2 青い空、白い大地④
のろのろと身を起こし、碧生は深い息を吐いた。
夕飯の時間、らしい。
彼はもうひとつ息を吐き、顔の筋肉をほぐすように両手で顔を包んだ。
両親にとっての『碧生』の顔になるように。
あの恐ろしくも不思議な夢のことを、碧生は基本、誰にも話していない。
とりとめがなさ過ぎて、他人に話しても『ふーん』という反応しか返ってこないだろうとわかっている。
怖いくらい美しい場所で、怖いくらい美しい巨大な白鹿に会って……ふうん、だから何?
そりゃ、話に聞く限りメチャクチャ綺麗で怖そうだけど……、で?
だって夢だし。夢は夢でしょ?
碧生が他人にそんな話をされたとしても、多分、そういう反応になる。
夢の中での切実な恐怖など、どう頑張っても他人と共有できない。
変わった夢だね、で終わりだ。
一度、何かのはずみで母にふっと、この夢の話をしたことがある。
あまりちゃんと覚えていないが、小学校低学年だったのではないかと思う。
母は、なんだか曖昧な顔をしていたが、一応、最後まで話を聞いてはくれた。
そして……、まあ、あんまり気にしやんとき、と、ややめんどくさそうに言って話を断ち切った。
碧生は生まれて初めて、絶望した。
この程度を絶望と呼んでいいのかと他人に問われれば、碧生自身ですら、そうだよなと思う。
思うが、あの虚しさ――唐突に、たった独り荒野へ放り出されたような寄る辺のない気分――は、悲しみや憤り、怒りとは違う。
諦めようと思う前から諦めている虚しさは、絶望と呼ばれる感情のひとつの形だろう。
この時に碧生は無意識のうち、他人への無邪気な信頼を手放した。
碧生にとって一番切実な恐怖を、この世の誰も共感してくれない。
それならば……今後他人とわかり合えるなど、期待するのも虚しい、哀しい幻想だ。
何処までも何処までも広がる、白い大地と青い空。
残響さえ残らない、恐ろしい無音の世界。
結木碧生という人間の大元に沈む心象風景は、本人でさえきちんとわかっていないうちに定まった。
温かみの一切ない、美しいが孤独な世界。
外界から隔てられたその世界に、碧生はいる。
否応なく。
そして、そこに自分がいることを他人に覚られてはならない。
そんな『おかしな』子供など、世間は認めない。
世間に認められない子供の末路が碌でもないであろうことくらい、十歳に満たない小学生であっても想像がつく。
碧生は生きていたかった。
静かに、ひっそりと。
『おかしな』子供として持て余されるのではなく。
顔を覆っていた手を外し、碧生は立ち上がる。
一瞬立ち眩みがあったが、頭痛は治まっていた。
もうひとつ大きく息を吐き、碧生は静かに階段を下りた。
両親にとっての『結木碧生』から、ズレない顔を作りながら。




