3 青蛙のいざない①
階段を降り、灯りの下に座って夕飯を食べ、食後に入浴して……というルーティンの中で、碧生は、いつもの碧生へとあっけなく戻った。
次に布団へ入ってぐっすり眠る頃には、少なくとも彼の意識の表層から、あの恐ろしい白い大地と青い空の悪夢のことは消えていた。
これはいつものこと、と強いて軽く考える癖が、十四歳になった今の碧生に備わっていた。
翌朝。
そろそろ終わりかけている木犀の花の香りが漂う中、碧生は学校へ向かう。
木犀の花の季節も終わりか、と思うと、少々センチメンタルな気分になってきた。
ふと思いつき、彼は道をひとつ、ズレる。
そちらは主に小学校への通学路で、中学校へ向かう場合はやや遠回りになってしまう。五分ほど時間をロスする程度だから、誤差の範囲内だが。
そちらの道は、書道教室と野崎さんのお屋敷の間にある道になる。車が二台、どうにかすれ違えるほどの広さの道だ。
町の中では広い方の道で、ランドセルを背負った小学生の姿もちらほら見える。中学の方が始業時間が早いので、今の時間帯なら小学生の数はそれほど多くない。
道をたどりつつ、碧生は白壁の塀を眺める。
野崎さんの屋敷の塀だ。
この辺りの『お屋敷』は皆そこそこ立派だし、言うなら銀雪先生の書道教室兼自宅も、周囲から見ればこじんまりしているが、十分立派な庭付きの日本家屋だったりする。
しかし野崎さんの屋敷は、その周辺のお屋敷の中でも一線を画している。
昨日野崎さんは、『ウチは昔この辺の庄屋だった』と言っていたが、そうであったとしてもあきれるほど広大な敷地のお屋敷だ。
長々と続く白壁の塀、時代劇に出てきそうな巨大な門は、知らない人が見たら由緒ある古刹かと思うような雰囲気で、きっとこの家は昔話に出てくる『○○長者』クラスの庄屋だったのだろう。
野崎邸の周囲は水路が囲んでいる。
それも、なかなか立派な石造りの水路で、大阪城のお堀のミニチュア版かと言いたくなる風情でさえある。
残念ながら今はほぼ水が枯れていて、水路の底に水苔っぽい緑色のものが張り付いている程度だが。
何故水路があるのかというと、屋敷の敷地内に泉があり、そこから今でも細々と水が湧いている……からだそう。
昔は水量も多く、この辺りの田畑を潤す貴重な水源だったらしい。
この水源を管理するのも野崎さんの家の大事な役割で、代々『泉の守』を務めてきた、と。
が、その泉も今はせいぜい、小さな池ほどだと聞く。
田畑どころか屋敷の周囲にある水路を満たすのも難しい量の水しか出ないと、小学生時代の生活科(地域の今と昔を学ぼう、とでもいう単元だった)で習った記憶がある。
田畑自体が町から消え、町のそばに草原も林もすでにない。
海に近い側の湿地は埋め立てられ、林や田畑は掘り返され、町は今、住宅や商店や小さな工場ばかりになっているのだから、水が枯れるのも仕方ない。
思うと、何故か胸がきゅっと痛んだ。
寂しいような、やるせないような……知らないはずの記憶を懐かしむような、不思議な感覚。
碧生は戸惑い、強いてそこから意識をそらせた。
(……とにかく。ここのウチは色々ととんでもないウチやったよな。小学校から見学に行った時、びっくりしたもん。お屋敷自体がメッチャデカかったし、あちこちに庭木とも思えん大木がゴロゴロ生えてたし、大きい蔵が三つはあったし。庭にでっかいケージがあって、そこでクジャクなんか飼うてたし)
クジャクは野崎家の象徴(家紋がクジャクらしい)だからと、先々代と先代の当主が飼っていたという話は、昨日、野崎さんから聞いた。
象徴だからって、クジャクを飼うという発想がすごい。
碧生がそう言うと彼は、さすがに私の代ではやめたよと言って笑っていた。
(……こんな家に、よう住んではるよなあ)
大きなお世話だろうが、碧生はそう思う。
ここに住むくらいなら、今のボロ借家に住んでいる方がましではないかと、ちょっと思った。
グェェコ。
突然、思いがけないほど大きなカエルの鳴き声が聞こえた。
なんとなく辺りを見回すと、水路の苔の上に小さなアマガエルがいた。
アマガエルと目が合うと(というのも変な話だが、碧生の感覚では『目が合った』ように感じた)、いきなり飛びついてきた。
アマガエルはその小さな体にしては驚異的な跳躍をみせ、ひと跳びで碧生の通学リュックのショルダーハーネスまで来た。
「うわーお」
思わず変な声が出てしまったが、カエルが一生懸命ショルダーハーネスにしがみつき、ひくひくとのどを動かしているのを見ると、碧生としては邪険に振り払うのも可哀相な気がした。
彼は静かに立ち止まる。
カエルをそっと捕まえて、水路の中へ戻してやろうと思った、その時。
葉擦れのような小さな小さな声が、こう言った。
『ツカサの若葉。いや、すでにお前は若木か。マツリの季節じゃ、来よ』




