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クサのツカサ  作者: かわかみれい
1 守のツカサ〜中学生編
15/17

3 青蛙のいざない③

 真面目に決意したとおり、碧生はその夜、早々に床に就いた。


 思っていたよりは熟睡できたが、さすがに翌朝の五時前に目が覚めてしまい、もう眠れそうになかった。

 だがそこで彼は、今日提出の宿題が出ていたことを思い出す。

 あわてて起き出し、いつも起きる時刻までになんとか仕上げた。



 朝から集中して勉強したからか、頭が冴えている。

 木犀の花の香りもさすがにほぼ消え、朝の空気は鋭い。

 本格的な秋の気配。

 その冴えて爽やかな空気の中、碧生は、内心びくびくしながら通学路を行く。


(念のために体温はかったけど平熱やったし、朝飯も普通に食えた。シッカリ寝たから体調も万全。せやから大丈夫……)


 ……多分。

 もごもご思いながら彼は歩く。

 さすがに水路のそばは通りたくないので、いつもの通学路を通る。


 とあるお屋敷の生垣から、クリーム色に近い白地に薄い茶で縞がある猫が二匹、ひょこっと出てきて碧生の前を横切った。

 まだ若そうな、あまり見たことのない猫だったが、なんだか妙に堂々とした態度だ。

 横切りながら二匹は、意味ありげに碧生を見上げる。緑色の瞳が綺麗だ。

 二匹のうち半歩ほど先を歩いていた方の猫が不意に、にゃ、と短く鳴いた。

 また今度な、とでも言いたそうな雰囲気だった。


(な、なんや? 猫に、挨拶された?)


 だがまあ、人間の言葉で話しかけられた訳ではないので、碧生はちょっと安心した。

 猫だってたまに、通りすがりの人間へ気まぐれに挨拶したくなることくらいあるだろう。


 その日も、学校で特に何も起こらなかった。

 いつものルーティンで放課後になり、碧生は静かに帰宅する。

 予定では、今日も母は残業になるはず。

 言いつけ通りさっさと洗濯物を取り込み、今日こそは腰を据えて『明鏡止水』を書こう、と彼は思った。


 そう、碧生にぼんやりしている余裕などないのだ。

 今まで教わってきて、一応以上自分を認めてくれている先生に『顔だけ男前の自称アイドル(つまり中身がない)』などというひどい貶されようをされている現状を、ここ一ヶ月弱で克服しなくてはならない。

 今の『顔だけ男前』でも特別枠への出品そのものは可能なレベルではないかと、自惚れかもしれないが碧生は思っている。

 が、それでは嫌だ。

 あの『天衣無縫』の作者・ナンフウの前で情けない様をさらしたくない、という意地というか負けん気も大きいが、今のままでは何より、自分が自分に納得できない。


(まずは半切に、手本通りに書いてみることから始めるしかないけど……)


 始めるのはそこからだとしても、それ以降どうすればいいのか見えない。

 そんなことをぐるぐる考えながら、碧生は歩いた。



 自宅へ入り、着替え、ベランダの洗濯物をそそくさと取り入れる。

 今日はスズメもいない。

 ひそかにホッとしながら碧生は、取り込んだ洗濯物を手早くたたむ。

 この辺の細かな家事は、小学生の頃から母に仕込まれている。

 面倒くさいナが正直なところだが、やらないともっと面倒くさい(小言を言われる)ことになるので、さっさとやるべきことはやる。

 そして、今日こそ『明鏡止水』を書くぞ!


 自室の畳の上へ新聞紙を広げ、真ん中に半切用の下敷きを置く。

 その左側に朱墨の手本、右側に硯と筆。

 下敷きの前に正座し、硯の池に水を入れ、買ったばかりの墨を擦る。

 一通り墨の擦り方は教わったものの、ひとりで墨を擦るのは初めてだ。

 出来た墨液を筆に含ませ、何度か試してみる。

 いつも使っている墨汁の色になるのは、思っていたより時間がかかった。

 墨を擦るって結構疲れるんだなあ、と、彼は認識を新たにする。


 ようやくいい感じに墨が擦れた。

 下敷きの上へ画仙紙を置き、文鎮をそっと乗せる。

 手本を見ながら慎重に書く。

 『明』『鏡』『止』『水』。

 まずは一文字一文字、丁寧に。


 しばらく彼は無心で書いた。

 日曜日の夜に国語辞典で、『明鏡止水』の意味を調べてみた。

 『心の平静を乱すもののない、落ち着いた静かな心境』というような意味が書かれていた。

 その澄み切った心の状態を、曇りのない鏡・静止した水にたとえた四字熟語だと。


(明鏡、止水……)


 ふと、あの不思議な夢を思い出す。

 あの只中にいる自分の心は乱れているが、景色の静けさは『明鏡止水』ではないか、と、突然彼は覚る。

 恐ろしいのに嫌なのに、不思議と懐かしい、あの景色。

 疎ましいくせに心惹かれる、場所。

 何か、とても大切なものが見えそうな気が……。


「ただいまぁ。あおい~、碧生おるんやろ? 二階か~?」


 ガラガラと玄関を開ける音と共に、母の声がした。

 思考が一気に現実へと引き戻された。

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