1 木犀の薫る朝④
日曜日、午後一時。
結木碧生は今日初めて、一時半から始まり、大体二時間ほどの予定である『野崎銀雪書道教室』の『一般の部』へと向かう。
あの翌日、碧生は母と一緒に銀雪先生に挨拶をしに行った。
銀雪先生の言うには、
『お月謝に関しては通常のままでいいです』。
何故なら
『特別枠の生徒を出せるのは教室の名誉でもあるので(本人への参加の打診の前に、特別枠に出せるだけの実力がある生徒か否かの事前審査が、月毎の提出課題を基に協会の方で、全生徒対象に夏ごろまでに行われているのだそう。そこを通過した生徒――全体の約1~5%程度――だけが、教室の主宰者と本人の意向で、実際に参加するかどうかが決定されるシステム、らしい。想像以上に厳しい条件で、碧生も母も驚く。なるほど色違いポケモン並みのレアキャラなはずだと、碧生はひそかに思った)、展覧会特別枠出品のサポートに金銭的な負担は基本、考えなくていい』
から。
「……ただまあ、かなり本格的な作品を書いていただくことになりますので。通常使ってる練習用の半紙や、子供さんが使うごく初心者用の筆なんかではちょっと、思う通りの作品を書くんはむつかしィんやないかと。子供さんが使うにしては高価な道具類が必要になってきますので、その辺はご本人とご家庭の考え方もありますし」
銀雪先生の言葉だ。
母は、碧生の書道の実力が漠然と思っていたより上らしいと知らされたからか、上機嫌だ。
彼女は、せっかくの機会なので息子にはどんどん挑戦してもらいたい、などと調子のいいことを言い、銀雪先生に勧められるまま、大きな筆や大判の下敷き、固形の墨、当面の練習に使う半切の画仙紙100枚……などを、気前よく買ってくれた。
追加の授業料がいらないとなったので、余計気前よくなったのではないかと碧生は思ったが、何にせよ気持ちよく買ってくれたのは有り難い。
「碧生くん。今月分の課題は、明後日の土曜日と来週の水曜日で仕上げてしまいましょ。それ以降は十月の末まで、展覧会用の作品に集中した方がエエと思いますよ。通常のお稽古日に来てくれはってももちろん指導しますけど、小さい子ォらもいてはるから、碧生くんも落ち着かんでしょう。基本は日曜日の、一般の部の方へ来てもらった方がシッカリ腰を据えて書けると思います。後はおウチで自主練って形になるかなァと」
銀雪先生は言った。
なるほど、と碧生は、はいと返事をしながら思う。
もちろん通常時よりも指導時間は増えるだろうが、水曜と土曜に通う代わり、一時的に日曜に通うような形になるから月謝は余計に取らないんだな、と納得したのだ。
ふと彼は、オレってさっきから金のことばっかりに気がいくなァと我ながらちょっと嫌になった。が、この辺は多分、貧乏人の小せがれの性みたいなものだろう。
「一般の部は、趣味が半分以上で通ってはる大人のヒトの為の気楽な教室なんですよ。生徒さんも少ないですし、落ち着いた雰囲気の中でゆっくり稽古できると思います。とりあえず、次の日曜から来てもらえたらエエと思うんやけど、ご都合はどないですか?」
特に予定はない。
よろしくお願いしますということになった。
帰り際、思い出したように銀雪先生はこう言った。
「ああ、そうそう。日曜のお稽古日は『一般の部』やから、基本は高校生以上の大人のヒトが対象やねんけど。実は一、二ヶ月前から、碧生くんと同い年の男の子が通ってやるねん」
ふふふ、と、何故か先生は含み笑う。
「古くからの知り合いで、ウチの書道協会の理事もしてはる波多野恵月先生の、息子さんでなァ。なかなか面白い、エエ字ィを書く子やで。今までずっとお父さんに教わってきてやったんやけど、一回くらい身内やない先生に教わるべきやっていう恵月先生の指示で、まあ、ある種の武者修行いうんか、そういう感じで教わりに来てやるねん」
「はあ、そうなんですか。……えっと。でもその子、中学生やのに一般の部へ通ってきてるんですか?」
ずいぶんとまあ特別扱いやな、先生同士のコネってやつかなと碧生は思ったが、もしかすると日曜にしか通えない事情があるのかもしれないとも、ちょっと思い直す。
「まあ、ね。碧生くんとは正反対の性格かもしれん子やけど、エエ友達・エエ好敵手になりそうな子ォやで。楽しみにしてて」
ニヤ、と笑った先生の顔になんとなく嫌な予感がした。
が、碧生は気持ちを切り替える。
これから、今まで書いたことのないサイズの作品を、今まで扱ったことのない良い筆と墨で、書かなくてはならないのだ。
コネを利用して贔屓してもらってるらしい、箱入りのお坊ちゃまに構っている余裕など、碧生にはない。
(どんな奴か知らんけど。基本オレには関係ないな)
けんかをする気はもちろんないが、表面上当たり障りなく付き合えばいいか、と碧生は思う。
……彼が今まで、そうしてきたように。




