3 青蛙のいざない②
碧生が、え? と思った瞬間。
カエルは再び跳ねた。
ピン、とでもいう空を切る音が聞こえそうな素早い動き、あまりに素早くて何処へ行ったのかわからない。
きょろきょろと辺りを見回したが、カエルは何処にもいなかった。
蒸発したのかと思うほど、影も形もない。
立ち止まってきょろきょろしている『中学生のお兄さん』を、大きなランドセルを背負った一年生らしい小学生が複数、不思議そうに見上げ、通り過ぎてゆく。
碧生ははっとし、我に返ったような気分でひとつ息を吐く。
(……えーと)
水路にいたアマガエルが、急に跳びついてきて。
そのカエルが、ツカサがどーとか若木がどーとかマツリがどーとか……。
(……うん。気のせい、やな)
そうに決まっている。
でなければ何だ?
カエルがしゃべるだなんて今どき安物のファンタジー小説でもやらない、ベタ過ぎる設定ではないか。
(オレ、さすがにちょっと疲れてんのか?)
このところ予想外のことが色々あったからなあ、と、碧生は強いて思う。
正直、己れの精神というのか脳みそというのかに、ちょっとどころではない心配が出てきたが。
無意識で頭を振り、碧生は当面、そのことについては考えないことにした。
気持ちを切り替え、彼は、早足で学校へと向かった。
それからは特に、おかしなことは何も起こらなかった。
いつも通りに授業があり、いつも通りに持参した弁当を食べ、いつも通り教室の掃除をしていつも通り下校。
拍子抜けするほどいつも通りのルーティンで、サクサクと時間が進む。
やはりアレは気のせいだったと、碧生はひそかに胸をなでおろした。
帰宅。
自室で通学リュックを下ろし、制服から部屋着へ着替えた。
ここのところ母の勤め先が忙しいらしく、今日からしばらく残業になると聞いている。
暗くなる前に洗濯物を取り入れておいてほしいとも言われている。
着替えてすぐ彼は、ベランダへ出て洗濯物を取り入れることにした。
(ねえねえ、あれがツカサ?)
(まだツカサになってないらしいよ)
(ほんなら何? ツカサの卵? ツカサの雛?)
(知らん)
電線にとまってしきりにジュクジュク鳴いていた雀たちから、そんな声が聞こえてきて……碧生は一瞬、硬直した。
そっとそちらを見てみると、電線にとまった雀たちは左右に首を振りながら、かわいい丸い目で固まった碧生を見ていた。
(こっち見てるよ)
(ホンマや! 聞こえたんやな!)
(ビックリしてるみたい)
(マツリが近いから卵とか雛でも、ウチらの声、わかるんやな)
そんなざわめきの後、雀たちはひときわ高くピイィイと鳴き、一斉にどこかへ飛んで行った。
腕に洗濯物を抱えたまま、碧生は茫然と、雀たちの消えた方向を見つめるしかなかった。
(……うん。やっぱオレ、メッチャ疲れてるみたいやな)
のろのろと部屋の中へ戻り、畳の上へ乾いた洗濯物をぶちまけると、彼はそう思った。
こういう時はしっかり休むべきだろう。
今日は母が帰ってくるまでの一、二時間、集中して『明鏡止水』を書こうと朝から楽しみにしていたのだが。
それどころではない。
押し入れから布団を引っ張り出した。
そして彼は、敷布団に倒れこんで掛け布団を身体へ巻き付けるようにし、強引にまぶたを閉じる。
(寝る!)
とにかく寝る。誰が何と言おうと寝る!
寝るったら、寝る!
おやすみなさい!
母が帰宅する物音で、碧生は目が覚めた。
取り入れた洗濯物については、出来ればもう少ししわにならないように置いてほしかった(もっと言うと、たたんでほしかった)と、母に小言を言われた。
が、ぼんやりとした虚ろな目で、うんうん、ごめんナと言う息子の様子に、母は何か感じたらしい。
「……ちょっと。どうしたん? 体調でも悪いん?」
心配そうに顔を覗き込んでくる母へ、碧生はへらっと笑う。
「あー、うん、ちょっとな。学校から帰ってきて、ナンかしんどいな~って思って横になったんやけど寝すぎてしもて。そのせいで、かえってしんどなったって感じやねん」
「そうなん? まあ最近朝夕冷えるからなァ、体調崩しやすい時期やし。アンタは風邪ひきこんだら高い熱が出てナンギするんやから、気ィ付けや」
「うん」
うわの空で返事する碧生へ、母は一瞬、真顔になったが。
それ以上は何も言わなかった。
(……もしかして、風邪、ひいたんかな?)
別に今、熱が出ている様子はないが。これから出るのかもしれない。
熱が出る前に、先に幻覚が出るタイプの風邪かもしれない。
後から考えると荒唐無稽だが、碧生はその時、真面目にそう思った。
やはり今日はよくよく休もう。
今のところ食欲はあるから、しっかり食べて風呂でよく温まり、さっさと寝よう。
思いがけず長い昼寝をしてしまったので、もしかすると夜は眠れないかもしれないが、それでも今日は布団に入り、目をつぶってじっとしていよう。
真面目に真面目に、彼はそう決意した。




