1 木犀の薫る朝③
「ふーん。やってみたら?」
母に銀雪先生からの話を伝えると、あまりにもあっさり承諾され、碧生は拍子抜けした。
母はサバサバした口調で言う。
「それってメッチャ名誉なことなんやろ? エエやん、やってみィや。そんだけ先生が期待してくれてはるってことやしィ」
「あー、まあ。そう、やけど、な……」
嬉しい反面、速攻で素直に喜ぶのも違う気がしてしまい、碧生はもごもごする。
「でも、結構ガチめに練習することになるらしいで。水土の週二回だけやなくて日曜日の午後からやってる、大人のヒト対象の一般の部の方にも練習しに行くことになるみたいやし。まあ、最低それくらいはやらんと、教室の代表というか特別枠で出品するレベルの作品、出来へんやろうし……」
「そりゃあ…そうやろうなァ。気合い入れて、しっかり教えてもろたらええやん」
「えーと、紙とか筆とか、結構エエ値段するみたい……」
「あはは、なに言うてるのん。そのくらい出したげるって」
あまりに軽く、こともなげに母が言うので、逆に碧生は心配になってきた。
紙は、まあいい。
高いことは高いが、知れている。
しかし母は、筆の値段をかなり安く見積もっていないだろうか?
所詮は中学生の碧生が使うのだから、さすがに筆一本で何万円という上級品を買うことにはならないだろうが、安い半紙に書く練習用の筆ではないのだから、千円そこそことかではないはずだ。
墨も、墨汁ではなく固形の、ちょっといい墨が必要になってくるだろう。
この一回の展覧会のためだけにウン千円、場合によると万を超える可能性も、なくはない。
もぞもぞそんなことを言ってみると、母が呆れたような顔をした。
「はあ? だから、それくらい出したげるって。なんぼウチが貧乏やからって、それくらいなんとでもなるし。ヘンな遠慮なんかしやんと、ガーンとチャレンジしときィ」
「う……うん…」
なし崩しのうちに碧生は、今年の展覧会は『特別枠』にチャレンジする、と決まった。
碧生の家は両親共働きであるが、それぞれが別の、地元の零細企業に勤めている。
父は正社員(名ばかり管理職で、ろくに残業代も出ないのに繁忙期の残業はすごい)だが、母は月曜~金曜の午後三時まで勤めるパートタイマーだ。
今日明日の生活に困るようなことはないし、子供が、ひとつくらい習い事をしたり、将来大学進学を希望しても、ぎりぎり大丈夫な程度の収入はあるだろう。
が、だからといって余裕があるほどでもない。
その辺りの事情は碧生もわかっているから、遠慮するなと言われても遠慮したい(遠慮すべき?)気分になるのだ。
それより、と、母は不意に真顔になる。
「あんたさっき、日曜日も練習するからおいでって先生が言うてはったって、言うとったやん? ほんなら、そっちの方の授業料も必要なんと違うの?」
虚を突かれた。
銀雪先生は、特別枠で出品する決心がついたら日曜日の『一般の部』でも練習したらいい(というか、すべき、という雰囲気だった)からおいで、というニュアンスでしか話さなかったので、碧生としてはなんとなく、運動部の朝練みたいな、試合前の強化練習という気分でいた。
授業料が発生するとさえ思っていなかった。
しかし、言われてみれば母の言う通りだ。
銀雪先生は別に、ボランティアで書道を教えているのではない。
指導をする以上、そこに授業料が発生するのはむしろ当然だろう。
「とりあえず。一回お母さん、その辺も含めて先生と話してみるワ。あんたが『特別枠』に選ばれた、お礼というか挨拶というか、そういうのんもしたいしなァ」
うえぇ、余計なことをとちょっと思ったが、お金が絡んでくる話は大人同士というか、親と先生が直接、するべきだろう。
碧生は(不承不承)うなずいた。
母はさっさと電話をかけ、『一度直接先生にお会いして挨拶し、その時、必要なものなどの話も伺いたい』という内容を、いやァいつもお世話になってます、息子から話、聞きましたけど…いえいえそんなことは、とんでもないですホホホ、等々、変に甲高い、おばちゃんにありがちなヨソ行きのしゃべり方でたらたら話しているうちにまとめてしまった。
「明日の午後、あんたが学校から帰ってきたら銀雪先生ンとこ、挨拶に行くで。必要なお金とかも、その時に払うからな。後は悔いの残らんよう、一生懸命、やりや」
無料やないねんからシッカリやらなアカンで。
母らしい発破のかけ方に碧生は苦笑いをしたが、ようやくじわじわと嬉しくなってきて……やってやるぞ、という闘志も湧いてきた。




