1 木犀の薫る朝②
今日は水曜日。
放課後に書道教室のある日だ。
昨夜、碧生は母親と話した。
書道教室へ通うのは年内で終わり、新年からは学習塾へ通いたい、と。
「進学のこと、考えやなアカン時期になってきたしな」
碧生の言葉に、母はうなずきながらも少し眉を寄せる。
「せやけどアンタ、お習字、好きやろ?……やめて、後悔せえへん?」
「うん」
苦笑いをしながらうなずく。
「そりゃ好きやけど。せやけど、まずは高校受験のこと考えんと。お習字は、高校生になって余裕が出来てきたら、また始めてもエエんやし」
言いながら内心、無理だろうなと碧生は思っている。
正直、高校生になったからといって余裕ができるとも思えない。
思えないが、母に納得してもらう意味からも自分を納得させる意味からも、そこはあえて言い切る。
碧生の理想は国公立大へ現役で合格、だ。
それを実現させるには、最低でも地元の、府立津田高校へ入れなければならない。
碧生の今の成績で津田高は射程距離であったが、楽に進学できるというほどでもない。
油断していたら津田高さえ狙えなくなる、その程度の実力だという自覚が彼にはあった。
津田高は進学校だが、決して最上位の高校でもない。
ちょっと調べてみたが、津田高の偏差値は58~60。
口の悪い者から『津田は四年制(卒業後に一浪して、やっとそこそこいい大学に入れるレベルという意味)』と揶揄されている。
夏に受けた模試での碧生の偏差値は、科目によってばらつきはあるが平均すると57ちょい、という感じ。
津田高への入学がギリギリの現状を考えると、高校入学後もかなり真面目に勉強しないと、『国公立大へ現役で合格』は不可能。
となると、書道をやる余裕があるかどうか。
一年生の時ならまだしも、二年生以降は
(まあ、無理やろうなァ)
と碧生は諦めていた。
むしろ、大学生になってからの方がまだしも余裕を作れるのではないか?とも。
厳しいが、それが現実だ。
碧生が通う書道教室が属している書道結社は、毎年、年末に展覧会を開催する。
十月の声を聞くようになると、展覧会の参加者は月毎の課題だけでなく、展覧会用の作品も練習を始める。
最後に今年の展覧会に参加して、それで区切りをつけたい。
そう母に話し、了解をもらった。
今日はそのことを、書道教室の先生に話さなくてはならない。
ちょっと気が重いが、碧生としては、このくらいの話をするのにいちいち親に頼りたくはない。
「そう。わかりました」
墨汁のにおいが漂う教室の奥、朱墨を湛えた大きな硯の乗った広めの座卓の前にいつも通りに正座して、野崎銀雪先生は言う。
半白の髪をすっきり短めにカットした、あっさりサバサバした性格の先生だ。
この書道教室は昔ながらの寺子屋方式というか、自宅の一階の広い和室に、ちゃぶ台風の机をいくつも並べ、生徒はその前に正座で座り、書くという方式を取っている。
このやり方もイマドキ流行らないが、地縁が強いおかげもあるのか『地元の人』の家庭の子供中心に、口コミだけでポツポツ、途切れず生徒が来ている様子だ。
今日の分の課題を終えた後、碧生は先生に時間を取ってもらい、昨夜母に話した内容を、ところどころつっかえたり前後したりしながらも伝えた。
「ついこの間まで小学生やった碧生くんも、もう中学二年生やもんね。碧生くん、今、エエ感じに伸びてきてるところやから、本音言うたら辞めやんと続けてほしいんやけど……碧生くんの将来の夢もあるから、そうも言うてられへんしなぁ」
今は受験勉強頑張って、高校生になったらまた、心機一転して書道に取り組むのもエエやろうし。
半ば自分へ言い聞かせるように先生は言うと、少し頬を引いて真顔になった。
「いや、そんな話になるとは思てなかったんやけど。私、今年の展覧会、碧生君に『特別枠』で出品してもらおうかなって、ちょっと考えててなァ」
思いがけない話に、碧生は思わず目をむく。
『特別枠』とは文字通り特別、教室の主宰者である先生が、自分の教室の代表として推薦する生徒のための枠のことだ。
展覧会の華、ともいえる。
各教室で候補者が年に一人、出るか出ないかという(そもそも代表にふさわしい生徒がいない場合も多いし、推薦を受けられるのは一人の生徒一回限りという不文律もあるので、出ないことの方が多い。少なくとも碧生は、野崎銀雪書道教室から特別枠の生徒が出たという話を聞いたことはない)存在だ。
碧生にとって『そういうもんがあるらしいって話は、なんとなく聞いたことありますねえ』な存在である。
(へ? えええ? もしかしてオレ、色違いポケモンってか?)
やや混乱していたのもあり、碧生はつい、小学生時代に流行っていたゲームのレアキャラを連想してしまった。
「教室からの推薦になるから、出品料とかはかからへんねんけど。ここでの出品者は基本、半切以上の大きい作品を書いてもらうことになるから、筆と紙にちょっとお金、かかってしまうねん。せやから無理強いは出来へんねんけど……」
半切(大体、35㎝×136㎝に切られた画仙紙のこと)と聞き、碧生は一瞬、ギクッとした。
今までそんなに大きな作品を書いた経験は、当然ない。
「なんちゅうてもエエ経験になるし、やってみぃひん? 中学時代最後の、エエ思い出にもなるで」
『中学時代最後のエエ思い出』に、碧生は正直、かなりぐらッときた。
中学時代最後どころか生涯最後の『エエ思い出』になるかもしれない、とも、ふと思う。
それでも、一度親と相談しますと言う理性は、彼に残っていた。




