本をなぞるだけの『課題』とは違うんだと、初めて彼は思った。
教室の手前にあるいつもの角を曲がった瞬間、とても濃い木犀の香りがして、碧生は一瞬、立ち止まった。
その時、ひとりの若い女性が足早に、碧生の横をすり抜けるようにして歩いていった。
(え?)
彼女の顔をはっきり見たわけではなかったが。
佇まいというか歩く姿に、すさまじいまでの既視感がある人だった。
(え? ええ? まさか……)
あの時……碧生が小学校一年生の頃に会った、あのお姉さん?
(いや、そんな訳ないやん……)
あのお姉さんに会ったのは、もう七年も前になる。
その時二十歳前後だったお姉さんが、今も二十歳前後(にしか見えないビジュアル)な訳がない。
もっと落ち着いた、有体にいうならおばさんに近いお姉さんになっている、筈。
ひとつ息をつき、碧生は意味もなく空を見上げた。
秋らしく澄んだ青い空は、あの日と同じくらい、やけに美しかった。
思い直し、気持ちを切り替えた碧生は、いつも通り教室の扉を開けながら
「こんにちは、失礼します」
と挨拶をし、靴を脱いだ。
いつもはここで特にリアクションはないが(普段はすでに数人の生徒が来ていて、先生は手が離せないことが多いから)、今日は少し違った。
奥の方から軽い足音が響いてきたかと思うと、だしぬけにぬっと、背の高い少年が碧生の前に立ちはだかった。
『立ちはだかった』はややオーバーかもしれないが、さほど広くない廊下の真ん中に立って胡散臭そうにこちらを見ながら腕組みしているのだから、この表現でも間違いではあるまい。
黒の七分丈のTシャツの上に焦げ茶色のカモフラ模様のベスト、ベストと共布のカーゴパンツ。
ヤンチャというほどでもないが、大人しい服装ではあるまい。
浅黒い肌で彫りの深い、かっきりした目鼻立ちの少年だ。
なんとなく、南国の血を感じさせる雰囲気の顔立ちでもある。
「よお」
そいつは、やけに馴れ馴れしいというか偉そうなというか、そんな感じで声をかけてきた。
「お前、結木とかいうヤツやろ? 今回、この教室の特別枠で出品する予定の……」
「……ああ。まあ、そうやけど」
なんじゃコイツ態度悪いなと思いながら、碧生は静かに答えた。
名前くらい名乗らんかい、と思いつつも、コイツが誰かの予測くらいはつく。
例の、コネでウチの教室へ来てるナントカ先生の息子、とかいう箱入りお坊ちゃまだろう。
予想以上に嫌な奴やんけ、と、碧生はげんなりした。
げんなりしている碧生に気付いているのかいないのか、『お坊ちゃま』はニヤッとした。
「ふん。まあ、今日ははじめましてになるし、今後ともよろしくな。オレは波多野。波多野棕櫚。学年は中二や」
「ふうん。オレは結木、学年はお前と一緒」
碧生はぶっきらぼうにそう答えたが、お坊ちゃまこと波多野少年は、あまり気にしていなさそうだった。
再びニヤッとすると
「おう。特別枠出品に関しては、オレも経験者ってゆうか、お前の先輩でもあるんやで。アレはメッチャ勉強になるしィ、なんちゅーても面白いで。まあ、頑張ってくれや」
と、実に実に偉そうに言いやがった。
さいですか、と、ムカムカしながら碧生は胸で独り言つ。
これから、こんな奴と鼻を突き合わせて作品を書かなければならないかと思うと、なんだか心が暗くなってきた。
「ナンフウくん」
後ろから響いてきたのは銀雪先生の声。
「あ、さっそく二人とも仲良うなったん? 良かったやん、お互い切磋琢磨する、エエ仲間が出来たねえ」
銀雪先生はにこにこしながら、のんきなことを言う。
「ほんなら、碧生くんにナンフウくん。ボチボチ始めましょか」
「……ナンフウ?」
波多野棕櫚、と名乗ったはずのコイツが、何故か先生に『ナンフウ』と呼ばれていることに、碧生は軽く首をかしげる。
するとヤツは、やや得意そうに碧生を見下ろしながら(ヤツの方が10㎝ほど背が高いので、ある程度こうなるのは仕方がないが、碧生的には面白くない)、
「あ、ナンフウはオレの、雅号。小六ん時に特別枠に出品して、まあソコソコ評価された祝いにって、親父が付けてくれたんや。南の風って書いて、ナンフウって読むねん。せやから、お前もソッチで呼んでくれや」
と、やや得意そうに小鼻をふくらませてヤツは言った。
(はああ? が、雅号? 雅号やと?)
中学生のガキンチョの分際で、雅号?
書道の先生の息子って、ガキンチョの頃から雅号なんて大層なもん、持つのがフツ―というか、常識なんか?
目を剥きながら碧生は思う。
なんだか……いろいろな意味で、前途多難な予感がした。




